第32話
文字数 1,898文字
わたしがぶつかってしまったせいで、冷たい雨にしっとりと濡れた舗道に転げ落ちたピンクのスマホ――瞳を閉じると、それが瞼の裏にくっきりと浮かぶ。
彼女、ああ言ってたけれど、あのスマホ大丈夫だったかしら?
走り去る彼女の背中を目で追いながら、わたしは眉をひそめてひとりごとのようにつぶやく。
でも、あれじゃない――だしぬけに、もう一人のわたしが割って入ってきて、その懸念を払拭しようとする。
彼女だって歩きスマホだったわけだし、だから、そんなに気にすることないんじゃないの、というふうに。
けれどすぐにわたしは、かぶりを振る。
ただ、そうはいっても、わたしもぼんやりと歩いていたわけだし、と、もうひとりの自分に自嘲気味に私語いて。
ややあって、彼女の姿は人混みに紛れて消えてしまった。
それを見届けたわたしは肩でひとつ息をつき、それから踵を返すと、ふたたび、公恵の実家に向かって歩き出した。
そういえば、あれ――それを思ったら、自然と頬がゆるんでしまう。
なんともいえず可愛かったのだ。ピンクのスマホに取り付けられてた、あのキリンのストラップ。
キリン――それが、こんどは呼び水になったらしい。
たったいま、浮かんでいたキリンのストラップを押しのけて、またしても、修一くんの面影が脳裏に現れた。
思わずわたしは、顔をしかめる。
何度かぶりを振って追い出してみても、いつも心の奥に棲んで、こうして、ふとした瞬間に脳裏に現れる――。
「……修一くん」
わたしは宙空をにらんで、彼の名を、小さくつぶやく。
いまは、彼が脳裏に現れるたびに、むしょうに、腹が立ってしょうがない。
かつては、あんなに慕っていた、そんな
「キリンはね、環境に順応して首を伸ばしていったんだ。だから、こうして生き残こることができたというふうに言われてるんだよ」
修一くんがそう言って、ニッコリ微笑んでいたのは、わたしが十二歳の誕生日を迎えたその、翌日。
東京は上野動物園。緑色にペイントされた木製のベンチ――。
そこに腰を据えたわたしたち二人の前にある檻のなかを、悠然と、首の長いキリンが歩いていた。
「もちろん、人間もキリン同様に環境に順応して進歩をつづけてきた。だからこそ、こうして生き残ることができたんだね」
修一くんはあの日、それを思ったらさ、と言って、こうつづけたのだった。
もしまみちゃんが、こっちの大学に進学したとしても、十分順応できると思うんだけどね。
そう言って、ニッコリ微笑んでいたあの笑顔が、いまはとても懐かしい。
三日間、修一くんと一緒に東京で過ごし、いよいよ、故郷に帰らなくてはいけなくなった、その当日。
東京駅――わたしが乗車した新幹線の車窓の向こうで、林立するビルの群れがゆっくり動き出していた。
その瞬間、新鮮な驚きを覚えていたのを、わたしはいまでもくっきりと思い出す。
わたしが動き出しているのに、むしろ、車窓の向こう側の世界が動き出している、そのように見えてしかたなかったからだ。
新幹線が、次第に、故郷に近づく。それにつれ、修一くんのことばが耳の奥というより、心の底でこだましていた。
もしまみちゃんが、こっちの大学に進学したとしても、十分順応していけると思うんだけどね、という、あのことばが――。
やがて、わたしは高校生になる。
すると、そのことばが、わたしのなかで、いっそう、大きく膨らんでいった。
そうするとわたしは、実に切実に思うようになる。
わたしもキリンさんのように新しい環境に順応できるのなら、なんとかチャレンジしてみたいものだな、というふうに。
そうかといって、わたしはそこで、躊躇する。
それは祖母に対する裏切り行為じゃないの、と自問して――。
それ以来、わたしは夜、ベッドにもぐるたびに、はたして、どっちの道を歩むべきなのか、と自問自答を繰り返すようになった。それと同時に、わたしはその問いの答えを導きだせないまま、悶々とする日々を送るようにもなっていた。
といって、その答えは、おいそれとは導きだせない。さながら、喉が乾いた人がアスファルトの逃げ水を追って前進するが、けれど、どこまでいってもそれを口にできないように……。
行きたい、でも行ったら、おばあちゃんに、という、そんなアンビバレンスに引き裂かれて、わたしは、すっかりうろたえてしまう。
そんなときだった。
捨てる神あれば拾う神あり、とはいみじくも言ったもので、わたしにも、ある僥倖がめぐってきたのは――。
それが、高校二年生のときに執り行われた、東京行きの修学旅行だったのだ。
つづく