お嬢様硬派

文字数 4,625文字



 ある町に第一高校という学校があり、男子校だが、バンカラ風のあまり上品でない校風で知られていた。
 といっても乱暴や喧嘩をするのではなく、せいぜいが左右に大きく広がって道路を歩いたり、大声でおしゃべりをするといった程度なので、人々も大目に見ていたところがある。
 だが一つだけ見過ごせないことがあった。
 生徒たちは通学にバスを利用するのだが、車内の床に車座になり、すぐにサイコロ勝負を始めてしまうのだ。
 この悪癖の中心にいるのはある学生で、名を堂本ナニガシといったが、もじって『胴元』とあだ名されていた。
 この胴元、背は高く、髪はぼさぼさ。
 高校生なのに、海賊のような無精ひげを生やしている。
 制服などは、アイロンとかプレスとかいう言葉など聞いたこともない様子。
 留年を二度繰り返し、現在は高校5年生だそうな。
 サイコロはもちろん、座布団や茶碗、点棒まで用意する本格派で、平和な車内は一瞬で賭場の雰囲気と変わり、他の乗客、特に女学生たちが眉をひそめる結果となった。
 第一高校の近隣には女子高もあり、通学には同じバスを利用していたのだ。
 女子校の生徒会は、もちろん第一高校に苦情を入れた。
 第一高校は当番を決め、教師をバスに乗せて巡回するようになった。
 しかしすべてのバスを見張れるわけではない。
 教師の目のないバスを見つけ出して胴元一派は乗車し、車内はいつものように御開帳となった。
 だが女生徒たちも負けてはいない。
 ガラスびんを携帯し、その中に水を入れてバスに持ち込むようになったのだ。
 胴元一派が乗車してくる気配を感じると、女生徒たちはビンを取り出し、
「おっとっと」
 とわざとらしく口にしつつ、床に水をまくのだ。
 こうすると車座はできなくなる。
 だがこの方法も、数日しか効果がなかった。
 ある日から胴元一派は、それぞれレンガを一つずつ手に乗車するようになったのだ。
 濡れた床に置き、猿のようにチョコンと腰かける。
 これならズボンが濡れることはない。かの胴元本人の発案であるようだ。
 バスは再び走る賭場と化し、 翌朝も一日は同じように明けた。
 通学時間となり、バスは混雑しはじめた。
 いつものようにサイコロ勝負が始まる。
 一人が茶碗を手に、サイコロを入れて振り、座布団の上にサッと伏せた。
 そしていざ茶碗をとり、サイコロの目を見ようとした時、車内にいた女学生たちは声を合わせ、一斉に口を開いたのだ。
「南無阿弥陀仏」
 胴元一派はポカンとした顔をした。
 何が起こったのかわからずキョロキョロしたが、見ても何も変わったところはない。
 女学生たちはみな、なんでもない顔で本を読んだり、窓の外を眺めたりしている。
 気を取り直し、バンカラ一派は勝負を続けることにした。
 次の一人がサイコロを振り、目を見るためにまた茶碗を持ち上げようとした。
「南無阿弥陀仏」
 再び同じ唱和が車内に響いた。
 女学生たちは全員が声を合わせ、窓ガラスがびりびり震えるほどだ。
 コーラス部の所属者が特に大きな役割を果たしたのは言うまでもない。
 何が起こっているのか、やっと男子学生たちも気がついた。
 しかし、ここでやめるわけにはいかない。
 意地でも勝負を続けるのだ。
 チンチロリン。
「南無阿弥陀仏」
 そのたびに、ありがたい仏の言葉が車内に響き渡った。
 さすがのバンカラたちも、これには閉口したようだ。
 ナムアミダブツと何度も何度も聞かされているうちに、仏罰でも受けそうな気がしたのかもしれない。
 いつの間にかバス車内での御開帳は下火になった。
 この成果に女子生徒たちは大いに満足したが、大掃除はまだまだ終わらない。
 バス車内はとりあえずきれいになった。
 次は、校門とバス停の間の道路に目をつけたのだ。
 女子生徒たちは不満の声を上げた。
