【西陽の当たる地獄花~死重苦~】
文字数 1,965文字
河川に夕陽が差そうとしている。
いつもは澄んだ川も、この時間ばかりは桧皮色に染まっている。波打つ川面がキラキラと光る様はまるで真珠のように美しい。
河川に佇むふたりの男。ひとりは小さい僧侶。悩顕である。相も変わらず難しい顔をしている。そしてもうひとりは紺色の着物を着た、総髪の髪を金属の髪留めでうしろになでつけている者。猿田源之助だ。
「ヤツは死んだのか?」
「いっただろう。大地獄に堕ちた者は死ぬことはない。ヤツはヤツの牢へと戻った。それだけのことだ」
「そうか……」
猿田は悩顕の説明に何処か寂しげな表情を浮かべる。夕焼け前の淡い黄色の陽射しが猿田の表情に影を作り、感情を深く彩っている。
「気になるのか?」
「あぁ。正直、あんな恐ろしいヤツとは二度と会いたくなかった。だが、この大地獄に来てすぐにアンタに、おれに会いたがっているヤツがいると聴いて、何となくピンと来たんだ。きっと、ヤツだろうと」
「ヤツがそこにいる保証などないのに、か?」
「そんなことないさ」微笑する猿田。「おれもヤツも地獄にすら行けないはぐれ者。地獄より下があるとするなら、おれもヤツも最下層の住人であることは間違いない」
「そうか。しかし、可笑しなモンだな」悩顕はケタケタと笑う。
「……何が?」
「アンタがまるでヤツのことを信頼しているような口振りだからさ」
「信頼、か。確かに、下手な善人やそこら辺の町人よりはずっと信頼出来る。考えていることはメチャクチャに見えて、そこにはヤツなりの規律があって、決してそこから外れることはない。そういう意味でいえば、ヤツは絶対に人を裏切ることはないし、それがわかっていれば誰よりも信頼できる」
「なるほどな……」ため息混じりに悩顕はいう。「アンタは川越から落ち延びて小さな村にたどり着き、そして死んだそうだな」
「あぁ……。仲間だと思っていた女に裏切られて、な。まぁ、アイツは始めからおれたちのことを仲間だとは思ってなかったようだが」
「……その女なら、やはり大地獄に堕ちておる。アンタさえよければ、何かしらの手を尽くしてもいいが、どうするかね?」
猿田は悩顕から目を逸らすと無言のまま遠くを見つめる。細やかな風が猿田の髪を揺らす。
「……いや、止めておこう。すべては現世で終わらせて来た」
「アンタがそういうのならそれでもいいんだが。確か、ここに来る前は野武士の隠れ家にいたそうだな」
「あぁ、そこですべてを終わらせたんだ。これで大地獄に堕ちようが悔いはないよ」
「……そうか」
ふたりの男は優しく音を立てる川流れを見ながら沈黙する。時がゆっくりと流れる様は、まるでそこが大地獄であることを象徴しているようだった。ふたりの目が陽の光を受けて輝く。
「……アンタの川越時代の友人に同心がいただろう。随分と心配しているみたいだぞ」
「進藤さんが? 今でも?」
悩顕はゆっくりと頷く。
「あぁ。アンタが今でも何処かで生きておると信じているらしい。優しい男だな。何故あの男がそこまでアンタを気に掛けるかわかるか?」
「……さぁ」
「アンタを自分と重ね合わせてるのさ。あの男が何で『天誅屋』などという闇の稼業を許しておったか、知ってるか?」
「あぁ。凄腕だったらしいな」
「きっと、アンタとあの男ぐらいだろう。牛馬なる男を斬ることが出来たのは」
牛馬。その本名を『牛野馬之助』という。数多くの血を浴びて来た鬼のような男は今、大地獄の何処かでひとり、終わることのない孤独の中で生き続けていることだろう。
「……久しぶりにあの男の兄貴に会ったよ」
「まったく違う男なのだろう?」
「あぁ。同じ親から生まれたにも関わらず、兄貴は武術も学力もそこそこだが、とても人徳のある男だ。それが弟のほうは、武術に学問は素晴らしいが、人間的に鬼となってしまった。一体、何がそうさせたのか」
「人間、生きる上で大切なのは、何処に身を置くか、だ。同じ親から生まれ、育てられたとはいえ、邸宅を一歩出たら境遇はまったく異なるモノとなってしまう」
「皮肉だな……」
「アンタも奥村新兵衛も、そして牛馬も。みなふとした出来事で人生を狂わされた。そういった人間がこの大地獄にはたくさんいる」
「奥村さんも、か……」
「わたしがどうかといっても、アンタはどうせ会わぬのだろう。現世で決着をつけたといって」
「……その通りだ。おれがしたいのは、死んだかつての『同士』との再会ごっこじゃない」
「だが、牛馬の件は受けた。それは何故だ」
「それは……」猿田は静かに口をつぐみ、そして口を開く。「おれもあの男を求めていたから、なんだろうな……。同類として……」
風が吹く。
あの時、牛馬が倒れた場所には、今、紫色の地獄花が咲いている。まるで紫陽花のような色をした世にも珍しい地獄花。
