第22話 妻の優しい言葉(テーマ「趣味」 2023年6月)

文字数 1,799文字

「朝食ができましたよ、あなた」その声を聞き、夏木は寝室を出る。冷蔵庫の扉を開けると、洗った直後の顔面を冷気が包む。そこから取り出したビニール袋をテーブルに置いた。
「今日はおかかと明太子だったな」おにぎりを包装するフィルムを摘まんだ。
「あら、あなた? 温めはいいの?」電子レンジでの温めを勧める優しさ。毎朝の繰り返しが、愛情を育む。しかし夏木は、いつも断った。おにぎりというのは、握ってから相当の時間を経て口に運ばれるものだ。今朝も夏木は、冷たいおにぎりを頬張った。
「夏木課長、元気か?」喫煙室で新聞を読んでいると、同期の秋山が話しかけて来た。同期の彼は、直属の部長だ。しかも役付。昼の会食も多いので、喫煙室に来るのは珍しい。そんな秋山から話しかけられ、夏木の表情はこわばる。
「ああ、秋山部長。お陰様で」意識的に肩書を強調し夏木は続けた。
「忙しいのに、喫煙室ですか?」立場上、敬語を使わなければならないが、同期らしい態度もとりたい。そんな気持ちがむしろ言葉を詰まらせる。
「ああ、今日はアポなくて」
「よかったです。体は大事に」
「そうね。それより俺たち、もう来年には定年だ。仕事はまあ出向とか、再雇用とかあるけどな」
「頼みますよ、部長さん。もう誰が上司になっても、俺は大丈夫」
「皮肉だね。でもこればっかりはな」
「役付部長様がそうなら、俺なんて、もう」少し真顔で嘆いてみたが、秋山は表情を変えずに話題を変えて来た。
「何にしても今までより暇になる。余った時間をどう過ごすか? 切実だろ?」
「確かにな。秋山部長のところ、奥さんは?」
「子育てが終わって、ボランティア活動一筋さ。休日は俺一人。ゴルフも接待目的だからな、実は好きじゃない。夏木はどう? 何か趣味あったか?」少し間を空け、夏木は応える。
「趣味ねえ」そう言って夏木は紫煙を吐く。その煙が夏木の頭上で輪を描いた。学生時代に習得した得意技だ。
「おっ、久々の技だね。ま、お前も無趣味か。釣りとか将棋とか、夏木と一緒にやれたらな、と俺は思う訳」秋山は時計を見てそのままドアまで歩いた。「あとお前、顔色悪いぞ? 医者に診せろ」と言って出て行った。
 仕事を終え、夏木は駅前の居酒屋に入った。大きなホッケに醤油をたっぷりかけ、口に運ぶ。冷酒には最高の肴だ。満足し煙草をふかしながら歩く。一本目を吸い終わる頃、自宅の灯りが見えてきた。三十年前に無理して買った駅近の一軒家。二人暮らしには少し広いが、子どもができれば手狭になると心配した。それは杞憂だったが。
「ただいま」
「おかえりなさい、あなた。夕食はお済みね。お風呂、沸いてます」
「ああ、ありがとう」そう言って夏木は浴室に向う。脱衣所に入ってワイシャツを脱いだ瞬間、背中に激痛が走った。

 無断欠勤などしたことが無い夏木を案じ、部下の春田と秋山が自宅を訪ねたのはその二日後だった。自宅の鍵はかかっておらず、春田が「お邪魔します」と玄関から上がり込む。その瞬間、奥から女性の声が響いた。
「おかえりなさい、あなた。夕食はお済みね。お風呂、湧いてます」おそらく夏木の妻だが、姿が見えない。不思議に思ったが、廊下の先に人の頭らしきものが見える。夏木のようだ。
「夏木課長!」「夏木!」二人が呼んでも返事はない。既に夏木の体は冷たく、硬直していた。救急車で病院に運んだが、到着と同時に夏木の死亡が確認された。死因は大動脈解離だろうと医師は見立てたが、状況から自宅での異状死として扱われる。夏木の亡骸は救急外来の奥に置かれ、警察が検死を行った。事件性を疑う外傷はなかった。一方で家族はおらず、発見者の春田が事情聴取を受けた。そして夏木の自宅では検視が進められた。
 警官が夏木邸に入ると、女性の声がした。
「おかえりなさい、あなた。夕食はお済みね。お風呂、沸いてます」不審に思った警官がリビングの戸を開けると、そこには高さ一メートルほどの白い円柱が、緑と赤の光が点滅させながら立っていた。「これは?」警察官が言葉を発すると、円柱が反応した。「あら、お土産ですか? 嬉しいわ」
 夏木の自宅には、妻の役を演じる機械が置かれていた。二十年ほど前、彼女が夏木の家から出奔して以来、彼自身が作製したもののようだった。「そう言えば、夏木はロボットとか、コンピューターとか、趣味にしていたよな」夏木の趣味を思い出した秋山の目には、涙が滲んでいた。【了】
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