【明日、白夜になる前に~参~】
文字数 2,598文字
里村鈴美、その名前が頭を回り続けている。
スマホはメッセージと電話で震えっぱなし。だが、そんなことはどうでもよく、ぼくの頭は里村鈴美という女性の顔と名前が浮かんでは消えを繰り返している。
昨夜の薄暗いカーテンの中で見た里村さんの姿はまるで天使のようだった。あれ以来、ぼくの頭は彼女と彼女の名前に占拠されてしまっている。
寝るのもひと苦労。目を瞑ると彼女の朗らかだが、どこか隠し切れない活発さが聴こえてくるようになった。かと思いきや、マスクを着けた彼女の顔が浮かび、名前をいった瞬間の光景が何度となくフラッシュバックする。
結局、眠りについたのは、ベッドの上で目を覚ましてから五時間後、殆ど朝になってからだった。
それから検診があるからと起こされて医者の元へ行ったけども特に異常はなく、まだ何があるかわからないということで、もう数日検査入院したほうがいいということになって、今に至るワケだが、今の今まで、ぼくの頭の中は里村さんのことでいっぱい。
ベッドに横になっていても何だかボーッとする。彼女のことばかり考えてしまう。ぼくはもしかしたら、ヤバいクスリをやっているのかもしれないーーいや、射たれているのかも。
そんなことを考えていた時である。
目の前で何かが揺れたのだ。
ぼくはハッとし、前を確かめる。
「あぁ、よかった! 何だかボーッとしてるからどうしたのかなって思ったよ!」
そういうのは、四、五十代の女性。名前はぼくと同じ『斎藤さん』。この病棟の婦長さんで、患者及び看護師から非常に頼りにされている存在らしい。
「あぁ、いえ、それより何でしょうか?」
「うん。面会の方が来てるからご案内を、ね」
そういうと斎藤さんはカーテンを開け、仕切りの外で待つ誰かに声を掛ける。カーテンを開けて入って来るは、ぼくの両親。年齢は共に六十代半ば。正直、年齢はあまり詳しくは覚えていないのだけど、父は昨年リタイアしたとのことなので、今年で六十六になる。母は父のふたつ下なので、今年で六十四か。
「慎一郎……!」母が涙ながらにいう。「お前、大丈夫なの?」
「まぁ、大丈夫だけど。どうして、ここに?」
「堀内くんが教えてくれたんだよ。インターネットで飲み会やっている最中に倒れたって」
堀内というのは、いうまでもなくあのリモート飲みに参加していた同級生のひとりだ。学年内でも比較的優秀で、学級委員も務めていた優等生だ。うちの家族も出来のいい堀内とぼくを比べては、アンタはどうして堀内くんのようにならなかったのかねぇといわれ続けた。
まぁ、高校中退の父と専門卒で常識の欠片もない母の間に生まれた子供が優等生になるワケがないだろう、と何度も思ったが、結局それはいわずに現在に至る。
それにしても堀内だ。余計なことを、とは思うが、逆に後になって両親の耳に入って面倒なことになるよりはいいか、とこころの内で堀内に感謝をする。ありがとう、ヒゲメガネ。
「やっぱりインターネットっていうのは怖いところだね。あんなもんやめちゃいなさい」
母は相変わらずズレたことをいう。平成初期で脳のアップデートが止まっている人は、やはり違う。ダークウェブならまだしも、単なるブラウザを利用したインターネットなど、如何わしいサイトや広告を踏まない限りは別に危険はない。母は、一時期盛んにテレビで過剰に報道されていた『インターネット危険論』みたいなモノを未だに信奉している。まぁ、『ゲーム脳』ですら未だに信じているくらいだしな。
「お前が倒れたと聞いて、お母さん気が気でなかったんだぞ」
と父がいう。それはそうとアナタはどう思ったのか。そんなことを父がいうはずがない。
昔からそうだ。無関心な父に過干渉な母。家庭崩壊しやすい家族地図の典型。初めての彼女を連れてきた時だって、父は知らんぷり、母はぼくの彼女としてあるべき姿のようなモノを彼女に押しつけようとした。結果、彼女はドン引き、その後すぐに別れることとなった。
それ以降、ぼくは新しく出来た彼女を実家には連れていかなくなった。それどころか、結婚したとしても両親を結婚式に呼ぶつもりは毛頭なく、向こうの両親には、自分の両親は共に死んだとウソをつくつもりでいたくらいだった。
