はじめに 「伝説」はみんなで楽しむエンタメだ!
文字数 2,041文字
伝説、Legend、噂(うわさ)、風評・評判、ときに流言。人はなぜこれらの情報に惹きつけられるのでしょうか?
タイトルの「もっとすごいあの人!!」とは、実際にあった複数のエピソードをもとに筆者が長年温めてきた伝説・Legend検証の切り口です。その1つを紹介しましょう。
「鋼鉄のタッチ」と「獅子の一撃」
時代は世界がまだ東西冷戦構造だった1950年にさかのぼります。第2次世界大戦終結後、5年を経過したこの年、旧ソ連からクラシック音楽の一流演奏家数名が西側諸国を訪れます。その一人がギレリスという名のピアニストでした。「鋼鉄のタッチ」といわれた彼の演奏は、行く先々でたちまちのうちに聴衆を魅了しました。
共演した指揮者を含め、最大限の賛辞を惜しまない聴衆に対し、ギレリスは次のように答えました。
「待ってください。自国にはリヒテルという私なんかよりもっとすごいピアニストがいます。まずはその演奏を聴いてからお願いします」
これを聞いて人々は驚きました。これほどすごいギレリスより、さらにすごいピアニストがソ連にはいるのか、と。
ところがリヒテルの来訪は、その後なかなか実現しませんでした。ギレリスと違い、リヒテルのお父さんはドイツ人で、終戦前にスパイ容疑でソ連国内で処刑されています。従って、リヒテルを西側に紹介すると亡命してしまうのではないかという可能性を当局が恐れ、ソ連は出してこないのではないか、との憶測が飛び交いました。以来、リヒテルは西側諸国の人々に「幻のピアニスト」と呼ばれるようになりました。
そうこうするなか、一人だけソ連でリヒテルの演奏を聴くことができた人物が現れます。当時23歳だった米国人ピアニスト・クライバーンがその人です。彼は1958年にソ連で開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールに参加し、見事優勝を果たします。その際、コンクールの審査委員の一人だったのがリヒテルでした。クライバーンはこの訪問時にリヒテルの演奏を聴く機会を得、「自分が生涯聴いたなかで最もパワフルな演奏だった」という感想を、帰国後、米国の関係者に伝えました。人々のリヒテルを聴きたいという欲求はさらに高まりました。
その2年後の1960年、ようやくリヒテルの米国公演が実現しました。リヒテルが披露した演奏のすばらしさについて、ある評論家は「獅子の一撃」であると表現しました。
本人は「いい年をしてのデビュー」の想い出
それにしても「鋼鉄のタッチ」にしろ、「獅子の一撃」にしろ、クラシック音楽関係者は、演奏のすごさを伝えるキャッチコピーを次から次へと思いつくものです。
では、本当にリヒテルは1番でギレリスは2番だったのでしょうか? そうではありません。クラシック音楽を聴かない人にも分かるように、ここでザックリとした解説を試みると、例えば100点満点でギレリスの演奏が95点の満足感だったとします。これに対しリヒテルは、興が乗るととんでもないスケールの演奏をするが、ムラがあり演奏をキャンセルすることもあったため「120点か、もしくは60~70点の時もある」といった感じの演奏家だったのです。
さらに面白いエピソードがあります。後年、リヒテルが西側デビューのことを振り返ったときの感想がそれです。リヒテルはこう述べています。「西側デビューの際、私はもう四十男になっていた。そんな年齢になって、今か今かと過剰な期待で待ち受ける大勢の聴衆の前で演奏しなければならなかった人間の気持ちが分かるかい」と。
今風の表現でいえば「同門のギレリスが、行く先々で私の評判のハードルを上げてくれてたものだから大変だったよ」という感じでしょうか。
伝説、Legendないし噂(うわさ)に対する筆者の関心は、このようなエピソードのいくつかが重なり形成されていきました。
さて、これから紹介していく話は、全国47都道府県をコンプリートする形で、各界の「すごい伝説、噂(うわさ)、Legend」を追った小さな記録です。といって、決して偉人伝の小型版ではありません。教科書に載っているような人物はどちらかというと少なめで、筆者が現時点で知りたいと思った人物を、いろいろな職業や分野からアットランダムに選び、ほんの少しだけ「今、この人を選ぶことの意味」すなわち「トレンド」に配慮した構成になっています。
全ては1話完結型です。好きな話だけどうぞ「つまみ食い」してください。自分の出身県で選ぶのもよし、思わず確かめたくなったエピソードだけ拾って読むのもよし。そして、皆さんの一人でも多くが「もっとすごいあの人!!」の切り口に共感していただければ、筆者にとってこの上ない喜びです。(「はじめに」了)
(主な参考資料)
・ユーリー・ボリソフ著、宮澤淳一訳(2003)『リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢』音楽之友社
