第3話 「いきなりノーベル賞」にたじろいだ普通のサラリーマン【富山県】

文字数 3,768文字

田中耕一(たなか・こういち、1959-)

 本エピソードの執筆時点(2024年)で、日本人ノーベル賞受賞者の総数は28人となっています(2017年「文学賞」受賞のカズオ・イシグロ(イギリス帰化)を除いた場合)。2000年代以降こそ、ほぼ2年おきくらいのペースで継続的に受賞者を輩出していますが、それ以前はめったに受賞者にはお目にかかれず、とくに1人目の受賞者・湯川秀樹(物理学賞。1949年)から2人目の朝永振一郎(物理学賞。1965年)まで16年のブランクがあったのを最長として、その後70年代から90年代にかけても数年に1人出るのがやっと、というのが日本の受賞状況でした。

中堅メーカーに勤める一介のエンジニア

 そんななか、2002年に「化学賞」を受賞したのが今回取り上げる田中耕一です。当時43歳。京都にある島津製作所という中堅メーカーに勤める一介のエンジニアでした。受賞の知らせを受けた時の彼の肩書はただの「主任」。ノーベル賞の受賞と、その功績に伴い直ちに国から授与された文化勲章の両授章式に間に合わせるかのように、会社からすぐに「フェロー」の肩書が与えられました。
 化学賞の受賞理由は「生体高分子の質量分析のためのソフト脱離イオン化法の開発」への貢献というもの。この方法により、タンパク質のような大きな分子の質量を量ることが可能になり、医療用途などに使われる質量分析装置の精度向上などに結び付くのだそうです。いずれにせよ、世間はそのような専門分野の内容理解には至らないので、博士号も持たない、大学などアカデミックな世界(象牙の塔)の出身者ではない異色の受賞者の姿の方に注目が集まりました。
 本人も、仕事柄、技術論文を何度か専門誌に提出したことはあるものの、あくまでもそれは、製品化を前提とした会社の仕事の延長であり、ノーベル賞受賞などといわれても、しばらくは何が起こったのかさえ分からない状態でした。
 何の予兆もないいきなりの受賞で田中の生活は一変し、エンジニア本来の仕事もままならないまま、その喧騒が、2ヵ月後にスウェーデンのストックホルムで開かれたノーベル賞授章式と、帰国後も長く続きます。彼の身に何が起こったのか、まずは、受賞の知らせを受けた当日の様子からみてみましょう。

「どっきり」かと思った受賞の知らせ

 高校までを出身地の富山で過ごしたのち、東北大学工学部電気工学科へ進学した田中は、学部卒業後、大学院へは進まず、就職活動でまず第一志望の大手電気メーカーの面接を受けます。しかし結果は不合格でした。そこで出身学科の専門にはこだわらず、範囲を広げ京都の装置メーカー・島津製作所を受け、職を得ることができたのでした。入社後、配属された研究部門で早速、レーザー技術を重視した質量分析装置の開発に従事することになりました。
 技術職である田中の毎日は、普通のサラリーマン同様、毎日ほぼ決まったルーチンの積み重ねでした。平日の朝は6時から6時半くらいに起き、8時には出勤。鉄道好きなので毎日楽しみにしている二両編成の京福(けいふく)電車に乗って、受賞日2002年10月9日の朝も職場へと向かいました。この日は水曜日で会社の「ノー残業デー」にあたっていたため、夕方5時過ぎには仕事を片付け始めました。妻の裕子が親類の葬儀で富山の実家に帰っていたため、帰宅後は「自分で野菜入りのインスタントラーメンでもつくって食べようかな」などと考えていたところ、会社の電話がなり「これから約15分後に外国から重要な電話があるから、そのまま会社にいるように」と引き止められます。
 待っていると本当に電話が鳴り、出ると「ノーベル」「コングラチュレイション」などの相手の言葉が耳に飛び込んできました。「何か似たような名前の海外の賞があってその連絡なのかな」とよく理解できないまま、とにかく「ありがとう」と言って電話を切ります。一方で、これは同僚か友人が仕組んだ「どっきり」ではないかとの疑問も沸いてきました。

