第12話
文字数 1,634文字
故郷の風景 その五
部屋の中に一瞬、奇妙な沈黙が降りる。
それにしても、人の心とは不思議なものだ。
わたしはいま、部屋に忍び込んできそうな禍々しい不吉な「何か」に怯えているさなかなだ。だというのに、わたしの意識はなぜか、それとはちがうものに向いている。
何にかというと、それは柱時計が時刻を教える、あの不気味な低音。
もし、いまここで、あの「ボーン」という不気味な低音がこの屋敷に轟いたら――考えただけでも、鳥肌が立ってきそう。
そんな恐怖に怯えながら、わたしは、耳を塞いだ両手に力を込めようとする。
ところが、その恐怖心をねじ伏せて、無意識のうちに、手が反乱を起こそうとしだしたから、さあ、大変。
矛盾にも、人には怖いもの見たさ、という奇妙な感情が備わっているらしい。
怖いから観たくない、と首を横に振りながらも、結局、お終いまで観てしまった昨夜のホラー映画。そういう矛盾した感情が、耳を塞いでいる手の力をいやおうなしにゆるめようとする。
これって、あれかしら――突然、わたしは考える。
こうした感情は、人類が種を保存するための危機管理能力として、カミサマから授かったものではあるまいか、と。
都合の良いものばかり見ていたら、冗談のように脆い生き物になってしまうから、それで、カミサマが――知らないけど……。
このような非常事態にありながら、わたしは、そんな悠長なことを考えていた。
「…………いるう」
だしぬけに、階下から、何か聞こえてきた。
野太い声。どうやら、人の声のようだ。たぶん、男の人の。
それで、さっきから感じていた不気味な気配は、ホラー映画の中の非日常の禍々しい不吉な「何か」じゃなくて、ごく日常のあたりまえの「だれか」だとわかる。ようやく、わたしはそこで、ホッと胸をなでおろす。
でも、だとしたら――ふたたび、戦慄が走る。
いったい、この声の主は、だれ?
という、ちがう恐怖に襲われて。
「ジェミー、何かあったらベッドの下に潜り込むのよ」
昨夜観たホラー映画の中の一場面が、突然、脳裏をよぎる。
主人公の女の子に、ママが教えていた。
そうだ、わたしも!
わたしは内心そう叫んで、英語の練習帳に突っ伏していた顔を上げて、椅子から立ち上がろうとした。するとそのとき――。
「真美ちゃん、いるう!」
わたしを呼ぶ声。それがが、くっきりと耳に届いた。
あ⁈ この声は!
何ヶ月ぶりかに聞く懐かしい声。いとおしくもある、わたしの大好きな声。
ううう……ベソをかきそうになりながら、吐きだす息に乗せて、いままでいだいていた恐怖心をからだの外に追い出した。
全身の力が、へなへなとゆるむ。腑抜け状態になりながら、わたしは椅子の背もたれにからだを預ける。
思えば人の心は現金だ。
さっきまで、ひとりぼっちで留守番をさせていた母さんを、あんなに呪っていた。それなのに、もはやそうした感情はどこか明後日の方向に蹴飛ばされ、むしろ今では、母さんを女神のようにあがめてさえいる。
「こんな不吉な雨の日に、ひとりぼっちで留守番してた甲斐があったわ。そうよ、これは、そんなけなげなわたしへのご褒美にちがいないわ。母さん、素敵な幸運をありがとう!」
そんなふうに、手のひらを返すように前言撤回している、現金なわたし。
この声の主は、修一くん。修一くんが、休みを利用して、東京から帰郷したのだ。
山田修一。
おばあちゃんのお姉さんの娘さんの息子――。
わたしは、ややこしいことを考えるのが、苦手。
なので、修一くんは何等親にあたるの? などという、ややこしいことはいままで、もちろん、考えたことはない。
というより、学校の先生が宿題かなんかで、「日頃、なにくれとなくお世話になってる親戚の方が、何等親にあたるか調べてくるように」と言えばべつだろうけど、いままで、あえてそう言われたことがないので、わたしは考えたことがない、というほうが正しいのかもしれない。
