第6話 数多くの武勇伝が伝わる「伝説の女傑」の強烈生きざま【沖縄県】

文字数 3,238文字

照屋敏子(てるや・としこ、1915-1984)

 戦後の福岡で、困窮する沖縄出身の引揚者を率い、自ら漁船団の陣頭指揮をとるその姿から「女山田長政」の異名をとった女性実業家のエピソードに迫ります。
 照屋敏子は、沖縄本島の南端、糸満市の大きな網元の娘として生まれます。しかし、幼少期に両親が照屋とその兄を祖母に預け、ブラジル移住を試みます。その船のなかで母が病死し、以降、祖母のもとで育てられました。16歳からは当時、日本の委任統治下にあった南洋群島に移住し、実業学校卒業後は貿易会社に就職。有能な社員としてサイパン、パラオからセレベスまでエリアを拡げ活躍します。
 その頃、小学校時代の元恩師で「沖縄の水産王」として知られる那覇市の名家の次男だった男性と結婚。沖縄に戻り、先妻の子供の面倒も含め、那覇での新生活をスタートしました。しかし、敗戦の空気は次第に濃厚になっていき、米軍の空襲でついに、嫁ぎ先の家屋が全焼。一家で九州へと疎開し、鹿児島、熊本を経て福岡へ移住し、終戦を迎えます。

福岡県知事の要請を受け、引揚者救済の漁船団を結成

 当時、福岡へ引き上げてくる沖縄出身者の数は3万人にも及び、寒さと飢えで病死者が続出していました。あるとき、「沖縄の水産王」の家族が福岡へ来ていることを知った当時の福岡県知事が、つてをたどって、一家に相談を持ちかけました。各所の惨状を見学したあと、照屋は、自ら社長となり漁船団を編成することを決意しました。昭和21年(1946)、照屋31歳の時でした。
 さて、収容所に散らばっていた同胞を集め、漁業権を取得して始めた沖ノ島漁船団の漁法ですが、「追い込み猟」という独特の漁法でした。根こそぎ取るので成果はあがりますが、ときに遠洋にまで出かけ、サメがうようよいるような場所でも網を張らなければなりません。
 ある時、網が破れ、並みいる猟師が皆怖くて躊躇していると、照屋が真っ先に海に飛び込み、潜って網を修理してみせました。糸満出身で、幼少期から海に親しんできた照屋は、潜水が得意でした。このような並外れた度胸は随所で発揮されました。

危険な団体交渉で荒くれ猟師たちを一喝

 ある大漁のとき、荒くれ者の猟師が数人で直談判に訪れ、机にドスを突き立てて「給料が安すぎる」と声を荒げました。要するに団体交渉なわけですが、「分かった。上げてもいいけど、お前たちは何だ。おもちゃみたいな短刀もってどういうことだ」と応戦しました。後ろでまだ理屈を言う者がいたため、照屋は、いきなり突き立てられた小刀を抜いて、自らの手を広げ、スパっと切ってみせました。小指がぶらさがり、血が流れるのを確認した後、庭の池に短刀を投げ捨て「おう、本物だったんだな」と言い放ちました。これにはさすがの荒くれ猟師たちも度肝を抜かれ、その場で事態は収拾したといいます。
 このような一件はありましたが、基本的に照屋の労務管理は評判がよく、「人の使い方が上手で、よく働く者には、いくらでも金を貸してくれるし、休みも十分にとらせてくれる人だった」と当時を振り返る人もいました。

行政機関への交渉やマスコミ対応でも行動力を発揮

 照屋の桁外れの行動力は、行政機関への交渉やマスコミ対応の場面でも発揮されました。当時、博多の漁港では、沖縄出身者が最も好むグルクン(和名は高砂)が、沖縄なら一級評価であるのに、統制経済によりイワシ並みの八級に格下げされたところでした。このままでは漁業団の経営が立ちいかなくなります。
 一計を案じた照屋は、どてら姿で後ろに漁師たちを従え、管轄官庁である九州物価庁を訪れました。そして、廊下のじゅうたんの上に30箱のグルクンをドンと置いた上、「新聞記者集まれエ!」と周囲に呼びかけ、不当価格を訴えました。続けて毎日新聞福岡総局へも出向き、「新聞社なら新聞紙ぐらいあるだろう」と大声を上げ、部下に命じイキのよいグルクンをバラまいてみせました。
 報道各社の紙面に、次々と「女長政」「女団長」などの文言が並ぶ派手なパフォーマンスでしたが、事実上これが契機となり、管轄官庁が価格の精査に乗り出し、見直しが行われた結果、グルクンは二級に昇格しました。

