第10話 忘れさせてあげる(テーマ「忘却」2022年9月)

文字数 1,911文字

「あのコのことは、忘れさせてあげるわ」
 そう言って、和枝は僕の唇を塞いできた。それからはされるがままに快楽を味わった。気がついた時には、カーテンの向こう側が明るくなっていた。鳥がさえずり、オートバイの音が聞こえる。隣で寝ている和枝は、上半身にだけパジャマを着ており、目のやり場に困った。

 僕は和枝を起こさないよう、そっと起き上がった。そして物置と化している勉強机に載っている時計に目をやった。時刻は五時三十二分。意外に早く目が覚めてしまったのだなと思う。水曜日なので、資源ごみを出さなければならない。空き缶がぶつかる音に気をつけながら、大きなビニール袋に溜まっているビールや酎ハイの缶を入れていった。昨晩和枝と飲んだものだけでなく、ここ一か月分は溜め込んでしまったので、結構な大きさになってしまった。

 まだ早いとも思ったが、水曜なのでそのままごみ捨て場に空き缶を運んだ。水曜日一限はスペイン語の講義だ。この授業は、出席点が高ければ試験が悪くとも単位がもらえることで有名だった。だから早めに部屋を出たい。

 戻ったら和枝に朝ご飯を作ってやろう。昨晩の出来事から考えると、和枝と僕は、これから恋人として付き合っていくはずだ。一人暮らしも二年目になり、僕の料理の腕前は大きく上がっている。今朝は目玉焼きにベーコンと法蓮草のバター炒めだ。パンが焼ける匂いで、和枝は目を覚ますんじゃないだろうか。まだレパートリーは少ないし、一般的なメニューばかりだが、この方が実用的だ。

 法蓮草をまな板に並べ、包丁を入れながら、僕はこのアパートで初めて作った食事を思い出していた。あれは確か、袋入りの即席ラーメンだ。壁に吊ってある小さな鍋でお湯を沸かし、麺を投入したんだな。確か具は、生卵と乾燥ワカメだけ。それすら初めてだったから、本当に出来上がって驚いたよ。懐かしい。ガスコンロのツマミを回す。カチッと音がして火が付いた。フライパンを左右に傾けながら溶け始めたバターを広げ、再びコンロに置いた。すかさず法蓮草とベーコンを載せ、菜箸で混ぜ込んでいく、いかにも葉っぱ然として大きく見えた法蓮草が徐々に小さくなっていく。ベーコンに焦げ目が見えはじめ、バターの香りがキッチンを支配した。これで和枝が起きてしまうかもしれないな、と少し期待しながらガスコンロのツマミを逆方向に回した。和枝はまだ目を覚まさないようだ。

 じっとりとバターを含み濃い緑色に変わった法蓮草と、辺縁が茶色付いたベーコンを皿に移し、続けて目玉焼きを作る。バターは拭き取らず、オリーブオイルをフライパンに垂らした。数秒加熱した後、生卵を二つ落とす。コップ四分の一程度の水を入れたとき、フライパンはジュジュジュと音を立てた。間髪入れずにフライパンに蓋をする。そういえば、最初の頃は蓋をすることを知らなかった。水を入れて、蓋をするとうまくできると教えてくれたのは、あれっ? 誰だっけ?

 それがいつのことだったのかも含め、僕は思い出せなかった。でも和枝が満足してくれれば問題ない。三分ほどで火を止め、目玉焼きも皿に移した。移すくらいでは割れないが、箸で割ると内側から黄身が少し漏れ出る。この絶妙な火加減を、和枝に味わってほしい。そして、褒めてもらいたい。僕はそう願いながら、オーブンに食パンを二枚並べる。先にバターを塗っておくと美味しい。が、これも僕の家の習慣ではなかった。誰にいつ教わったのだろう? パンが焼ける香ばしい匂いが部屋に充満し、期待通りに和枝がモゾモゾと動き出す。

「あれっ、なんで私、こんな格好? あっ、いい匂い。二日酔いでも、お腹空くね!」
 こんな台詞を聞ける朝。僕は幸せを感じていた。だから朝の料理中、思い出せなかった人がいたことも忘れていた。大学で友達と過ごす昼休みまでは。

 大学の食堂で何人かと喋りながらも、僕は気になって仕方がなかった。仲が良さそうな五人の集団。昨日も会っているような話だが、このうちの二人を僕は知らない。しかし彼らは僕のことを知っている。誤魔化すのはなかなか大変だった。夕方になり松木に打ち明けてみた。僕はあの二人を知らないと思うのだが、と。二年生になって知り合った松木は、講義のいくつかが重なっていて仲が良い。実は和枝も、松木の紹介だ。その松木が驚いて言う。「えっ? あの二人、お前が一年の時から知ってる奴らだろ? 俺はむしろお前に紹介されたんだぞ?」

 和枝の不思議な力により、去年一年間で新しく知り合った人の記憶が抹消されていた、と僕が知ったのは、それから一か月経った雨の午後だった。僕の浮気がバレ、和枝に脅されたのだった。         

 【了】
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