文字数 1,479文字

 ようやく明るさに慣れてきた目で女を見た。女は若くもなく、年老いているわけでもなく、中性的で、そして機械的だった。
「できないでしょうね、だって宇宙には物理的な始めと終わりなどないのだから」
 女が手招きした。
「この世が仮想現実だという理由を教えてあげる」
「こっちへ来て、この穴からちょっと覗いて見てごらんなさい」
 後ずさりした。
「遊んでいる暇などない。ミライを早く探さなくては」
「ミライ? 誰かしら?」
「それはそうでしょう、ミライは僕が作った恋人だから」
 女が数回頷き、声をあげて笑った。
「何がおかしい?」
「私も随分と長くここにいて、色んな人に出会ったけど、恋をしているなんて言った人は初めて。皆、悲しいとか、苦しいとか、死にたいとか、そんなことばかり。あなた変わっているわ」
 目を逸らせた。顔が熱くなった。女が瞳の奥を覗き込んだ。
「ここは境界、ミクロとマクロ、光と闇、生と死、躁と鬱。この世の全てのものが相対しながら存在している。その境界の世界」
「まさか」
「本当に境界線なのよ。だからここから絶対に出られないとは言わない」
「出口があるってこと?」
「でも、ここは全てのものを吸い込んでしまう穴の入り口でもある。一度吸い込まれたら、誰も逃れることができない。科学によって解明されたのは、その存在だけ。人間は宇宙の中で宇宙を抱えている。ブラックホールと人間の心は対になって存在している」
「人は生を望み、そして死を望む」
「死を望む人間なんていない」
「そうかしら? 世界にはたくさんの人が自らの命を絶っているというのに? 生あるものは、私もあなたも常に死に向かっている。この世界、いや、この宇宙自体が自ら死を望んでいる。それが時間という概念。生と死が無ければ、時間も存在しない」
「宇宙にも意思がある。生きようとする意志も同時にある。不思議なものよね。人体にも癌ができるでしょう。宿主を殺してしまえば自らも死ぬとわかっているのに、止まらない。ブラックホールは、健康な銀河、惑星を食い尽くす。後は滅びて無になるだけ」
「この世界と外界とを隔てている白い壁。それはあなたがさっきまでいた部屋の周りにあった境界線のこと。それを境に時間と空間の役割が入れ替わる。つまり、壁の外はこことは逆に、どこまでも明るくて、自由に空間を動き回ることができるけど、そのかわり時間の逆転ができない。ここは全てが暗くて、どこにも行けない不自由な空間である代わりに時間の逆転が許されているってこと」
「信じられないけど」
「でしょうね、外の世界はエナジーさえあれば、宇宙にだって飛び出せる。けれども外界で人間は歳をとる。時間のベクトルは非可逆でしょう。ところが、ここではあなたも知っているように、外へ出ることはできないが、その気になれば歳もとらないし、今よりも若返ることだってできる」
「死なないってこと?」
「そう、『死』という概念を消せばよいだけ。この世界ではそれを死とは呼ばず、『無』と呼んだり、『ゼロ』と言ったりする。物事は無になることはあっても、始まりもしないし、終わりもしない。つまり、巨大なブラックホールの中にあっては、始まりと終わりが無いのだから、時間という概念そのものが失われていることになる」
「僕も、あなたも無になってしまうということ?」
「あなたも、私も、現在まさに真っ暗な穴に落ちている最中というわけ。無に向かって真っ逆さまに。それに逆らえば逆らうほど、エナジーを費やせば費やすほど、質量も増して、より大きな重力がかかり、そのスピードも増して巨大なブラックホールの底に吸い込まれて行く」
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