第8話 自らコメット(彗星)ハンターと名乗る世界的アマチュア天文家【高知県】

文字数 3,096文字

関 勉(せき・つとむ、1930-)

「20世紀最大級の彗星」といわれる「池谷・関彗星(1965f)」で知られる関勉は、本稿執筆時点(2024年)で94歳。いまだ精力的にブログを更新し続ける現役のコメットハンターです。

敗戦5年目の高知の空は美しかった

 高知県高知市に、関が生まれたのは戦前の1930年でした。実家は和紙の手すきなどの製糸業を営んでおり、「父母は商売人で家族のなかに天文学のような科学を理解する者はいなかった」と本人は振り返ります。
 生まれつき病弱だった関は、小学校の授業には全く興味が持てなかったといいます。しかし、小学校3年生のときに出会った理科の先生が、夏休みになると、一人で四国中央山地へ出かけ、新しい昆虫の発見に努めていた姿に深い感銘を受けます。
 関が初めて彗星の観測を行ったのは1950年8月、19歳の時でした。その日はペルセウス座流星群の極大にあたっており、実家の屋根にある物干し場に設置した10cm反射鏡で2時間半に及んで観測を行っています。敗戦後5年が経過した高知の空は、戦災で街の大半を消失していたこともあり、非常に美しく、高原や海で眺める星空と何ら変わりのない星座がみられたといいます。
 こうして発見の希望を胸に観測を始めた関でしたが、そこから苦闘が始まります。1952年の捜索記録をみると、一ヵ月の捜索日数は3~12日で年間97日。1回平均の捜索時間は12~123分の間で観測を行っています。しかし一向に成果は上がりません。翌年も、そのまた翌年も同じ状況が続き、5年目を迎えた頃にはついに当時愛用していた15cm反射鏡のメッキがくもりはじめる始末でした。
 関の観測頻度は1956年後半から徐々に落ち始め、観測9年目を迎えた1959年6月、ついに関の心は折れてしまいました。それから22ヵ月もの期間、反射鏡のレンズから離れる生活が続きます。
 しかし、いざ観測から離れてみると、かえって体調が狂うことに気付きました。「彗星発見」という目標のない生活にもそろそろ飽きを感じ始めた1961年3月頃、関は倉のなかに眠っていた反射鏡を取りだし、再び観測を始めます。すると、中断前とは心境が異なっている自分に気付きました。以前のように発見を期待するのではなく、どちらかというと空虚な心をいやすために星に親しみだしたのでした。当時を振り返り関は、「いま思えば、これが私の本当のスタートであったような気がしてなりません」と述べています。

苦節11年目の秋、ついに新彗星を発見

 するとそのような心境の変化に応えるかのように、この年の10月11日、“事件”は起こりました。
 午前4時に観測を始め、1時間近くが経過。「ああ、今日も異常なしか」とむしろ淡々とした心境で日課を終えようとしていた関の視界に、忽然と白い光体がよぎりました。関の脳裏に瞬時に「彗星だ」との結論が浮上しました。なぜならば、すでに観測歴11年。探しに探した天空のその位置に、7等級の星雲が存在しないことくらい瞬時に判断できたからです。
 いざ、発見してみると、関の心身に大きな感動と動揺が襲いかかりました。感激が一度にこみ上げる一方、手足はガタガタ震え、スケッチの鉛筆もろくに握れない始末です。ようやく星図と照合し、スケッチを開始した時にはすでに10分以上が経過していました。初日の発見位置が悪かったので、翌日も再観測し、日付を世界時(Universal Time:UT)に置き換えて天文台へ打電しました。
 一連の報告作業を終えると、11年の疲れがどっと関を襲い、それからしばらくの間、捜索を休んだといいます。以上が、関の第1発見である「関彗星(1961f)」の発見経緯です。
「世界中のコメットハンターで、どんなに目が悪く、またどんなに運の悪い人でも、1個発見するのに563日もかかった人は恐らくいないのではないでしょうか」と関自身が振り返る遅咲きのスタートでした。
 しかし、一度障害が外れると、次の発見までの期間は非常に短いものでした。第2発見の「関・ラインズ彗星(1962c)」は1962年4月。第一発見からわずか半年後でした。こうして2つの彗星を発見したことで、関は大きな自信を得ます。その時の心境を関は、「「これで果たしてよいのだろうか?」といった何かしら頼りない空漠とした気持ちは消え、「努力さえしていれば必ず報われるのだ」といった安心感が心をしっかりと包むように」なったとつづっています。その心境の変化が、第3発見となる「池谷・関彗星(1965f)」へと続くのです。

日本中が注目した大彗星の天体ショー

 台風24号が通過した翌日の1965年9月19日午前4時20分ごろ、いつもの物干し場に上がり、観測をしていた関は、東南の空にかなり明瞭に強く輝くコマを発見します。
 一方、浜松に住む池谷 薫(いけや・かおる、1943-)は同日午前4時に発見し、直ちに位置を観測し、東京天文台へ打電しました。
 二人のベテランアマチュア天文家からほぼ同時に報告を受けた東京天文台は、異例のスピードで、同日10時に米スミソニアン天文台へ「Comet Ikeya-Seki」の名で打電しました。そして、発見から24時間後に、オーストラリアのウーメラ観測所で確認され、「池谷・関彗星(1965f)」が確定したのでした。
 「池谷・関彗星(1965f)」は、太陽のコロナのなか、すなわち太陽をかすめる彗星群のひとつとして世間の注目をあびました。彗星群自体は、19世紀末にドイツの天文学者クロイツが発見していて、クロイツ群ともいわれています。
 日本人が世界に先駆け発見したこと、近日点通過時には一時、満月よりも明るくなったという大天体ショーに世間の人々は酔いしれました。このできごとがきっかけで当時、天文学に興味を抱いた少年少女も多かったといいます。

アマチュア天文家の心は今も「コメットハンター」!

 令和4年(2022)5月、高知県は関を名誉県民として顕彰しました。「あなたが発見した多くの彗星や小惑星は子ども達や世界の人々を魅了し長きにわたる活躍により高知県民に夢・希望・勇気・感動を与えた功績に感謝」するというのがその理由でした。
 彗星の発見は、1990年代後半に地球近傍小惑星の自動捜索プロジェクトが登場して以降、劇的な変化が生じたとされています。また、太陽観測衛星から送られる太陽画像がインターネット上で公開されており、“副産物”として彗星を発見できるチャンスが誰にでもある時代にもなったともいわれています。
 このような観測環境の変化のなかで、関も小惑星ハンターの活動へ軸足を移したり、観測者チームのリーダーや、芸西(げいせい)天文学習館で子供たちに宇宙を教えるなど活動の範囲を広げています。
 しかし、自身の公式ホームページのタイトルは「コメットハンター関勉のホームページ」の名称のままであるところに、彼の心意気を感じます。(第8話了)


(主な参考資料)
・広瀬秀雄、関 勉(1971)『彗星とその観測 天体観測シリーズ(6)改訂版』恒星社厚生閣
・関 勉(1976)『彗星ガイドブック』誠文堂新光社
・公式ホームページ『コメットハンター関勉のホームページ』https://comet-seki.net/jp/(閲覧日:2024年5月12日)
・高知県公式ホームページ「名誉県民 関 勉(令和4年5月12日顕彰)」https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/2022051700010/(閲覧日:2024年5月12日)
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