第19話

文字数 1,661文字


「あした、雨が降りませんように……」
 いつものように、わたしは前の晩、ベランダに出て、軒下に吊るしたてるてる坊主に手を合わせいた。
 それでも、やっぱり、不安でしょうがない。
 パタパタと窓硝子を叩く雨音。わたしにとって、雨音は不吉の予兆の旋律――。
 夜中に、幾度となく目が覚めたわたしはそのたいびに、ベランダに出て、夜空を仰いだ。
 見ると、都会の薄紫色の空に、星の煌めきが目に入ることはなかった。
 それでも、ほっと胸を撫で下ろしたのは、頬を撫でていく風に、湿った雨の匂いがなかったからだ

 その翌朝――。
 わたしにしてはめずらしく、窓硝子を叩く雨音が耳にふれることはなかった。
 ただ、帝釈天の境内を吹き渡る風がとても、冷たい朝だった。
 たぶんその風が、さらっていってくれたのだろう。頭上には、抜けるような空の青さが広がっていた。
 参道を過ぎて、本殿に着くと、さっそく、わたしはお賽銭を弾んで、深々と首を垂れた。
 周とのしこりがうまく、ほぐれますように、と祈って。だがーー。
 わたしの願いをカミサマがかなえてくれることはなかった。
 なにしろ、わたしはその日、いままで以上の大きな石ころに躓いてしまったのだから。

 姑息にも、わたしは消しゴムで消すようにして、その苦痛の思い出を記憶の中から、葬り去ろうとしていた。
 そうすることで、次の朝、眠りから覚めたら、きのうとはとはちがう一日がはじまっていた――なんてことはないか、とわたしは現実逃避すらしていたのだ。
 でも現実は、そんなに甘くはなかった。それより、現実は、何ら変わりのないきょうを、わたしに押しつけていた。
 節分の日以来、すっかり落ち込んでしまったわたしは、明かりもつけずに、部屋の片隅で膝を抱えて、不安に怯える日々を過ごしていた。
 闇の中、周からの着信音に怯え、独り、震えていたのだ。
「大事な話があるんだ――」
 とうとう、かかってきた周からの電話。
 パタパタと窓硝子を叩く雨音が聞こえた、ような気がした。わたしにとって、雨音は不吉な予兆の旋律――。
 頭の中が真っ白になって、呼吸(いき)をするのさえ苦しくなっていた。
 震える手で、スマホを握りしめた。そこから洩れてくる周のことばはすんなり聞き取れなくて、「晴れてたら、菜の花を見に行こうよ」ということばだけが、かすかながら、耳に残っていた。
 やがて、やってきた「その日」……。
 前の晩、空に雨雲はなく、どうして、こんなときにかぎって、雨を降らしてくれないの――ベランダの軒下に吊るしたてるてる坊主を睨んで、わたしは、沈んだ気持ちでベッドに入った。
 眠れない夜を過ごした次の朝、窓硝子を開けると、街は存外、冷たい雨にひっそりと沈んでいた。
 テーブルの上で頬杖をついて、安堵のため息をついていたら、周からの電話を告げるメロディーが鳴った。
「ごめん、今日は中止にしよう。雨が降ったら、仕事を手伝えと上司に言われてるんだ。これから、出勤する。大事な話だったんだけどな……。それはまた、別の機会ということで……」
 それで、わたしと周の関係の終わりの始まりと思えていた「その日」はなんとなく、「つづく」になっていた。
 もっとも、それは癌に侵された患者が「その日」が来るのを対処療法でなんとか延期させている、というような状況と何ら変わりはなかったのだけれど……。

 今夜あたり、「あすの夜、会える?」という、周からの電話が――わけもなく、そういう不吉な予感がしていた。
 かねてからわたしは、不吉な予感ほどよく当たった。
 ふと、何かに導かれるように、眼差しをTVの画面からスマホへと移したその次の瞬間、液晶がパッと華やいだ。
 ぴくんと、小さく肩が跳ねて、思わず胸が鈍くうずいた。
 ふうー。ひとつ、深く、ため息をつく。
「ため息をついたら、またひとつ幸せが逃げていくよ」
 時に、そう言って、わたしをたしなめる人がいる。
 それを聞くたびに、わたしは内心、こうつぶやきを洩らしている。
 幸せじゃないからため息をつくんだよ、というふうに。
 
 
つづく
 
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