・百田尚樹(2016)「覚醒するクラシック第32回 リヒテル」『Voice 平成28年2月号』PHP研究所
タイトルの「もっとすごいあの人!!」とは、実際にあった複数のエピソードをもとに筆者が長年温めてきた伝説・Legend検証の切り口です。その1つを紹介しましょう。
「鋼鉄のタッチ」と「獅子の一撃」
時代は世界がまだ東西冷戦構造だった1950年にさかのぼります。第2次世界大戦終結後、5年を経過したこの年、旧ソ連からクラシック音楽の一流演奏家数名が西側諸国を訪れます。その一人がギレリスという名のピアニストでした。「鋼鉄のタッチ」といわれた彼の演奏は、行く先々でたちまちのうちに聴衆を魅了しました。
共演した指揮者を含め、最大限の賛辞を惜しまない聴衆に対し、ギレリスは次のように答えました。
「待ってください。自国にはリヒテルという私なんかよりもっとすごいピアニストがいます。まずはその演奏を聴いてからお願いします」
これを聞いて人々は驚きました。これほどすごいギレリスより、さらにすごいピアニストがソ連にはいるのか、と。
ところがリヒテルの来訪は、その後なかなか実現しませんでした。ギレリスと違い、リヒテルのお父さんはドイツ人で、終戦前にスパイ容疑でソ連国内で処刑されています。従って、リヒテルを西側に紹介すると亡命してしまうのではないかという可能性を当局が恐れ、ソ連は出してこないのではないか、との憶測が飛び交いました。以来、リヒテルは西側諸国の人々に「幻のピアニスト」と呼ばれるようになりました。
そうこうするなか、一人だけソ連でリヒテルの演奏を聴くことができた人物が現れます。当時23歳だった米国人ピアニスト・クライバーンがその人です。彼は1958年にソ連で開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールに参加し、見事優勝を果たします。その際、コンクールの審査委員の一人だったのがリヒテルでした。クライバーンはこの訪問時にリヒテルの演奏を聴く機会を得、「自分が生涯聴いたなかで最もパワフルな演奏だった」という感想を、帰国後、米国の関係者に伝えました。人々のリヒテルを聴きたいという欲求はさらに高まりました。
その2年後の1960年、ようやくリヒテルの米国公演が実現しました。リヒテルが披露した演奏のすばらしさについて、ある評論家は「獅子の一撃」であると表現しました。
本人は「いい年をしてのデビュー」の想い出
それにしても「鋼鉄のタッチ」にしろ、「獅子の一撃」にしろ、クラシック音楽関係者は、演奏のすごさを伝えるキャッチコピーを次から次へと思いつくものです。
では、本当にリヒテルは1番でギレリスは2番だったのでしょうか? そうではありません。クラシック音楽を聴かない人にも分かるように、ここでザックリとした解説を試みると、例えば100点満点でギレリスの演奏が95点の満足感だったとします。これに対しリヒテルは、興が乗るととんでもないスケールの演奏をするが、ムラがあり演奏をキャンセルすることもあったため「120点か、もしくは60~70点の時もある」といった感じの演奏家だったのです。
さらに面白いエピソードがあります。後年、リヒテルが西側デビューのことを振り返ったときの感想がそれです。リヒテルはこう述べています。「西側デビューの際、私はもう四十男になっていた。そんな年齢になって、今か今かと過剰な期待で待ち受ける大勢の聴衆の前で演奏しなければならなかった人間の気持ちが分かるかい」と。
今風の表現でいえば「同門のギレリスが、行く先々で私の評判のハードルを上げてくれてたものだから大変だったよ」という感じでしょうか。
伝説、Legendないし噂(うわさ)に対する筆者の関心は、このようなエピソードのいくつかが重なり形成されていきました。
さて、これから紹介していく話は、全国47都道府県をコンプリートする形で、各界の「すごい伝説、噂(うわさ)、Legend」を追った小さな記録です。といって、決して偉人伝の小型版ではありません。教科書に載っているような人物はどちらかというと少なめで、筆者が現時点で知りたいと思った人物を、いろいろな職業や分野からアットランダムに選び、ほんの少しだけ「今、この人を選ぶことの意味」すなわち「トレンド」に配慮した構成になっています。
全ては1話完結型です。好きな話だけどうぞ「つまみ食い」してください。自分の出身県で選ぶのもよし、思わず確かめたくなったエピソードだけ拾って読むのもよし。そして、皆さんの一人でも多くが「もっとすごいあの人!!」の切り口に共感していただければ、筆者にとってこの上ない喜びです。(「はじめに」了)
(主な参考資料)
・ユーリー・ボリソフ著、宮澤淳一訳(2003)『リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢』音楽之友社
・百田尚樹(2016)「覚醒するクラシック第32回 リヒテル」『Voice 平成28年2月号』PHP研究所