第32話『ロバの妖精と反抗期』
文字数 3,184文字
少女は、確実に、メル⁼ファブリを見ていた。
深い茶色い長髪、目尻のつり上がった少女は、メル⁼ファブリを見て、「あ、あ」と言葉を詰まらせている。
メル⁼ファブリが咄嗟 に、巣に戻ろうとすると、少女は、「待って! 」と、言葉を吐いた。
「メル、でしょ? そうなんでしょう? 」
名前を呼ばれて、メル⁼ファブリは立ち止まった。
「やっぱり」
少女は、しゃがみなおすと、手を差し出してきた。指には、かつて、ウール・ロスに贈った、林檎の種の指輪が はまっていた。
「私は、キーラ・ロス。よろしく」
少女は言った。
「ロス……」
「そう。アナタ、知ってるわよね? ウール・ロスって。私の、ひいばあさんの名前」
聞かれて、メル⁼ファブリは こっくり頷 いた。なるほど、呼んでいたのは、この少女だったのか。
メル⁼ファブリはウール・ロスが亡くなったことしか知らなかった。つまり、ウール・ロスが亡くなって、すぐに、汽車に乗ったのだ。コリンと故郷は同じであれど、時代は まったく違うのだ。
妖精たちから、コリンの時代でメル⁼ファブリを呼んでいる人間がいると聞いていたが、彼女の子孫が呼んでいたのか。
「アナタ、ずっとここにいたの? 」
あのね。
「私……なにを言っているのか、分からないかも知れないんだけれど、私、きのうまで、まったくアナタたちのことが見えなかったの。でもね──」
キーラは はめた指輪をメル⁼ファブリに見せた。
「これを つけてから、なんだか、私の世界が、変わったのよ。本当に そうなのかって言いたいんでしょう。絶対に、この指輪のせいなの。この指輪をつけた、その瞬間からだったんだもの」
さいしょは家の中に ちいさな、人形みたいな、岩みたいな、そんな、イキモノが見えたの。
「険しい、頑固おやじみたいな顔をしていて、フゴフゴ 鳴いて、床に置いた、パンとミルクを ぺろぺろ舐 めていたわ」
ひいばあさんの言いつけでね、毎日 朝と晩、ミルクとパンを、リビングの床に置いておくことになっているのよ。
「びっくりしてね、指輪を外したの。そうしたら、まるで幻覚でも見ていたように、岩の小人は消えてしまった。また、指輪をつけた。見えるの」
私は気がついた。私、妖精が見えてるわって!
「私は、妖精がパンやらミルクやらを ぺろぺろ やるのを、静かに見守った。なるべく、見えていない振りをしてね。両親に相談しようかしらって思ったけれど、やめたわ。私は、ひいばあさんみたいになりたくなかったの。“特別な子”になんて──」
パン、食べる?
