踊る男

文字数 1,757文字


 幸子の学級で、ある論争が持ち上がった。
 教室は校舎の端にあり、道路を見下ろすことができる。
 午前11時、毎日いつも決まって、その道路をある男が通るのだ。
 本当に時計のように正確で、職場へ向かう徒歩通勤者だろう。
 グレイの背広姿で、身なりにも服装にも、おかしなところはない。
 だがいつも必ず耳にイヤホンを刺し、音楽を聴いている。
 何の音楽か、幸子たちが知るよしもない。
 しかし問題は、その曲に合わせて、男がいつも踊っているということだ。
 アップテンポの曲で、まるでツイストのように体をひねり、両手足を動かす。
 そして曲が最高潮に達する時、不意に立ち止まり、バレリーナのように、男はクルリと一回転するのだ。
 毎日毎日そうだから、目立たないわけがない。
 いつの間にかクラス全員の知るところになり、男にはダンサー氏とあだ名がつけられた。
 幸子たちの議論の要点は簡潔だった。
 ツイスト風のダンスは、毎日毎日正確に同じで、クライマックスでクルリと一回転するのも変わらない。
 男がいつも同じ曲を聞いているのは疑いない。
 人様の音楽の好みなど、幸子たちがどうこう言うべき事柄ではない。
 しかし好奇心は抑えきれない。
 いつしかクラスの話題は、これ一色になった。
『ダンサー氏は、はたして何の曲を聴いているのか』
 教室で作戦会議が行われた。
「ダンサー氏のそばまで行って、すれ違いざまに耳を澄ませたら?」
「それで曲名が判明するかどうかは疑問だわ」
「正々堂々、本人に質問してみれば?」
「授業中に誰が教室を抜け出すの? 私は嫌よ」
 ここで議論は停止した。
 真面目な学校ゆえ、授業をサボる志願者は現れなかったのだ。
 しかし事態は急転直下、すべてが明らかになる日が来た。
 教室の真下で交通事故が起こったのだ。
 もちろんダンサー氏のかかわる事故ではない。
 タイヤが突然パンクし、バランスを崩した自動車が並木に衝突した。
 幸いケガ人は運転者だけで、しかも切り傷ですんだ。
 だが現場は交通量が多く、ときならぬ渋滞が発生したのだ。
 そこへ自ら交通整理を買って出たのが、通りがかった例のダンサー氏だったのだ。
 イヤホンを含め、彼の私物はそばの歩道に置かれている。
 今しかないっ。
 すばしっこい女生徒の一人が教室を抜け出したことに、定年間近の老教師は気がつかなかった。
 廊下を走り、階段を駆け下り、運動場を横切るのに時間はかからない。
 そして彼女は何食わぬ顔で、まだスイッチが入ったままのイヤホンに耳を近づけ、内容を聞くことに成功したのだ。
 幸子の席は教室の窓際にあり、下の様子をのぞき見ることができた。
 道路へ降りた同級生は、確かに耳をイヤホンに近づけている。
 しかしその表情が浮かないのだ。
「どうしたのだろう? 聞いたことがない奇妙な曲なのかな?」
 だがこの時、かのダンサー氏が彼女に気がついた。
 ついと近寄り、話しかけたのだ。
 幸子の耳には届くはずもないが、
「君は何をしているんだい? それは僕のイヤホンだよ」
 とでも言っているのだろう。
 だがダンサー氏は怒る様子もなく、彼女と二言三言話した。
 そして彼女は教室へ戻ってきたのだ。
 盗み聞き屋の姿が教室に見えるまで、幸子たちは生きた心地がしなかったが、老教師は結局何も気づかなかった。
 その後、休み時間がどれほど待ち遠しかったか。
 ついにベルが鳴った時、誰のまわりに人垣ができたか、説明の必要はない。
「ねえねえ、何の曲だった? ねえったら…」
 ところが当の本人はおかしな顔をしているのだ。
「音楽じゃないわ。あの人は円周率を暗記しようとしているのよ」
「円周率?」
「πのことよ。3・14ってやつ」
「それがどうして?」
「世界中の国名とか周期表とか、あの人は色々なものを暗記するのが趣味なんだって。それで今回は円周率に挑戦してる」
「それで?」
「あのテープにはそれが録音してあるのよ。3・14159265…。あとは知らないわ。体を動かしながらだと、暗記がはかどる。それがあのダンスね。
 そして最後、切りのいい300桁目の数字まで来た時、『これで〆』という意味で、さっと一回転…」
「なんだあ。そんなことかあ」
 この結末に、クラス全員がため息をついた。
 しかしその日以降、男のあだ名は『πおじさん』と変わったのだ。

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