「タナカ・コウイチ」が3人いて広報担当者も混乱

 “異変”が本格化するのはそこからでした。まず、職場にあった50台以上の電話がひっきりなしに鳴り続けます。受話器を取ると「御社の社員タナカ・コウイチさんという方がノーベル賞を受賞されたそうですが」との質問責めです。事情がまだよく分からない田中本人は「私ではよく分かりません」と答え電話を切りました。
 外部との対応窓口である広報担当者の間でも、混乱が続いていました。島津製作所は大企業ではないにせよ、京都ではそこそこ大きな会社です。平凡な「タナカ・コウイチ」という名前の社員は社内に全部で3人いました。広報担当のスタッフは「どのタナカでしょう?」と聞き返さなければなりませんでした。
 そうこうするうちに、今度は実際に報道関係者が会社に押し寄せ、「社員以外立ち入り禁止」と書かれた箇所もおかまいなしに、会社中を田中を捜して駆け回るようになりました。
 そのころにはすでにネットニュースやテレビで受賞のニュースが流れ、同僚たちが何十人も駆け寄り「ノーベル賞おめでとう!」と声をかけてきました。

「隔離室」にかくまわれ、作業服のまま記者会見へ

 会社も次第に事の重大さを認識し、「しばらくは隠れていた方がいい」とふだん人の来ない別室に田中を避難させる一方、一番大きな研修室を記者会見場にあてる準備を始めました。待っている間も、会ったこともない文部科学大臣などから次々に電話がかかってきました。
 午後9時になり、会見が開かれました。田中は日頃、技術職で実験などがあるため、通勤にはいつもノーネクタイのシャツとGパンないしカジュアルパンツを着用し、職場に入るとシャツの上に会社の作業服を羽織るというスタイルで仕事をしていました。従って背広などの用意もありません。朝の出勤時にはまさかその日、ノーベル賞の受賞会見に引っ張り出されるなどとは考えてもいなかったので、作業服のまま会見に臨むしかありませんでした。気が付くと、伸びた無精ひげもそのままでした。
 何とか記者会見を終わらせた田中でしたが、会社の用意してくれたタクシーで自宅へ向かうと、そこにも10台以上のテレビ中継車と何十人もの報道陣が集まっていました。仕方なく、そのままスルーしてホテルへ直行してもらい、そこで一晩を過ごしました。ベッドに入っても、朝まで一睡もできなかったといいます。

スウェーデンでの授賞式で緊張がピークに

 こうして田中にとって"一番長い日”となった受賞連絡日が終わるわけですが、次に待ち構えていたのが、2ヵ月後にスウェーデンのストックホルムで開かれる授章式でした。まず大変だったのは、英語で40分ものスピーチを行わなければならないことでした。イギリスにある島津製作所の子会社など、合計数年間程度の海外勤務の経験はあるものの、英会話はそれほど得意ではありませんでした。その準備を含め、式典までの間、さまざまな難題に直面しますが、長くなるのでここでは割愛し、式典当日の様子だけ、彼の手記から拾って確認してみます。
 まず、リハーサルを終えた受賞者たちは、スウェーデン国王の待つ本会場へと移動させられます。ホテルの前に何台ものリムジンが並び、パトカーの先導のもと、白バイに護衛されながら向かうクルマのなかで、田中は「大スターか犯人護送か」と大きな戸惑いを感じました。
 式典では最初にファンファーレが鳴り、国王のスピーチ、オーケストラの演奏、物理学賞授賞と続き、化学賞の順番になり、いよいよ名前が呼ばれ立ち上がったとたん、田中の緊張は極限に達しました。後で周囲に確認すると、目をパチクリさせ続け、3回の予定だった国王へのお辞儀を5回繰り返すなど、心ここにあらずの状態だったことが判明しました。

「エンジニア復帰宣言」と現在

 さて、その後の田中ですが、受賞をめぐる一連の騒ぎがやや沈静化した2003年3月末、報道陣の前で「エンジニア復帰宣言」を行い、それまでの普通の生活を取り戻す決意を表明しました。大学などから数多く誘いも受けましたが、「私には化学の基礎知識が欠けている」として全て断り、会社が用意した田中耕一記念質量分析研究所の所長に就任。2012年からはシニアフェロー、2020年からはエグゼクティブ・リサーチ フェローに就任し、受賞前と立場は違うものの、基本的には現場が好きなエンジニアとしての生き方を今に至るまで続けています。(第3話了)。


(主な参考資料)
・田中耕一(2003)『生涯最高の失敗』朝日新聞社
・田中耕一(2003)「私のノーベル賞くたくた日記」『文藝春秋 平成15年2月号』文藝春秋
・京都大学公式ホームページ「日本人のノーベル賞受賞者一覧」https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/history/honor/award-b/nobel(閲覧日:2024年4月25日)
・ノーベル賞の田中耕一さん流「夢のかなえ方」 第一志望外れ続けても (2023年3月26日)朝日新聞デジタル(朝日新聞社)https://www.asahi.com/articles/ASR3Q3GVMR3FPLBJ002.html
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