運命のいたずらで二転三転する人生

 一度は持ち直した漁業団の経営でしたが、成果を上げすぎる沖縄式漁法への風当たりは日に日に強くなっていきました。そして、終戦から5年が経過した昭和25年(1950)、ついに全面禁止へと追い込まれました。その前年の昭和24年(1949)には、夫が病に倒れ急死。同年さらに、猛威をふるったキティ台風で多くの船を失っていた照屋は、失業状態になりました。
 沖縄に戻り再起を賭けた照屋は、若き日に活躍した南洋群島での経験を生かし、昭和27年(1952)に日本の総領事立ち合いのもと、いったんはシンガポールでの漁業権交渉に成功し、世間をあっといわせます。
 昭和31年(1956)には準備を整えて、再び漁業団長として漁船に乗り込み、南太平洋で陣頭指揮をとり始めました。
 ところが、今度はマラヤ連邦の独立など、国際情勢の変化の渦に巻き込まれ、操業権を失い、合弁事業が破綻します。そして昭和33年(1958)、43歳で無一文となり沖縄に引き揚げました。

終盤は沖縄の経済自立化へ向けさまざまな事業に挑戦

 転んでもタダでは起きない照屋は、引き揚げる際、シンガポールから持ち帰ったワニ革バッグが高く換金できたことをヒントに、借金をしてクロコデールストアと名付けたワニ皮専門店を開きます。その後、沖縄初となるサンゴの入札などへも手を拡げ、経営は順調に推移。昭和38年(1963)、48歳のときには国際通りに三階建てのビルを購入し、さらに金や宝飾雑貨などへも手を拡げ、事業は繁盛を極めます。
 順調に資本が成長するなか、昭和40年(1965)、50歳前後を境に、もともとの持論であった「沖縄の経済自立化」を目指し、地場産業の振興のため、さまざまな事業に挑戦していきます。同年始めたマッシュルームの試験栽培、翌昭和41年(1966)には、クロダイ、ボラ、車エビの養殖に加え、メロンの栽培にも着手しました。
 これら新規事業は必ずしも成功には結び付きませんでしたが、当初、害虫ウリミバエの発生を理由に日本本土への輸出が禁止されていた、メロンを含むウリ類の規制が、照屋の行動を元に撤廃されるなど、先見性のある行動であることを証明して見せた事例もありました。

生涯を賭け、照屋が夢見た理想とは?

 晩年は、その厳しい性格が災いし、同族経営の子息や子女が離れていく寂しさも味わいましたが、病に倒れ、那覇市内の病院で過ごす昭和59年(1984)までには和解し、同年68歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。
 最後に、前述の「沖縄の経済自立化」の持論を「独立」と解釈する向きもあり、事実、照屋自身の口から「独立」という言葉が発せられた事実があることも確かですが、筆者はあまりそこにイデオロギー的な要素は感じませんでした。
 照屋の熱情は、全てビジネスを通じての行為に注がれており、当時大スター評論家であった大宅壮一(おおや・そういち、1900-1970)や、シャンソン歌手兼エッセイストの石井好子(いしい・よしこ、1922-2010)ら文化人との長年に渡る親しい交流や発言からみても、日本本土との交流はむしろフランクだったと感じています。
 照屋の目指した夢は、あくまで、地場産業振興を通じて、当時の沖縄の保護経済的な構造からの脱却とその警鐘にあったと結論し、この拙文を閉じることにします。(第6話了)


(主な参考資料)
・琉球新報社編(1996)『時代を彩った女たちー近代沖縄女性史』ニライ社
・高木 凛(2007)『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』小学館
・大宅壮一(1982,公開は1959)日本新おんな系図「間貸し国「沖縄」の女たち」『大宅壮一全集 第十二巻』蒼洋社
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