第27話

文字数 3,048文字


 わたしは今夜、ふだん通勤の時に利用している地下鉄の車両とはちがう、黄色がすごく鮮やかな車両の電車に揺られている。
 公恵の実家は浅草にある。
 それで、わたしはいま、公恵に会うときしか利用しないない、銀座線に揺られているのだ。
 黄色い電車が浅草駅のホームに滑り込む。電車を降りて地上に出る。それから、雷門を抜けて、浅草寺の本堂に向かって仲見世通りをトボトボと歩く。
 雨のせいで、仲見世通りは人通りがまばらだ。とてもじゃないが、休みの日に見ている同じ通りとは思えない。
 暫時、お客さんのいない土産屋売り場を物色しながら歩いていると、仲見世通りと交差する、伝法院通りにぶつかる。
 公恵の実家は、この通りを左折して、ほどなく歩いたところで、古くからもんじゃ焼き屋さんを営んでいる。
 これは後からだれかに教わった。このもんじゃ焼き屋さんは、若者の間で人気のあるスノッブな雑誌で特集が組まれるほど、けっこう評判のある店だということを――。

 初めてわたしがこの店を訪れたのは、上京してきてまだ間もないころ、気鬱な梅雨の季節のことだった。
 はからずも、わたしはその日、大学のキャンバスで、公恵と出会った。いや、正確に言えば、一方的に声をかけられたという方が正しい。
 梅雨らしく、あれは気がめいるような冷たい雨がキャンバスを煙らせている日だった。
 上京してきて間もないわたしは、その頃、ひとりぼっちの寂しい心が道に迷って、すっかり途方に暮れていた。
 それでだろう。
 朝、鏡のなかを窺うと、ひどく冴えない顔つきをした、どこか他人のようなわたしがいたりした。
 あの日、鬱陶しい雨が、いっそう、それに拍車をかけていたらしい。
 そういう冴えない顔つきをしているわたしを見かねたかのように、突然、公恵が声をかけてきたのだ。
 あまりにも唐突に、キャンパスで声をかけられた、その夜――。
 公恵は、わたしをいやおうなしに浅草のお店に連れて行った。
 暖簾をくぐるなり、ひとりの女性が「あら、キミちゃんおかえり」と朗らかな顔と口調で、二人を出迎えた。
 その彼女の前に、わたしをぶしつけに突き出した公恵は「彼女、岡田真美ちゃん。同じ大学の同級生。今日初めて、キャンバスで知り合ったの」と、せっかちに紹介すると、きょとんとしているわたしをほったらかしにして「この娘ったらさあ……」と、その彼女と馴れ馴れしく話しはじめた。
「わりと長い間、ひとりで、キャンバスの掲示板に貼ってあるポスターをぼんやりと眺めていたの。その横顔がひときわ寂しそうだった。何か思いつめてる、って感じでね……それを見た瞬間、あたし、妙に胸騒ぎを覚えちゃったの。この娘、大丈夫、ってね。そしたらもう、あたし声かけちゃってたんだよね、へへへ」
 それを聞いた女性が一瞬、「あら、まあ」と目を大きく丸めて、「……ほんとうにそうでしたの?  この娘ったら、おっちょこちょいで早とちりが多いんですよね……だから、勘違いして声をかけてしまったんじゃないんですか? もしかしたら、かえってご迷惑をおかけしたんじゃないかと……」そう言うと、彼女は眉をひそめて、わたしをジッと見つめた。
 それが、公恵の母親だった。
 
 スレンダー美人の公恵とは対照的に、ややぽっちゃりとした色白の面持ちで、一見笑っているような涼しげな目が人好きのする女性だった。
 覚えず、わたしは胸をジンと熱くさせていた。
「い、いえ、公恵さんのおかげで、わ、わたし……」
 そこでわたしは言葉を詰まらせるとふいに、うつむいてしまった。
 にわかに胸に熱いものがこみ上げ、それが瞼に伝わり、やがて、熱い雫となって、ポトリ、足元にこぼれ落ちた……。
 日常のふとした瞬間、いまでも、あの日の風景が懐かしさと共に蘇ることがある。
 それからしばらく歩くと、やがて、伝法院通りにたどり着く。
 なぜか、わたしはそこで、立ち止まる。そして、何気に斜め上空を見上げる。見ると、ライトアップされた五重塔が目に入る。
 瞳を閉じる。
 瞼の裏で、あの日の風景がかすかに滲んで揺れていた。
 
