第21話 後夜祭のあと(テーマ「祭」2023年5月)

文字数 1,840文字

 目が覚める。同時に強烈な口渇に襲われた。俺は起き上がり、覚束ない足取りでキッチンへと向かった。シンクに寄りかかって蛇口を回す。カルキ臭い水道水が最高に旨く、胃に浸み渡る。その数秒後、突如みぞおちが収縮し、俺は催した。耐えきれずトイレに駆け込み、黄色い胃液で便器を染めた。空の胃袋はしかし、まだ動きを止めない。畳に敷きっぱなしだった布団の上に胡坐をかき、酒臭い部屋を見回す。散らばる容器や空缶が昨晩の出来事を少しずつ思い出させる。そうだ、学園祭――。胸騒ぎを覚え、ズボンのポケットをまさぐり、寝ていた布団を引っ剥がす。ない。スマホをどこかに落としてきたようだ。
 まずいことになる。焦った俺は体を起こし、勉強机へと向う。そこに昨日のシャツが脱ぎ捨てられていたから。その近くにあるのでは? 無ければ大学まで探しに行かねばならず、そのシャツを着ようと思った。汚いが、昨日と同じ恰好の方が見つかるような気がしたのだ。シャツの下にはマクロ経済学の分厚い教科書と、小さな鍵が隠れていた。そして俺は思い出した。どうせ後夜祭では泥酔する。スマホを持っていたら何をしでかすか分からない。そう思った俺は自室の机の引き出しに、しかも鍵をかけてスマホをしまい込んだ。そして手ぶらで後夜祭に参加したのだった。
 俺は昨晩スマホをいじらなかった。鍵の状況からそう思ったが、確認した方がいい。俺は鍵を開け、画面をタップした。大丈夫だ。やはり昨晩は誰にも発信していない。続けて着信履歴と受信ボックスを確認した。何件かの着信はサークルの同期と母親だ。これは問題ない。受信ボックスは迷惑メールとSNSからの通知で埋まっていた。SNSのチャットを覗けば、昨日の賑わいが残っている。酔った俺を心配してくれるコメントがいくつか書き込まれているが、その中に早織さんからのものはなかった。彼女は三年生。一年生の俺からすれば神だが、実は二浪の俺と同い年。俺は彼女を、ずっと見て来たんだ。酔ってその先輩に告白メールなどを送ってしまうのではないかと本気で心配したが、杞憂だった。スマホを持たないという選択が奏功した。安心して画面をみると、時刻はもうすぐ五時だ。無為に過ぎた今日を後悔しつつ、何となく気忙しい。その時、ショートメールの受信を知らせる音が鳴る。
「用は何?」早織先輩からだ。この武骨な態度がまた可愛い。用があるとこちらが言った記憶はなく、そのような履歴もない。昨日、学祭会場で俺が何か言ったのだろう。急激に不安が広がり、その何かのために怒られている様な気がして返信をためらっていた。「何かあったんでしょ?」五分過ぎてもう一通届く。返事を送らないことに限界を感じたが、俺の指は動かない。

 ピーンポーン。所在なく洗濯ものをより分けていた部屋に機械音が響く。立ち上がるとまだ少しフラフラする。このキツイときに誰だよ、と不満を感じながら歩き、靴箱に寄りかかって扉の魚眼を覗いた。早織先輩だった。飲み会明けを感じさせない肌と表情で扉の前に立っている。地味なトレーナーはいつも通りだが、前面の膨らみが目立つ。アルコールに浸かっている俺の脳には刺激が強い。俺は扉を開け、先輩に頭を下げる。
「えっと、どうされましたか?」
「どうされたは、こっちの台詞じゃわ。昨日、言われた通り、五時にうちで待っとったんよ?」頬を少し膨らます先輩に見とれつつ、霧の中でバラバラに存在していた点たちが、徐々に整列し始める。
「それでメール送ったけど、返事くれんけえ、うちが来たんよ」
 霧が晴れ、一本の直線が視界に現れた。そうだ、俺、昨日……。
「三嶋くん、『酔ってるから今日は言いません』の一点張りじゃもん。うちも酔って、調子に乗って責めちゃったけど。で、君が『明日五時に行きます』って耳元で言ったんよ? でも来んし。まあ二日酔いじゃろうけえ、もう、うちが来てしまった」
 急速に顔面が染まった俺は、先輩を部屋に上げ、扉を閉めた。ぐちゃぐちゃの洗濯物や敷きっ放しの布団が視界に入る。布団からはヘッドフォンが覗く。しかも、酒臭い。
「三嶋くん、ダメじゃあ。でも、教えて」
 俺は早織さんの瞳を見つめた。もう覚悟を決めるしかない。
「分かりました。じゃあ、言います。いいですか?」
「うん」目を輝かせながらうつむく早織さん。やっぱり綺麗だ。そして俺はずっとこの人の大ファンなのだ。

「あの動画のサオりんだって、俺、分かっちゃいましたよ……。浪人時代から、ずっとファンでした」

 【了】
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