文字数 738文字

 逃げようと思った。必死に出口を探した。初めは無闇に歩き回ったり、建物の奥へと続く廊下を走ってみたりした。しかし外へと続く路も扉も無かった。自分はどうやってここに迷い込んだのか? どうしても思い出せなかった。不安が滴り落ちる雫のように音を立てた。それは時に鋭い胃袋への差込であったり、顔面の皮を焦がす程の熱い血の逆流であったりした。その不安をやり過ごそうとすればするほど、自分を無気力にして行くしかなかった。自分を無に近づけて行くと不思議なもので、この工場で働くことが実は深層心理では欲求であったのではないかと思えてくる。意味? 生温かいにおいを漂わせて人間の体が運ばれてくるから、仕方なく器具を手にしているに過ぎない。一生涯ここから逃げ出せないというのなら、生き延びている意味など無い。そう、意味など元々無かったのだ。この薄暗い工場の中でローラーの回転する音を聞きながら、ただ「無」として過ごす。意味は無い。我々が体験するものは、常に時間と共にあるべきだ。頭の中の時間を除けば、時間は常に非可逆的で、そう考えてみると人はいつも瞬間を失っている。行動することとしないことが同等の価値を持ち始め、そこに生じる差は、人が意識するか、しないか、ただその一点に集約される。無になって行くとは意識が薄れて行くことに他ならない。そうでなければ、人が生きていることと、死んでいることが天秤のように釣り合ってしまう。そう「意識」の問題なのだ。意識が存在の鍵なのだ。この世界において、不安や恐怖でさえ、意識の中の一つでしかない。果たしてこの工場で作られる肉体に、意識が与えられるのだろうか? 工場で作られた肉体が意識を持ち、いつの日か外界を歩き回る姿を想像した。すると急に笑いが込み上げてきた。
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