第6話 最後の一杯(テーマ「別れ」2022年6月)

文字数 1,312文字

「すっげー」

 思わず感嘆の声を上げてしまった。目の前に延びる人の列。子どもの頃、混んでいる所に行ってはいけない、と教わっていたので、今でも人混みは苦手だ。ただそれ以来、並ぶ時には前後の間隔を十分に空ける、というのが常識になっているらしい。また、こういう場ではマスクで口や鼻を覆うことがエチケット、という考えも根強く残っている。でも思う。マスクは何度も付け外ししている方が不潔だ。使うならずっと付けていればいいし、使わない人は極力人と喋るべきではない。相手が付けていようがいまいが、その部分は非難しない。それでいいと思うのだが。

 それはともかくこの長蛇の列。やはり尻込みしてしまうが、並ばない訳にはいかない。ネット注文の持ち帰りや宅配は先週で終了になっている。しかもサイトが混み合い、なかなか繋がらなかった。そう、実は僕もありつくことができなかった口だ。だからこうして並ばなければいけない。なんとしても味わっておきたいのだ。


 職場の先輩は、子どもの頃何度も食べたと言っていた。冷凍食品としても売られていて、親が不在の時には一層食べたのだとのことだ。僕の祖父は、一時的な品薄が解消した時に並んで食べに行ったことを懐かしそうに話してくれた。ずっと愛されてきたのだということが分かるエピソードだ。僕は大学時代も自宅通学だったのであまり利用する機会はなかった。社会人になってから、だんだん世の中が変わっていった。健康志向、環境問題、動物愛護。そういった人間の発想が、人間の行動を制限する。もちろん新しい技術でより良い世の中が出来上がるのは、歓迎すべきことだ。そして僕らのために犠牲になる生命が減るのであれば、それも喜ばしいことだろう。でも、どうだ。ここに並ぶ僕たちは、本当にそれを望んでいると言えるのだろうか。

 静かに、ゆっくり進む波と一体化しながら、そんなことを考えていた。そして思い出す。最初は鯨だったな。これはしかし、元々愛着があった訳ではないので、何となくしか覚えていない。それこそ祖父が買ってきたベーコンを味見させてもらった程度だった。次に覚えているのは、鰻。子どもの頃から特別なメニューだと認識していたが、ある時から食べる機会がむしろ増えていた。それが鰻を模した鯰だと知った時は、結構驚いた。本物の鰻が食べられなくなる、と言って老舗の鰻屋さんに家族で並んだあの光景と、そのふっくらした肉質は今でも思い出せる。確かに鯰とは違った。もうあれも、アーカイブでしか味わえないのだ。


 店の自動ドアが近付いてきた。人が多すぎ、ドアは開いたままだ。券売機は使っていない。皆同じメニューを注文するのだから、今日は必要ない訳だ。僕の鼻孔にあの芳香が入ってきた。唾がたまる。胃腸が動き出す。早く、早く食べたい……。

 僕はようやく丸椅子に座り、いままでの待ち時間が嘘だったかの如き速さで提供される丼を見つめる。紅生姜と七味唐辛子をしっかり振りかけ、スマホで撮影した。

「いただきます!」

 こうして僕は、最後の牛丼を味わう。これから先、こんなリアルは経験できないのだ。令和に生きてよかった。僕はそう思っている。

【了】                
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