10

文字数 2,608文字

 五日間が過ぎて、やっと肋の痛みが治まって来た。
 世の中がお盆休みに入ったこの時期、メインクライアントの家電量販店はサマーセールで大忙しだろうが、僕達の仕事は少し前に落ち着いていて、夏期休暇を取っている同僚も多い。は記録的な猛暑となった今年の夏は、シーズン後期になってもエアコンの売り上げが落ちないらしく、クライアントの機嫌も上々で、今週は安閑とした日々が続いていた。僕は仕事をしている振りをして、朝からインターネットの中の、どうでもいい情報を覗いている。
 石田ユイからの電話は、まだない。
 人間は不思議だ。とんでもない事に巻き込まれたと頭を抱えていた癖に、退屈な日常が戻って来ると、何故だか妙に物足りない。どうせやらなければならない事なら、早めに片付けてしまいたい。一人ではとても出来ない事が、あの女が共犯なら出来る気がして来た。
 インターネットのポータルサイトで、くだらない芸能ニュースを眺めながら、彼女の顔を思い出す。ひんやりとした手の感触と、左肩に触れた胸の柔らかさも。僕みたいな三流の男が、あんな一流の女と仲良くなれる訳がない。そんな事は遺伝子レベルで分かっているが、目の前に置いた携帯電話が気になって仕方がない。
 蹴飛ばされたり睨まれたりしたけれど、不思議と彼女が憎めなかった。墓場で手を合わせて泣いていたユイの姿は、純粋でぞっとする程美しかった。普段通りに生活していたら、一生知り合う事もない美人。そんな女と、僕は共犯関係になる。
 だらだらしている内に、お昼になった。携帯電話と財布を持って、コンビニに向かいながらも、僕はずっと石田ユイの事を考えていた。彼女は外資系の保険会社で働いていると言っていた。それは一体、どんな仕事だろう。何の保険にも入っていない僕にはまるで想像がつかない。外資系と言う事は、英語を話せるのだろうか。今頃彼女は丸の内か六本木のオフィス街で金髪のエリート白人男とランチを楽しんでいるかも知れない。
「オベントニ オハシハ オチュケシマスカ?」
 明らかに日本人ではない店員に、箸じゃなくてフォークを下さいと言えない自分が情けない。僕のランチはファミリーマートの大盛りナポリタン弁当だ。
 エレベーターに二回乗っている間に、着信はなかっただろうか。割り箸でケチャップ麺を啜りながら、僕は留守番電話を確認した。新しいメッセージはお預かりして居りません、ご利用ありがとうございました。愛想ゼロの声が弁当を味気なくさせる。仕事をしていると言う事は、彼女は独身だろうか。最近では結婚をしても仕事を辞めない女性も多いと聞く。結婚しているとしたら、相手はどんな男だろう。今度会った時、さり気なく結婚指輪をしているかどうか確認してみよう。
 電話は鳴らない。
 僕はいつの間にか、ユイの電話を心待ちにしている。彼女はもしかして、番号を間違えてメモしていないだろうか。そうだとしたら、あの骨はどうなる。僕の方から連絡したら、彼女はまた怒り出すだろうか。
 思えばここ最近、ユイどころか誰からの電話も鳴っていない。着信履歴の直近は二日前にかかって来た間違い電話で、その前はお盆に返って来いと言うお袋からの電話だった。
 デスクの固定電話から自分の携帯に電話してみた。壊れていない事が分かって安心したが、堪らなく虚しくなった。

 家に帰る途中、アダルトビデオを借りた。普段なら十八歳になりたてのアイドル顔を選ぶ僕が手に取ったのは、OLのセクハラ物だった。パッケージと中身の落差には、いつも泣かされる。普段さんざん仕事で画像処理ソフトを使っているくせに、巧みなレタッチを見抜けない。今度こそは騙されないぞと目を細め、改竄の痕跡を探す。真剣にパッケージを見ているうちに、この仕事をしたデザイナーに同情心が湧いて来た。毎日毎日女の顔を修整しニキビを消して皺も消し、胸の谷間に影を付け、卑猥なタイトルを卑猥な書体でレイアウトする。その仕事は僕の仕事とどちらが辛いだろうか。今までパッケージで騙されたビデオは、逆に言えば優秀なデザイナーの職人技とも取れる。そんなくだらない事を考えながら、いつものようにコンビニに寄り、弁当と発泡酒を買って家に帰った。
 変化が欲しい。
 クーラーを点け、汗で湿った服を脱ぐ。パンツ一丁で味気ない弁当を平らげ、DVDを再生すると、さほど期待を裏切らないそこそこの女が、誰もいない夜のオフィスで残業しているシーンが始まった。男なら誰もが予想する通り、おっ、頑張るねえ、と言いながら胡散臭い上司が現れて、女の肩を揉む。その手は次第やんちゃをし始め、遂には嫌がる女の胸を鷲掴みにする。やめてくださいと懇願する女。やめる訳がない。これはエロビデオだ。僕は煎餅布団に横になり、ティッシュペーパーを五枚引き抜いて股間前に広げた。パンツを下ろし、左手にリモコンを構え、右手で股間の短銃を構える。
 じっとりとした視線を感じた。
 振り返ると押入れの扉が半分開いている。元々開いていたような、さっきまで閉じていたような、そんな事よりも僕をぎょっとさせたのは、押入れの中にリュックサックが見えたからだ。日曜日に家に帰って押入れに放り込んで以来、骨壺はそのままリュックの中にあった。
 短銃が水鉄砲以下に萎んで行く。慌ててパンツを上げ、意味無く赤面したその時、携帯電話が鳴った。
 脱ぎ散らかしになったズボンを探り、大急ぎで電話を取り出す。心臓が跳ねた。留守番電話に切り替わる直前に電話を開くと、液晶画面に表示されている発信者は、石田ユイだ。
「はいっ、もしもしっ」
 待ってましたとばかりに元気良く言ってから、失敗したと思った。僕は舌の先を噛んで、ユイの声を待つ。
「あんた明日空いてる?」
 来た。
 ユイはぶっきらぼうに用件だけを言い、僕たちは明日の土曜、夜七時に三郷駅南口の交番前で会う事になった。僕は気が乗らない振りをして、口を閉じ気味にして分かったと答えた。
 ちらりとリュックサックを見た。気の所為に決まっているけど、何だか骨に笑われている気がする。僕は押入れの引き戸を閉め、「じゃあ明日」と格好良く会話を結んだ。
「じゃあね。あ。あんたさあ、電話する時ぐらいエッチなビデオ止めたら? ま、別にどうでもいいけど」
 一方的に電話は切られた。振り向くと、ほっぺたにセクハラ上司の精液をかけられたOLが、テレビの中から僕を見ていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み