文字数 1,135文字

 ここでの仕事は、ある特殊な器具を使っての造形である。初めの頃、加工される前の肉の塊が運ばれてくるだけで体の力が抜けた。人間の肉体そのもの、しかも顔が付いてない男でも女でもない奴。それは表面が透き通った粘膜で覆われ、土気色した塊だった。それを男でも女でも自分が思ったように形を彫り込んで行く。孤独な作業だった。ハンダごてのような器具を使って肉を彫る。手が震え、額から汗が噴き出した。肉塊にレーザーを照射すると、血は流れなかった。恐る恐るレーザーの照射位置を動かしてみる。すると、肉片がするりと彫れて人間の股のような形ができた。膝を作り、腹になる部分の肉を削って、胸に二つの豊かな膨らみを作った。時折掌でそっと撫で、丸みと少し跳ね上がった曲線を描き、ソフトにしかも弾力のある肉感を持たせた。次第に、人間を彫ることに夢中になった。彫刻で遊んでいるかのような気分だ。頭を小さく作り、何度か失敗しつつも顔を彫った。脚には特に時間をかけた。滑らかに、多少肉付きのよい丸みを与えた。指に至っては、手の腹で柔らかく捏ねるようにして細くした。しかし、たった一箇所だけ、女性器だけが思うように作れなかった。以前、この工場で働く前に、付き合っていた女性がいた。けれども彼女の体を知らなかった。自分から別れを切りだした。以来ずっと一人だった。大人の肉体を手に入れてから、性交というものに欲望とは異なる感情を抱いた。肉体的にではなく、精神的に他人との交わりを拒んだ。その「壁」のせいで、自分がインポテンツではないかと思い込んでいたし、女性を前にして赤面したまま、言葉を失ってしまう。しかし、テツヤはたった一人で部屋にいる時、誰にも負けないくらい雄弁に愛を語ることができた。
 この見知らぬ工場に迷い込んだ初めの頃、正直言って不安よりも安らぎを感じた。なぜなら、そこが他者との関わりを必要としない空間だったからである。呟きは、常に自分自身のためにあった。ところが、次第に周囲の物を意識する力が衰えた。やがて自分の名前に疑問を持つようになった。記号で「A」でも「B」でも一緒ではないか? 自分の名前を思い出すことに苦労するようになった。急に不安になり、大声で自分の名前を呼び続けた。忘却の恐怖を感じ、言葉を手当たり次第、意味も無く叫び散らした。やがて音と意味が結びつかなくなり、音が分離し始めた。毎日、音と意味を結びつけること自体が苦痛になった。何も思い出せなくなりそうだった。一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。そうしなければ、自分がこれまで経験した全てのことを、思い出せなくなる。人の名前も、物の名前も意味も、まるで認知症を患った人のような、喪失と忘却への恐怖。このままここに居てはならない。
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