キーラは、持って来たバスケットの中から、パンを取り出して、メル⁼ファブリの前に置いた。メル⁼ファブリは手を出そうか悩んで、やっぱり、パンを掴 んで、おおきな口の中に放り込んだ。
「私ね、毎朝毎晩、ここに来てるのよ。知っていたでしょう? 」
キーラは言って、でも──と首を傾げた。
「どうして今までパンを食べてくれなかったの? きょうは食べてくれているのに。どうして」
まあ、いいわ。と、キーラは言って、口をつぐんだ。
ロバの瞳を見つめて、やさしく微笑む。その微笑みは、いつかのウール・ロスを思わせた。
「ここ、失礼していいかしら? 」
しゃがむのに疲れたらしい。キーラは そう言うと、メル⁼ファブリの巣穴の横に腰を下ろした。ひざを抱えて座り、メル⁼ファブリが逃げないことを確認した。
「アナタに会えて、よかったわ」
キーラは言う。手を顔の前に伸ばして、指輪を見つめた。
「この指輪。アナタが作った物なんでしょう? 父が言っていたわ。箱に入れてね、大切に保管されてたの。誰も、触らないようにって、言いつけられていた。けどね」
キーラは言い掛けて、「あ」と うしろを振り向いた。何者かの足音は、メル⁼ファブリにも聞こえていた。葉や枝を踏み抜くそれは、だんだん、明確に、こちらに近付いていた。
「きっと私の父さんよ」
囁 くようにキーラが言った。
「私の帰りが遅いから、心配して見に来たのよ。ほら、いつも朝は、すぐ帰るでしょう? 」
キーラは サッ と立ち上がると、服についた落ち葉も気にせず、木の後ろに隠れた。
ザッ、ザッ、足音は おおきくなり、「キーラ」「キーラ」と呼ぶ声も はっきり聞き取れるまでになった。
なぜキーラは、心配して見に来た父親から逃げるのだろう。メル⁼ファブリは首を傾けた。とても厳しい父親なのだろうか? 彼女に暴力を振るうのだろうか? いや、彼女の話しぶりからして、とても そうとは思えない。それに、彼女を呼ぶ父親の声も、やわらかく、やさしそうなものだったからだ。
まもなく、キーラの父親の姿が見えた。中背 の、ひょろりとした、気の弱そうな男性だ。
「キーラ! 」
メル⁼ファブリの巣に着くと、父親は叫んだ。
「帰ったのか? 」
不安を纏 う瞳で辺りを キョロキョロ 見回し、また、もう一度。
「キーラ! 」
が、木の陰に すっかり隠れてしまっているキーラは、返事をよこさない。
「帰ったのか……」
つぶやき、また周囲を見ると、もと来た道を帰って行った。
ずっと近くにいたメル⁼ファブリは何もしてやれず、去ってゆく猫背をただ見送っていた。
「行った? 」
父親の背中が見えなくなるや否や、キーラは姿を現わした。
まったく、よく見つからなかったものだ。メル⁼ファブリは父親に同情する一方、キーラの素晴らしい隠れっぷりに感心していた。
「どうして、隠れていたんじゃ? 」
メル⁼ファブリは彼女に尋 ねた。〈創作の精 〉が口を聞くときは、心を開いた時だと言われているが、メル⁼ファブリの場合には当てはまらない。汽車の中で、たくさんの人間や妖精たちと触れ合ったメル⁼ファブリは、他の妖精や気紛れな人間たちと同じように、しゃべる気にならなければ しゃべらないし、しゃべる気になれば、しゃべるのだ。
が、当のキーラとしては、そうではない。
「アナタ、やっと話してくれたわね! 」
指を組み合わせ、声高 に言うと、しゃがんで、メル⁼ファブリの鼻先に顔を近付けた。
「巣を壊した注意をされて以来、アナタは一度だって話してくれなかったって、ひいばあさんは言っていたと。いつか、話がしたかったと、ずっと言っていたというわ。ようやく、ようやく、この時が来たのね」
あ、そうそう。
「私が どうして父さんから逃げたか、だったわね」