まぁ、今現在のぼくを見て貰えばわかるように、結婚はおろか、彼女もいないのだけど。
と、そんなウンザリする会話をしていると、気づけば夕方。両親は帰っていったけど、ぼくは両親が何をいったかなど覚えていない。それよりも、里村さんが何処にいるか、そればかりが頭の中を先行する。
だが、ぼくに出来るのはベッドの上でただ彼女が現れるのを待つことだけ。
自分から動くことが出来ないワケでは決してないけれど、逆にいえば、それをする理由が見つからないというのもまた事実。下手に動いてオロオロして、アイツは何をしているのだとウワサされるのはよろしくない。陰で無意味に徘徊するボケた三十代みたいな感じにいわれるのはイヤだし、その話が里村さんの耳に届くのは何としても避けたい。
考えれば考えるほどにドツボにハマる。クソッ。何だってぼくは今、こんなにも悶え苦しんでいるのだろう。本当なら、この入院の費用だとか、急に倒れたんで保険証がないだとか、会社に戻って上司にどう説明すればいいかと頭を悩ませる必要があるはずなのに。
それが現実は、頭の中にはひとりの天使ーー
頭が可笑しくなりそうだ。いや、元から可笑しいのかもしれないけど、今はより一層可笑しくなっているように思える。
ぼくは気が気でない。ウイルス騒ぎのせいであまり院内での出歩きは控えるように、とのことだったが、里村さんを探すために、ぼくは結構な頻度で水を飲み、トイレに立つ。その間に横目で里村さんがいるかを確かめる。
だが、彼女の姿はない。
どういうことだろう。もしかしたら、彼女はぼくが思い描いた幻想だったのか。ぼくも急患として運ばれて来て、テンションが可笑しくなっていて、幻覚を見たのではないか。不安がどんどん頭の中に浮かんでは消えを繰り返す。
ベッドに身を預けても、気は休まることを知らない。神経が研ぎ澄まされる。無音が騒がしく感じられる。気が立っている。
彼女は、一体何だったのだろうか。
結局、その日、彼女がぼくの前に現れることはなかった。
やはり、あれは幻覚だったのだろうか。
【続く】
スマホはメッセージと電話で震えっぱなし。だが、そんなことはどうでもよく、ぼくの頭は里村鈴美という女性の顔と名前が浮かんでは消えを繰り返している。
昨夜の薄暗いカーテンの中で見た里村さんの姿はまるで天使のようだった。あれ以来、ぼくの頭は彼女と彼女の名前に占拠されてしまっている。
寝るのもひと苦労。目を瞑ると彼女の朗らかだが、どこか隠し切れない活発さが聴こえてくるようになった。かと思いきや、マスクを着けた彼女の顔が浮かび、名前をいった瞬間の光景が何度となくフラッシュバックする。
結局、眠りについたのは、ベッドの上で目を覚ましてから五時間後、殆ど朝になってからだった。
それから検診があるからと起こされて医者の元へ行ったけども特に異常はなく、まだ何があるかわからないということで、もう数日検査入院したほうがいいということになって、今に至るワケだが、今の今まで、ぼくの頭の中は里村さんのことでいっぱい。
ベッドに横になっていても何だかボーッとする。彼女のことばかり考えてしまう。ぼくはもしかしたら、ヤバいクスリをやっているのかもしれないーーいや、射たれているのかも。
そんなことを考えていた時である。
目の前で何かが揺れたのだ。
ぼくはハッとし、前を確かめる。
「あぁ、よかった! 何だかボーッとしてるからどうしたのかなって思ったよ!」
そういうのは、四、五十代の女性。名前はぼくと同じ『斎藤さん』。この病棟の婦長さんで、患者及び看護師から非常に頼りにされている存在らしい。
「あぁ、いえ、それより何でしょうか?」
「うん。面会の方が来てるからご案内を、ね」
そういうと斎藤さんはカーテンを開け、仕切りの外で待つ誰かに声を掛ける。カーテンを開けて入って来るは、ぼくの両親。年齢は共に六十代半ば。正直、年齢はあまり詳しくは覚えていないのだけど、父は昨年リタイアしたとのことなので、今年で六十六になる。母は父のふたつ下なので、今年で六十四か。
「慎一郎……!」母が涙ながらにいう。「お前、大丈夫なの?」
