第5話 リスより早く、逆さ降りの神技を披露した枝打ち名人【岐阜県】

文字数 3,039文字

山本總助(やまもと・そうすけ、1927-1995)

 皆さんは「枝打ち師」という職業をご存じでしょうか? 林業の特殊作業に従事する専門職のひとつで、大木に縄をかけスルスルとはるか樹上へと駆け登り、不要な枝を選んで次々と枝打ちしていく。一本が終ると、わざわざ下に降りたりせず、隣りから隣りへと飛び移り、次の木でそのまま作業を続ける。全部の作業が終わると、今度は地面めがけて忍者のような素早さで駆け降りる。
 そんなシルク・ドゥ・ソレイユの曲芸ばりの高難度な作業を、日常的に行っている山の専門家です。その職種でかつて「日本一」といわれた人物が今回取り上げる山本總助です。
 岐阜県不破郡関ケ原町(自治体の正式表記:大文字のケで統一しておきます)の西部に位置する今須に在住する山本家は、代々枝打ちの家系でした。總助も幼少期から木登りが好きで、小学校6年生の時には父の枝打ちを手伝うようになりました。高等小学校卒業後、いったん鉄工所で働きますが、終戦を経て農林業に戻ります。その後、本格的に択伐(たくばつ)林業に従事するようになり、研究を重ね、枝打ちのさらなる技術向上に取り組みます。まずは、山本の木登りがどのようであったかを再現してみましょう。

ブリ縄一本による木登りの妙技と、神技「逆さ降り」

 ブリ縄とは、長さ15~17mほどの麻縄などでできたロープで、両端に50cmほどのネムの木でできた棒(シュモク)を施した専門の器具です。これをぐるりと木にかけて、少しずつ上へと進みます。一連の1回の動作を山本は10数秒でこなし、これを12~13回ほど繰り返したところで、地上20mの高さに到達。時間にして合計3分ほど。ここまでが「ブリ縄一本木登り」です。実際に若い登山家が初めてトライした例では、5mほど登ったところでギブアップしています。
 そして帰りの下降で、いよいよ神技の「逆さ降り」が披露されます。その名のとおり、クルリと顔を下にして真っ逆さまの姿勢で、摩擦で木煙を立てながら、落ちるようなスピードで下降。地上1mのところでピタッと止める荒業です。こちらは時間にして約30秒。プロの枝打ち師のなかでも、山本にしかできなかった技だといいます。
 実際の枝打ちの作業では、これに加えてさらに、一本が終わると、20mの高所にいたまま、4~5m離れた木から木へ飛び移る技が加わります。

「木こり」との棲み分け。「空師(そらし)」との違いは?

 林業で木を切る作業はいくつか種類があって、全部を切る「主伐」はいわゆる「木こり」が担当します。その役割はもっぱら最終的な「木の供給」にあります。一方、「枝打ち」のような作業は、木ないし森全体が健全に育つよう間引きをしたり、手入れをしたりするのが仕事で、「育林」や「森林保全」と呼ばれる領域に入る仕事です。山本のインタビューでの発言をみても、そのような仕事の棲み分けが感じられます。
 日本には、同じような作業を行う伝統的な職業名で「空師(そらし)」というがあります。最初、山本もそれではないかと考えましたが、山本自身は決して空師という言葉は使っていませんでした。そこで改めて両者が従事する業務を比較すると、確かに同じ高所での作業ではあるものの、空師の場合、枝打ちも行なうが、高い箇所でチェーンソーを使い木全体を伐採する作業なども行なっています。ですから、もう少し、木こりに近い職種じゃないかと今では区別して解釈しています。

'70大阪万博でカナダの世界チャンピオンに勝利

 さて、山本には「日本一の枝打ち名人」の評価のほかに、「木登りの世界チャンピオン」という称号がありました。その根拠は、1970年に開催された大阪万博で、カナダ産のモミの大木を使って行われたカナダ代表との競争で勝利したことです。そのカナダ代表が世界チャンピオンだったらしく、この勝負のあと、山本は世界チャンピオンの称号でしばらく呼ばれるようになりました。
 勝負は僅差だったようですが、興味深いのは、その時の両者のいでたちの違いです。山本がいつものように、ブリ縄と、(おそらくいつもの)地下足袋という姿だったのに対し、カナダ代表は、腰には電話工事で使うようなベルトをし、靴は爪のついたスパイクシューズだったそうです。
 そして、両者の勝敗を分けたのが、「リスにも負けなかった」という山本の技能にあったのではないかと考えました。そこで、早速次にリスとの競争の伝説について、詳細を確かめることにします。

「リスとの競争の伝説」の詳細

 ある日、木の上にいるリスを見つけた山本は「よし競争してみよう」と考え、すぐ後ろから木に登っていきました。途中で追いつくと、あわてたリスが、今度は反転して、下に向け駆け降りました。山本もすぐに体勢を変えて、得意の逆さ降りの姿勢になって駆け降ります。すると地面に先に着いたのは山本の方だった、というのがこの話の中身です。最後、「越されたリスが仰天していた」というオチまで付いて、伝説・Legend好きの筆者などにとっては、まさに感涙もののエピソードを、雑誌のインタビューのなかで披露しています。

旅の作家が聞いた悲しい知らせ

 1999年に、ノンフィクション作家の岩川隆(いわかわ・たかし)が雑誌の取材で今須を訪れた時のことです。岐阜県全体を取材してまわるなか、「どうしても関ケ原に住む“枝打ちの名人・山本總助さん”に会って帰りたい」と考え、1泊後の朝、関ケ原駅へ向かいます。そして駅前の商店でたずねると、店主が悲しそうな顔で「ああ、總助さんね。ーー 気の毒なことをしたよ ーー 四年前に木から落ちて、事故で亡くなりました」と答えるのを聞き、言葉が出なくなります。
 落胆していると、店主から、「總助さんに勝るとも劣らない息子さんが同じ職業を継いでいるので会っていっては」と勧められ、会う段取りになりました。子息・山本晃治は当時39歳。しかし、「今須の枝打ち師は多いときは数十人もいたが、今は一番若いのが自分で、他は70歳くらいの年齢の人達が6,7人いるだけ」などの現状を耳にします。
 その岩川隆と山本晃治の会話のなかで、とくに印象的なエピソードがあったので最後に紹介し、締めくくりとします。
 「樹齢200~300年などの太経木(たいけいぼく)が伐(き)られて、年輪に江戸時代の腕のいい枝打ち師の仕事の跡が見られるときなどは感動しますね。昔から枝打ち師はいたんですよ」と晃治が話すエピソードがそれです。
 いつの日かきっと、晃治からさらに何代か時代が下ったある日、山本家の子孫が、父君・總助の残したきれいな枝打ちの処理の跡を見る日が来るかもしれない。そんな想像をしながら、その雑誌記事を読み終えたのでした。(第5話了)


(主な参考資料)
・ 安藤邦廣(2002)「日本一の枝打ち名人 枝打ち師 山本総助」『職人が語る「木の技」』建築資料研究社
・「現代の忍者・山本總助さんに聞く 木登り健康講座 木の登り降りだったらリスにも負けないね!」『BE-PAL (ビーパル) 1986年1月号』小学館
・「パイネ鍋田の杉の大木20mよじのぼり 怖くて遠い木登り名人への道」『BE-PAL (ビーパル) 1991年11月号』小学館
・岩川 隆(1999)「ぶらりニッポン・新人国記(9)岐阜県 「飛山濃水」が育んだ"うつけもん"」『潮 1999年9月号 通巻487号』潮出版社
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