第10話

文字数 1,793文字




故郷の風景  その四


 二階のわたしの部屋は、温風ヒーターのぬくもりで満たされようとしている。
 そんな中、わたしはクッションの効いた座り心地のよい椅子に座り、勉強机の上に広げた英語の単語練習帳とにらめっこしながら、さっきから、つまらなそうなため息を幾度となくついている。
 わたしは、英語が嫌いだ。
「私も嫌いだよ。だって難しいもんね」
 そんなふうに、みんなも同調してくれる。けれど、わたしが嫌いなのはそんな理由からでじゃない。
「まみは、ずっとこの町で暮らすんだから、英語なんて真剣に学ばなくていいんだからね」
 おばあちゃんが言う。
 言われる度に、間髪を入れず、うん、わかった、とわたしは素直にうなずく。
 春になったら、中学校に上がる。
「中学生になったら、英語の勉強、うんと頑張らないとね。なんたって、いまはグローバルな時代なんだから」
 母さんが言う。
 言われる度に、そ、そうだね、とわたしはどこかためらいがちにうなずいている。
 みんなは、難しくなる英語の授業に備えて、すでに塾に通っている。でもわたしは、二人の意見に翻弄されて塾には通っていない。
 決定的にわたしはおばあちゃんっ子。なので、彼女が悲しむ顔は見たくない。わたしは、だから英語の塾に通ってないのだが、けれど、心の中は割り切れない算数の割り算のようにモヤモヤしていて、単語の練習帳とにらめっこしながら、さっきから、つまらなそうなため息を幾度となくついている。


「ボーン」
 だしぬけに、階下の柱時計が鳴った。
 あまりにも唐突だったものだから、わたしは情けないくらいドキッとして、もう少しで机の椅子から転び落ちそうになるところだった。
 わたしが住む、わりと年季の入った屋敷は町の外れにあって、ずいぶんと広い敷地の中に建っている。
「昔は、何人もの女の子が住み込んでいたもんだがねぇ」とおばあちゃんが、懐かしそうに言う。
 駅前のアーケード街で営む、うちの本屋がたいそう繁盛しているときは、そこで働く女の子達が何人も、この屋敷に住み込んでいたらしい。なので、屋敷には部屋がいくつもある。
 でもそれは、いまは遠い昔の話。というわけで、この屋敷にはいま、おばあちゃんと父さんと母さん、そしてわたしの四人だけしか住んでいない。あ、あとポチの裕次郎と。ただ、彼は老犬なので、番犬としては、ほとんど用を足していないのだけれど……。
 それもあって、古めかしい屋敷に轟く柱時計の低音は、いまにも降り出しそうな不吉な雨の旋律のようで、わたしの心をひどくざわつかせている。
 形は無いのだけど、たしかに屋敷の中にいる「気」のような何かが、そこに住む人びとを恐怖に陥れる――そんなホラー映画を昨夜、父さんに、無理矢理一緒に観せられた。もちろん、それがいけなかった。
 禍々しい不吉な気配のような何かが階段を這い上ってきそうな恐怖感。それが、一人ぼっちで留守番するわたしを、より心細くさせている。
 だからあんなに観たくないって言ったのに……。
 わたしは唇をとがらせて、父さんを呪う。
 するとまさにその時――思わず慄いて、わたしは頬をこわばらせていた。   
 静まりかえった屋敷に突然、ガラガラという小さな音がしたからだ。まちがいなく、これは玄関の引き戸が開く音。でも屋敷にはいま、だれもいない。だから、けっして開くはずがないのに……。
 わたしは、禍々しい不吉な気配が輪郭をともなって屋敷の中に忍び込んできたような錯覚に陥る。
 父さんは町の本屋で仕事中。ひょっとして、母さんが――いえ、車の音がしなかった。それに、近所の人が来たなら、必ず呼び鈴を鳴らすはず。
 じゃ、いったい、だれ?
 やっと温もりを得た部屋なのに、急に、ひんやりとしてきて、ゾッと背筋が凍ってしまう。胸の鼓動が、小さなわたしの身体を突き破り、禍々しい何かに気づかれてしまうんじゃはないか――それほど、異常に、激しく、心臓の鼓動は高鳴っていた。
 だ、だから、一緒に行きたいって頼んだんじゃない……。
 こん度は母さんを呪った。
 刹那、風が遠くからびゅーという音を集めて、それが、ガタガタとガラス窓を大きく揺らし、おまけに、雨まで落ちてきて、パタパタとガラス窓を強く叩いた。
 い、いや――声にならない悲鳴を上げたわたしは、両手で耳を塞いだまま、英語の単語練習帳に顔を突っ伏してしまった……。


つづく
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