第7話 医局人事(テーマ「秘密」2022年7月 畠中惠先生)

文字数 1,765文字

「じゃあ、下田先生は、岡崎病院を希望、ということで、いいね?」
「はい、よろしくお願いいたします!」
「うん、教授にはしっかり伝えるよ」

 まだ医者になって五年しかたたない下田君の面談を終えて、一息ついた。大学病院の小児科で医局長をしている俺は、県南部にある公立病院へ、医局員たちの面接に来ていた。この公立病院は半年後に小児科を廃止することが決まっており、現在ここに派遣している三人の異動先を考えるのが目下の俺の仕事である。実のところ二年前に産科が閉鎖され、いつかはこうなると皆思っていたのだが、周辺の住民の要望も強く、なんとか入院機能のある小児科を存続させていた。だが、それも限界だった。なるべく近隣の病院へ人員を割り振りたいのだけれど、本人たちの希望もある程度は聞いておかないといけない。そういう調整を行うのが、医局長という肩書の職務なのだ。最終決済はもちろん小児科の神山教授にかかっているのだが。

 俺は面談を振り返りながら、神山教授への報告書を書いていた。部長の上村先生。もう還暦手前。部長歴も十年を超えている。まさかここで異動になるとは、という思いだろう。今更誰かの部下になるのも、お互いやりにくい。神山教授と実は同期だが、東央大学医学部から来た教授と、九州の私大卒だった上村部長では立場が違い過ぎる。ご実家の上村総合病院は同じ小児科医のお兄さんが継いでおり、帰る場所はない。希望は岡崎病院の副部長。岡崎病院とは、この地域最大の民間病院で、給料も休暇もしっかりしていると評判の人気施設だ。そう簡単に入り込めるポストではない。が、俺は笑顔で答えた。
「教授にしっかりお伝えします」

 そしてもう一人、中堅の中井先生。子どもが小学生になったばかりの女性医師である。当直は週末のみの限定ではあったが、この公立病院には欠かせない戦力だった。ちょっと頼りない上村部長とまだ若輩の下田先生の間に立つ監視塔のような存在でもあった。そんな彼女の希望ももちろん、岡崎病院だった。何しろしっかり交代制で働ける。福利厚生も地域ナンバーワンだろう。一方で神山教授は、中井先生に大学に来てもらい、女性が活躍できる職場であることをアピールしたいと思っているようだ。そんな思惑は内に秘め俺は笑顔で答えていた。
「教授にしっかりお伝えします」

 下田君にしても、今までとは全く違うしっかりした環境で研鑽を積みたいという希望もあっての、岡崎病院志望である。大学としては、臨床でも研究でも貴重な労働力なので、この年次の若手は是非欲しい。岡崎病院はもちろん、この南部公立病院の小児科閉鎖についてできるだけ協力したいと表明していたが、医師三人をまとめて受け入れてくれるだけの余裕は流石にないだろう。実際大学には、中堅か若手を一名補充したい、との要望が岡崎病院から出されていた。額面通りいけば、これは中井先生か下田君に当てはまる話だ。

 三人の希望先の欄が岡崎病院で埋まったエクセルシートを眺め、俺は思った。岡崎に行かせてやる、と約束した覚えはないし、その義務も俺にはない。さて、教授の意向はどうだろう。教授は東央大のエリートだが、実はこの地方医大卒の俺と米国留学先が同じだった。俺の留学中に教授選があり赴任した。俺が帰国したとき、妙に仲間っぽくベタベタしてきた。それで俺は、出世のチャンスをつかんだ。研究の時間が減っているのは腹立たしいのだが、数年間の人事調整をうまくこなせば、次の准教授だと言ってもらった。そうでなくとも、どこかの私大にねじ込んでもらえるだろう。

 俺はまず、上村部長の希望を県北部の国保施設である有床診療所に書き換えた。ここは医局からの派遣が追い付かず、内科医が小児の診療を行っている。上村先生なら、成人の診療も厭わないはずだ。これで医局も、一つ貸しを作れる。そしてここは、代わりに誰かを異動させる必要がない。

 俺は自分のやっていることが素晴らしいことに思えて来た。では、あと一人。そのとき、電話が鳴った。教授の個人携帯番号からだ。仕事に関することなら医局秘書の番号のはずであり、夜の店への誘いか何かだろうと思いながら画面に指を滑らせた。


「おい、キミ。アメリカの例の製薬会社からのカネだが、あれは全て君の一存でやった。それで頼むぞ。いいな」     

 【了】 
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