「あの道路を歩くとき、第一高校の男子たちが私たちを変な目で見るんです」
 不満を述べたのは数人のグループだったが、
「変な目とは何か?」
 と問われ、さっそく答えた。
「ジロジロいやらしい目で見るんです」
「制服のスカートのすそばかり、目で追うんです」
「私めがけて手を振るんです」
「聞こえよがしに口笛まで吹くんです。あれはナンパだわ。ああいやらしい」
『お嬢様硬派』は、ナンパなど認めない。
 再び大掃除をすべく立ち上がったのだ。
 まず女生徒は、5人組で1グループを作った。
 放課後、これが当番で街中をパトロールするのだ。
 このグループの中にいたのが、若き日の筆者の母親なのだ。
 母は特に熱心なメンバーで、その日も張り切って、校門とバス停の間を往復した。
 下校する女生徒、特にか弱く可愛らしい下級生たちを、狼の目から守らんと決意に燃えていた。
 女子のことだから、もちろん武装はしていない。
 公衆電話から警察へ緊急通報するための10円玉。
 法的根拠を示すための六法全書。
 けたたましい音を立てる防犯ブザー。
 キャアと悲鳴を上げるためのメガホン。
 以上が必要な道具だった。
 まったく鬼に金棒という気分だが、この町は山に近く、野生動物との関わりも深いことを見過ごしたのは、若気の至りだろう。
 猪は頭のいい動物だ。
 山に食物が少なくなる冬場、平地へ出没してゴミをあさるうち、偶然学習したのだ。
「人間が手に持つ買い物袋の中には、おいしい食べ物が入っている」
 将来の良妻賢母を目指す娘たちだ。
 パトロール道具をアタッシュケースに収めたりはしない。
 その用途には、普段使いの買い物袋を使用した。
 大きく膨らんだ買い物袋で、これを猪が見逃すはずがない。
「きゃあ」
 突然目の前に出現した茶色い猛獣に娘たちは驚き、散り散りに逃げた。
 しかし母だけは腰を抜かし、その場にへたり込んだのだ。
 しかも買い物袋は、母の手の中にあった。
 猪が迫る。
 その牙は鷹の爪のようにカーブを描いて上を向き、先端は鋭く尖っている。
「助けて…」
 母に口にできたのは、それだけだった。
 立ち上がるどころか身動きもできず、まさに伝説の怪物クラーケンに襲われるアンドロメダ姫のごとしだが、ここにも勇者ペルセウスは存在したのだ。
 太い声がその場に響いた。
「買い物袋を捨てろ。猪はそれを狙っているんだ」
 母は従ったが、震える手に力などない。
 買い物袋は、力なく数メートル宙を舞うだけに終わった。
 しかしそれで充分だったのだ。
 猪が買い物袋へ向かった瞬間、力強い手が母を抱き上げていた。
「ああ」
 お姫様抱っこをされ、母は無事、現場を離脱したのだ。
 生命の危機から救ってくれた相手に礼を述べるに当たり、母がどれほど心の抵抗を感じたか、想像するのはたやすい。
 なにしろ相手は、母たちが敵視した男子校のバンカラ学生の一人だったのだ。
 それどころではない。あの胴元本人ではないか。
「あ、ありがとう」
 それでも母は口にした。
 相手が誰であれ、礼を失しては、お嬢様硬派の名がすたる。
 分厚い唇を広げて笑い、隠れて吸っている煙草のせいで茶色い歯を見せ、胴元は豪快に笑った。
「お嬢さん、気にするんじゃねえよ」
 だがこの一件で、母とは顔見知りになったと胴元は解釈したのだろう。
 高校生であるのに、胴元は本当に煙草が好きで、教師の目がない限り、いつもスパスパやっていた。
 停留所でバスを待つ間も例外ではなく、無精ヒゲまで黄色く染まっていたほどだ。
 バス車内は禁煙だから、もちろん胴元も煙草を捨てて乗り込んだが、しかしあの男、何もせずにただ立っているだけで匂う。
 ある日、車内でついに母は口を開いたのだ。
「胴元さん、少し煙草はお控えになったほうがいいんじゃありません?」
 なんとも母は怖いもの知らずだが、胴元は顔色も変えなかった。