笑顔でメル⁼ファブリに確認を取ったキーラだったが、なぜだか、だんだん曇ってきてしまった。
「喧嘩をしたとか、仲が悪いとか、そういうんじゃないのよ。私の父さんは、見ての通り、気が弱いけれど、やさしくて、なによりも家族 を大事にしてくれる、そんな人よ。ただ──」
ただね。
「きょうは、特別に、反抗してみたくなったの。きょうは、特別な日なのよ。知ってる? 」
聞かれて、メル⁼ファブリは首を振った。
「きょうはね、私の親友──エーファの結婚式なのよ」
答えを言うキーラは、とても悲しそうに微笑んでいた。
「エーファのことは大好き。もしかすると、私の命より大事かも」でもね、「だからこそ、反抗したくなっちゃったの。彼女言っていたわ。“私の大好きな人に囲まれて、特別な日を迎えたい”ってね。アナタ、知ってるかしら? コリンって」
メル⁼ファブリは、今度は首を縦に振った。
「あら、知ってるのね。なら、話が早いわ」
と、キーラ。
「エーファはね、その、コリンと、私に、いちばんに祝われたいって言っているの。特別な席を用意してるって、そう言っていたわ」
立ち上がったキーラは、「ねえ」とメル⁼ファブリを呼んだ。
「私の反抗、付き合ってくれない? 」
メル⁼ファブリは キョロキョロ 思考を巡らせたが、キーラの顔を見て、頭を縦に振り下ろした。
こうして、ロバの妖精メル⁼ファブリと、少女キーラの、奇妙な反抗期がはじまった。
深い茶色い長髪、目尻のつり上がった少女は、メル⁼ファブリを見て、「あ、あ」と言葉を詰まらせている。
メル⁼ファブリが
「メル、でしょ? そうなんでしょう? 」
名前を呼ばれて、メル⁼ファブリは立ち止まった。
「やっぱり」
少女は、しゃがみなおすと、手を差し出してきた。指には、かつて、ウール・ロスに贈った、林檎の種の指輪が はまっていた。
「私は、キーラ・ロス。よろしく」
少女は言った。
「ロス……」
「そう。アナタ、知ってるわよね? ウール・ロスって。私の、ひいばあさんの名前」
聞かれて、メル⁼ファブリは こっくり
メル⁼ファブリはウール・ロスが亡くなったことしか知らなかった。つまり、ウール・ロスが亡くなって、すぐに、汽車に乗ったのだ。コリンと故郷は同じであれど、時代は まったく違うのだ。
妖精たちから、コリンの時代でメル⁼ファブリを呼んでいる人間がいると聞いていたが、彼女の子孫が呼んでいたのか。
「アナタ、ずっとここにいたの? 」
あのね。
「私……なにを言っているのか、分からないかも知れないんだけれど、私、きのうまで、まったくアナタたちのことが見えなかったの。でもね──」
キーラは はめた指輪をメル⁼ファブリに見せた。
「これを つけてから、なんだか、私の世界が、変わったのよ。本当に そうなのかって言いたいんでしょう。絶対に、この指輪のせいなの。この指輪をつけた、その瞬間からだったんだもの」
さいしょは家の中に ちいさな、人形みたいな、岩みたいな、そんな、イキモノが見えたの。
「険しい、頑固おやじみたいな顔をしていて、フゴフゴ 鳴いて、床に置いた、パンとミルクを ぺろぺろ
ひいばあさんの言いつけでね、毎日 朝と晩、ミルクとパンを、リビングの床に置いておくことになっているのよ。
「びっくりしてね、指輪を外したの。そうしたら、まるで幻覚でも見ていたように、岩の小人は消えてしまった。また、指輪をつけた。見えるの」
私は気がついた。私、妖精が見えてるわって!
「私は、妖精がパンやらミルクやらを ぺろぺろ やるのを、静かに見守った。なるべく、見えていない振りをしてね。両親に相談しようかしらって思ったけれど、やめたわ。私は、ひいばあさんみたいになりたくなかったの。“特別な子”になんて──」
パン、食べる?