西陽の当たった地獄花が静かに揺れた。
【終】
いつもは澄んだ川も、この時間ばかりは桧皮色に染まっている。波打つ川面がキラキラと光る様はまるで真珠のように美しい。
河川に佇むふたりの男。ひとりは小さい僧侶。悩顕である。相も変わらず難しい顔をしている。そしてもうひとりは紺色の着物を着た、総髪の髪を金属の髪留めでうしろになでつけている者。猿田源之助だ。
「ヤツは死んだのか?」
「いっただろう。大地獄に堕ちた者は死ぬことはない。ヤツはヤツの牢へと戻った。それだけのことだ」
「そうか……」
猿田は悩顕の説明に何処か寂しげな表情を浮かべる。夕焼け前の淡い黄色の陽射しが猿田の表情に影を作り、感情を深く彩っている。
「気になるのか?」
「あぁ。正直、あんな恐ろしいヤツとは二度と会いたくなかった。だが、この大地獄に来てすぐにアンタに、おれに会いたがっているヤツがいると聴いて、何となくピンと来たんだ。きっと、ヤツだろうと」
「ヤツがそこにいる保証などないのに、か?」
「そんなことないさ」微笑する猿田。「おれもヤツも地獄にすら行けないはぐれ者。地獄より下があるとするなら、おれもヤツも最下層の住人であることは間違いない」
「そうか。しかし、可笑しなモンだな」悩顕はケタケタと笑う。
「……何が?」
「アンタがまるでヤツのことを信頼しているような口振りだからさ」
「信頼、か。確かに、下手な善人やそこら辺の町人よりはずっと信頼出来る。考えていることはメチャクチャに見えて、そこにはヤツなりの規律があって、決してそこから外れることはない。そういう意味でいえば、ヤツは絶対に人を裏切ることはないし、それがわかっていれば誰よりも信頼できる」
「なるほどな……」ため息混じりに悩顕はいう。「アンタは川越から落ち延びて小さな村にたどり着き、そして死んだそうだな」
「あぁ……。仲間だと思っていた女に裏切られて、な。まぁ、アイツは始めからおれたちのことを仲間だとは思ってなかったようだが」
「……その女なら、やはり大地獄に堕ちておる。アンタさえよければ、何かしらの手を尽くしてもいいが、どうするかね?」
猿田は悩顕から目を逸らすと無言のまま遠くを見つめる。細やかな風が猿田の髪を揺らす。
「……いや、止めておこう。すべては現世で終わらせて来た」
「アンタがそういうのならそれでもいいんだが。確か、ここに来る前は野武士の隠れ家にいたそうだな」
「あぁ、そこですべてを終わらせたんだ。これで大地獄に堕ちようが悔いはないよ」
「……そうか」
ふたりの男は優しく音を立てる川流れを見ながら沈黙する。時がゆっくりと流れる様は、まるでそこが大地獄であることを象徴しているようだった。ふたりの目が陽の光を受けて輝く。
「……アンタの川越時代の友人に同心がいただろう。随分と心配しているみたいだぞ」
「進藤さんが? 今でも?」
悩顕はゆっくりと頷く。
「あぁ。アンタが今でも何処かで生きておると信じているらしい。優しい男だな。何故あの男がそこまでアンタを気に掛けるかわかるか?」
「……さぁ」
「アンタを自分と重ね合わせてるのさ。あの男が何で『天誅屋』などという闇の稼業を許しておったか、知ってるか?」
「あぁ。凄腕だったらしいな」
「きっと、アンタとあの男ぐらいだろう。牛馬なる男を斬ることが出来たのは」
牛馬。その本名を『牛野馬之助』という。数多くの血を浴びて来た鬼のような男は今、大地獄の何処かでひとり、終わることのない孤独の中で生き続けていることだろう。
「……久しぶりにあの男の兄貴に会ったよ」
「まったく違う男なのだろう?」
「あぁ。同じ親から生まれたにも関わらず、兄貴は武術も学力もそこそこだが、とても人徳のある男だ。それが弟のほうは、武術に学問は素晴らしいが、人間的に鬼となってしまった。一体、何がそうさせたのか」
「人間、生きる上で大切なのは、何処に身を置くか、だ。同じ親から生まれ、育てられたとはいえ、邸宅を一歩出たら境遇はまったく異なるモノとなってしまう」
「皮肉だな……」
「アンタも奥村新兵衛も、そして牛馬も。みなふとした出来事で人生を狂わされた。そういった人間がこの大地獄にはたくさんいる」
「奥村さんも、か……」
「わたしがどうかといっても、アンタはどうせ会わぬのだろう。現世で決着をつけたといって」
「……その通りだ。おれがしたいのは、死んだかつての『同士』との再会ごっこじゃない」
「だが、牛馬の件は受けた。それは何故だ」
「それは……」猿田は静かに口をつぐみ、そして口を開く。「おれもあの男を求めていたから、なんだろうな……。同類として……」
風が吹く。
あの時、牛馬が倒れた場所には、今、紫色の地獄花が咲いている。まるで紫陽花のような色をした世にも珍しい地獄花。
西陽の当たった地獄花が静かに揺れた。
【終】