「いくら俺のタバコが匂うったって、母親のおっぱい臭いあんたよりは多少はマシだがね」
 車内は爆笑の渦に包まれた。
 母は顔を真っ赤にし、学校はまだまだ先だったが、ちょうど停車したバス停でそそくさと下車してしまったほどだ。
 そのツンとした後ろ姿に、胴元はまわりのバンカラたちと、さかんに目配せをした。
 もちろん騒ぎはこれだけではすまなかった。
 翌朝から胴元は、バスがやってくるギリギリの瞬間まで煙草を吸い、煙を肺の中いっぱいに貯め、一息も吐き出さずに車内に乗り込むようになったのだ。
 そして母を見つけて真横に立ち、当たり前のような顔で話しかける。
「やあ文子さん。今日はまた一段とお美しいですなあ」
 その息が煙たいこと煙たいこと。
 母はウッとうなり、ハンカチを鼻に当てて下を向く。
 胴元は顔を上げ、まわりの連中とニヤリと笑い合う。
 母だけでなく、まわりの乗客たちも匂いを感じたが、窓を開けて換気することはできなかった。
 季節は真冬で、このバスは暖房のききが悪いのだ。
 同じことが何日も続くと、
「この車内は禁煙ではないか」
 と母は車掌に苦情を言った。
 車掌は苦笑いしながら注意をしたが、胴元はおどけた顔で、
「俺は車内じゃ一本も吸っちゃいませんぜ」
 と答えるばかりだった。
 翌日から、母は車内でできるだけすみに場所を取り、胴元を避けるべく試みた。
 だが胴元も、体は大きいがひどく身軽なので、ちょっとした隙間を見つけ、ひょいひょいと近づいてくる。
 これには母もどうにもできなかった。
 そうこうするうち、胴元は新しい作戦を思いついた。
 煙草を2本まとめてくわえ、2倍の煙を体内に蓄えてからバスに乗るようになったのだ。
 あの狭い車内、3メートルの距離を取っても匂いが届き、母は閉口し、ますますスミで小さく縮こまった。
 胴元は調子に乗り、一度にくわえる煙草の数を増やしていった。
 3本になり4本になり、ついに5本になった。
 火のついた5本の煙草を同時に吸う光景は、なかなかの見ものだったが、それが最高記録となった。
 その朝も胴元は、5本の煙草に同時に火をつけた。
 遠くにバスが見えると肺を忙しく動かし、胴元は煙を精一杯、吸い込んだ。
 バスが停車した。煙草は5本とも灰皿に捨てられる。
 息を吐かないために口を閉じ、顔を真っ赤にして、胴元はバスの踏み段を上がった。
 一段、もう一段。
 ひどく苦しそうだ。
 それでも3段目を登りきり、バスの床に立った。
 だが突然、胴元はウッと叫び声をあげ、白目をむいたのだ。
 そのまま意識を失い、前のめりに倒れてしまった。
 まるで切り倒された大木のような塩梅だが、胴元は一向に起き上がる気配がない。
「胴元さん!」
 カバンを放り出し、母は介抱を試みた。
 だがいくらゆすっても、頬を叩いても、胴元は目を覚ますどころか、ピクリともしないのだ。
「胴元さん!」
 騒ぎを聞きつけた車掌が運転手に命じ、バスは停車した。
 見ると母は、自分の膝を胴元の枕代わりにあてがっている。
 大きな体ゆえ、何人もで力をあわせて胴元を車外に運び出したところが、その場所がたまたま母の家の真ん前であったとは、どういう偶然であるのか。
 今しもわが腕の中で息絶えんとする魂に接して、突如として母性本能の沸き上がりを見せたのかもしれない。
 乗客たちに手伝わせ、母は胴元を家に運び込み、手当を行ったのだ。
 幸いに胴元は死んでおらず、かいあって、そのうちに息を吹き返した。
 ただ全快までは数日を要したようだ。
 その後、母と堂本の間で何が語られ、どのような出来事が起こったのか。
 そのバンカラが自分の父親であることを喜んでいいのかどうか、筆者にはわからない。

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