キーラは、持って来たバスケットの中から、パンを取り出して、メル⁼ファブリの前に置いた。メル⁼ファブリは手を出そうか悩んで、やっぱり、パンを
「私ね、毎朝毎晩、ここに来てるのよ。知っていたでしょう? 」
キーラは言って、でも──と首を傾げた。
「どうして今までパンを食べてくれなかったの? きょうは食べてくれているのに。どうして」
まあ、いいわ。と、キーラは言って、口をつぐんだ。
ロバの瞳を見つめて、やさしく微笑む。その微笑みは、いつかのウール・ロスを思わせた。
「ここ、失礼していいかしら? 」
しゃがむのに疲れたらしい。キーラは そう言うと、メル⁼ファブリの巣穴の横に腰を下ろした。ひざを抱えて座り、メル⁼ファブリが逃げないことを確認した。
「アナタに会えて、よかったわ」
キーラは言う。手を顔の前に伸ばして、指輪を見つめた。
「この指輪。アナタが作った物なんでしょう? 父が言っていたわ。箱に入れてね、大切に保管されてたの。誰も、触らないようにって、言いつけられていた。けどね」
キーラは言い掛けて、「あ」と うしろを振り向いた。何者かの足音は、メル⁼ファブリにも聞こえていた。葉や枝を踏み抜くそれは、だんだん、明確に、こちらに近付いていた。
「きっと私の父さんよ」
「私の帰りが遅いから、心配して見に来たのよ。ほら、いつも朝は、すぐ帰るでしょう? 」
キーラは サッ と立ち上がると、服についた落ち葉も気にせず、木の後ろに隠れた。
ザッ、ザッ、足音は おおきくなり、「キーラ」「キーラ」と呼ぶ声も はっきり聞き取れるまでになった。
なぜキーラは、心配して見に来た父親から逃げるのだろう。メル⁼ファブリは首を傾けた。とても厳しい父親なのだろうか? 彼女に暴力を振るうのだろうか? いや、彼女の話しぶりからして、とても そうとは思えない。それに、彼女を呼ぶ父親の声も、やわらかく、やさしそうなものだったからだ。
まもなく、キーラの父親の姿が見えた。
「キーラ! 」
メル⁼ファブリの巣に着くと、父親は叫んだ。
「帰ったのか? 」
不安を
「キーラ! 」
が、木の陰に すっかり隠れてしまっているキーラは、返事をよこさない。
「帰ったのか……」
つぶやき、また周囲を見ると、もと来た道を帰って行った。
ずっと近くにいたメル⁼ファブリは何もしてやれず、去ってゆく猫背をただ見送っていた。
「行った? 」
父親の背中が見えなくなるや否や、キーラは姿を現わした。
まったく、よく見つからなかったものだ。メル⁼ファブリは父親に同情する一方、キーラの素晴らしい隠れっぷりに感心していた。
「どうして、隠れていたんじゃ? 」
メル⁼ファブリは彼女に
が、当のキーラとしては、そうではない。
「アナタ、やっと話してくれたわね! 」
指を組み合わせ、
「巣を壊した注意をされて以来、アナタは一度だって話してくれなかったって、ひいばあさんは言っていたと。いつか、話がしたかったと、ずっと言っていたというわ。ようやく、ようやく、この時が来たのね」
あ、そうそう。
「私が どうして父さんから逃げたか、だったわね」
笑顔でメル⁼ファブリに確認を取ったキーラだったが、なぜだか、だんだん曇ってきてしまった。
「喧嘩をしたとか、仲が悪いとか、そういうんじゃないのよ。私の父さんは、見ての通り、気が弱いけれど、やさしくて、なによりも
ただね。
「きょうは、特別に、反抗してみたくなったの。きょうは、特別な日なのよ。知ってる? 」
聞かれて、メル⁼ファブリは首を振った。
「きょうはね、私の親友──エーファの結婚式なのよ」
答えを言うキーラは、とても悲しそうに微笑んでいた。
「エーファのことは大好き。もしかすると、私の命より大事かも」でもね、「だからこそ、反抗したくなっちゃったの。彼女言っていたわ。“私の大好きな人に囲まれて、特別な日を迎えたい”ってね。アナタ、知ってるかしら? コリンって」
メル⁼ファブリは、今度は首を縦に振った。
「あら、知ってるのね。なら、話が早いわ」
と、キーラ。
「エーファはね、その、コリンと、私に、いちばんに祝われたいって言っているの。特別な席を用意してるって、そう言っていたわ」
立ち上がったキーラは、「ねえ」とメル⁼ファブリを呼んだ。
「私の反抗、付き合ってくれない? 」
メル⁼ファブリは キョロキョロ 思考を巡らせたが、キーラの顔を見て、頭を縦に振り下ろした。
こうして、ロバの妖精メル⁼ファブリと、少女キーラの、奇妙な反抗期がはじまった。