つづく
部屋の中に一瞬、奇妙な沈黙が降りる。
それにしても、人の心とは不思議なものだ。
わたしはいま、部屋に忍び込んできそうな禍々しい不吉な「何か」に怯えているさなかなだ。だというのに、わたしの意識はなぜか、それとはちがうものに向いている。
何にかというと、それは柱時計が時刻を教える、あの不気味な低音。
もし、いまここで、あの「ボーン」という不気味な低音がこの屋敷に轟いたら――考えただけでも、鳥肌が立ってきそう。
そんな恐怖に怯えながら、わたしは、耳を塞いだ両手に力を込めようとする。
ところが、その恐怖心をねじ伏せて、無意識のうちに、手が反乱を起こそうとしだしたから、さあ、大変。
矛盾にも、人には怖いもの見たさ、という奇妙な感情が備わっているらしい。
怖いから観たくない、と首を横に振りながらも、結局、お終いまで観てしまった昨夜のホラー映画。そういう矛盾した感情が、耳を塞いでいる手の力をいやおうなしにゆるめようとする。
これって、あれかしら――突然、わたしは考える。
こうした感情は、人類が種を保存するための危機管理能力として、カミサマから授かったものではあるまいか、と。
都合の良いものばかり見ていたら、冗談のように脆い生き物になってしまうから、それで、カミサマが――知らないけど……。
このような非常事態にありながら、わたしは、そんな悠長なことを考えていた。
「…………いるう」
だしぬけに、階下から、何か聞こえてきた。
野太い声。どうやら、人の声のようだ。たぶん、男の人の。
それで、さっきから感じていた不気味な気配は、ホラー映画の中の非日常の禍々しい不吉な「何か」じゃなくて、ごく日常のあたりまえの「だれか」だとわかる。ようやく、わたしはそこで、ホッと胸をなでおろす。
でも、だとしたら――ふたたび、戦慄が走る。
いったい、この声の主は、だれ?
という、ちがう恐怖に襲われて。
「ジェミー、何かあったらベッドの下に潜り込むのよ」
昨夜観たホラー映画の中の一場面が、突然、脳裏をよぎる。
主人公の女の子に、ママが教えていた。
そうだ、わたしも!
わたしは内心そう叫んで、英語の練習帳に突っ伏していた顔を上げて、椅子から立ち上がろうとした。するとそのとき――。
「真美ちゃん、いるう!」
わたしを呼ぶ声。それがが、くっきりと耳に届いた。
あ⁈ この声は!
何ヶ月ぶりかに聞く懐かしい声。いとおしくもある、わたしの大好きな声。
ううう……ベソをかきそうになりながら、吐きだす息に乗せて、いままでいだいていた恐怖心をからだの外に追い出した。
全身の力が、へなへなとゆるむ。腑抜け状態になりながら、わたしは椅子の背もたれにからだを預ける。
思えば人の心は現金だ。
さっきまで、ひとりぼっちで留守番をさせていた母さんを、あんなに呪っていた。それなのに、もはやそうした感情はどこか明後日の方向に蹴飛ばされ、むしろ今では、母さんを女神のようにあがめてさえいる。
「こんな不吉な雨の日に、ひとりぼっちで留守番してた甲斐があったわ。そうよ、これは、そんなけなげなわたしへのご褒美にちがいないわ。母さん、素敵な幸運をありがとう!」
そんなふうに、手のひらを返すように前言撤回している、現金なわたし。
この声の主は、修一くん。修一くんが、休みを利用して、東京から帰郷したのだ。
山田修一。
おばあちゃんのお姉さんの娘さんの息子――。
わたしは、ややこしいことを考えるのが、苦手。
なので、修一くんは何等親にあたるの? などという、ややこしいことはいままで、もちろん、考えたことはない。
というより、学校の先生が宿題かなんかで、「日頃、なにくれとなくお世話になってる親戚の方が、何等親にあたるか調べてくるように」と言えばべつだろうけど、いままで、あえてそう言われたことがないので、わたしは考えたことがない、というほうが正しいのかもしれない。
つづく