 いまにして思えば、あの日が、この物語の――わたしがこの街にきた物語の、そのはじまりの日だったのにちがいない。
 あの日のわたしは、肩でひとつを息ついて気持ちを整えると、人差し指で目尻をそっと拭っていた。それから、笑みを浮かべて、たぶん、かなりぎこちない笑みだったと思うけれど、それをおもむろにあげると、「わ、わたし、岡田と申します。初めまして……」と震える声で、おばさんにちょこんと首を垂れていた。
 そうしながら、わたしは場違いとは思いつつも、こんな夢想をしみじみとしていたものだ。
 この紹介の仕方といい、昼間キャンバスで声をかけられたときといい、彼女は、なんて馴れ馴れしくて、なんて図々しくて、それでいて、どこか憎めない人だなあ、というふうに。
 そうやって、わたしが夢想していると、おばさんが「でも、キミちゃん、あれだわね」と、だしぬけに口を開いた。
  ハッとして、わたしは首を挙げた。そして、おばさんと公恵の顔を交互にちらちらと眺めた。
 なぜか公恵は、おばさんを睨むような目つきで見ていた。
 なによ⁈ まだなにか文句があるわけ、とでも言いたげな目つきで……。
 そんな公恵をしり目に、おばさんが言った。
「いえね、キミちゃんが初対面の人をお店に連れてくるなんて、めったにないことじゃない。だから、ちょっと驚いたのよ」
 なんだ、そういうことか――拍子抜けするような感じで、公恵は尖った目を緩めて、「そうなんだよね……」とひとりごとのようにつぶやくと、「あたしさ、ふと思ったんだよね」とどこか遠くを見るような目つきをして、ことばをつづけた。
「これって、まるで雨の中で迷子になっている仔犬を拾ったような感じじゃん、ってね。それでさ、このまま『じゃあね』っていうのもなんだしなぁって、思っちゃったの。だから、こうして、彼女、無理やり連れてきちゃったんだよね」
 公恵はそう言うと、自分で自分のことばに照れたように、ふんとそっぽを向いてしまった。
 一瞬、えもいわれぬ沈黙が、お店の中に降りてくる。
 その空気を察したかのように、公恵は「何よ」という目つきをして辺りを見回すと、やがて、ぷっと吹き出して、「ちょっとカッコよすぎたか、えへへ」と照れくさそうに頭を搔いた。
「と、とにかく……」
 気まずい雰囲氣から身をかわすように、公恵は緩んだ頬を引き締めて、「それより、まずはお客さんに腰を落ち着かせてもらわなきゃ……後の話は、それからゆっくりということで」と言って、ほらほら、とわたしの背中を押すと、奥の座敷へと忙しなく案内するのだった。
 公恵はそこで、改めて、そこにいた人たち――両親と姉とお店のスタッフを、わたしに紹介してくれた。
 そっか――そのとき、わたしはふと、思ったものだ。 
 公恵は父親似なんだな、というふうに。
 それが、公恵の父親を紹介されたときの、第一印象。
 家族三人と数人のアルバイトで営む、家庭的な雰囲気がふんわりと漂う、なんともいえずほのぼのとしたお店だった。
 紹介された家族は、それぞれが気さくな人たちで、久しぶりにわが家にいるような安心感に浸れた。
 それが導火線になったらしく、おばさんが口にした、「キミちゃんが初対面の人をお店に連れて来るのって、めったにないことじゃない」ということばが胸にストーン落ちてきて、わたしはまた、目頭を熱くさせていた。
 

つづく
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