「まぁ、大丈夫だけど。どうして、ここに?」
「堀内くんが教えてくれたんだよ。インターネットで飲み会やっている最中に倒れたって」
堀内というのは、いうまでもなくあのリモート飲みに参加していた同級生のひとりだ。学年内でも比較的優秀で、学級委員も務めていた優等生だ。うちの家族も出来のいい堀内とぼくを比べては、アンタはどうして堀内くんのようにならなかったのかねぇといわれ続けた。
まぁ、高校中退の父と専門卒で常識の欠片もない母の間に生まれた子供が優等生になるワケがないだろう、と何度も思ったが、結局それはいわずに現在に至る。
それにしても堀内だ。余計なことを、とは思うが、逆に後になって両親の耳に入って面倒なことになるよりはいいか、とこころの内で堀内に感謝をする。ありがとう、ヒゲメガネ。
「やっぱりインターネットっていうのは怖いところだね。あんなもんやめちゃいなさい」
母は相変わらずズレたことをいう。平成初期で脳のアップデートが止まっている人は、やはり違う。ダークウェブならまだしも、単なるブラウザを利用したインターネットなど、如何わしいサイトや広告を踏まない限りは別に危険はない。母は、一時期盛んにテレビで過剰に報道されていた『インターネット危険論』みたいなモノを未だに信奉している。まぁ、『ゲーム脳』ですら未だに信じているくらいだしな。
「お前が倒れたと聞いて、お母さん気が気でなかったんだぞ」
と父がいう。それはそうとアナタはどう思ったのか。そんなことを父がいうはずがない。
昔からそうだ。無関心な父に過干渉な母。家庭崩壊しやすい家族地図の典型。初めての彼女を連れてきた時だって、父は知らんぷり、母はぼくの彼女としてあるべき姿のようなモノを彼女に押しつけようとした。結果、彼女はドン引き、その後すぐに別れることとなった。
それ以降、ぼくは新しく出来た彼女を実家には連れていかなくなった。それどころか、結婚したとしても両親を結婚式に呼ぶつもりは毛頭なく、向こうの両親には、自分の両親は共に死んだとウソをつくつもりでいたくらいだった。
まぁ、今現在のぼくを見て貰えばわかるように、結婚はおろか、彼女もいないのだけど。
と、そんなウンザリする会話をしていると、気づけば夕方。両親は帰っていったけど、ぼくは両親が何をいったかなど覚えていない。それよりも、里村さんが何処にいるか、そればかりが頭の中を先行する。
だが、ぼくに出来るのはベッドの上でただ彼女が現れるのを待つことだけ。
自分から動くことが出来ないワケでは決してないけれど、逆にいえば、それをする理由が見つからないというのもまた事実。下手に動いてオロオロして、アイツは何をしているのだとウワサされるのはよろしくない。陰で無意味に徘徊するボケた三十代みたいな感じにいわれるのはイヤだし、その話が里村さんの耳に届くのは何としても避けたい。
考えれば考えるほどにドツボにハマる。クソッ。何だってぼくは今、こんなにも悶え苦しんでいるのだろう。本当なら、この入院の費用だとか、急に倒れたんで保険証がないだとか、会社に戻って上司にどう説明すればいいかと頭を悩ませる必要があるはずなのに。
それが現実は、頭の中にはひとりの天使ーー
頭が可笑しくなりそうだ。いや、元から可笑しいのかもしれないけど、今はより一層可笑しくなっているように思える。
ぼくは気が気でない。ウイルス騒ぎのせいであまり院内での出歩きは控えるように、とのことだったが、里村さんを探すために、ぼくは結構な頻度で水を飲み、トイレに立つ。その間に横目で里村さんがいるかを確かめる。
だが、彼女の姿はない。
どういうことだろう。もしかしたら、彼女はぼくが思い描いた幻想だったのか。ぼくも急患として運ばれて来て、テンションが可笑しくなっていて、幻覚を見たのではないか。不安がどんどん頭の中に浮かんでは消えを繰り返す。
ベッドに身を預けても、気は休まることを知らない。神経が研ぎ澄まされる。無音が騒がしく感じられる。気が立っている。
彼女は、一体何だったのだろうか。
結局、その日、彼女がぼくの前に現れることはなかった。
やはり、あれは幻覚だったのだろうか。
【続く】