鏡の中

文字数 2,336文字


 英一は駅のトイレへ行き、手を洗っているところだった。
 目の前には大きな鏡があり、背後の景色が写っている。
 その中には小さな男の子の姿があり、英一の後ろに並んで順番を待っているのだ。
 英一は急いで手を洗い終え、場所を空けるために振り返った。
 ところが驚いたことに、そこには誰もいないのだ。
 5、6歳の男の子が確かにいたと思ったのに。
 男の子どころか、トイレの中はガランとして人影もない。
 首をかしげながら、英一はトイレをあとにしたが、数日後にまた同じトイレを利用する機会があった。
 手を洗いながら英一は、先日の男の子のことを思い出した。そして鏡を見ると、またそこにいるのだ。
 何か言いたげな表情だが、口は閉じている。英一は振り返り、場所を譲ろうとした。
 だが今度も誰もいないのだ。
 トイレの中は空っぽで、人影すらない。人が隠れている気配もない。
 同じようなことが、同じ場所でその後も何回か続いた。意地になって、英一は学校帰りには、いつもこのトイレに立ち寄るようにしたのだ。
 そのたびに男の子が鏡の中に現れる。だけど彼は口を閉じたままで、何も言わない。
 そして英一が振り返ると、もう影も形もない。英一はだんだん腹が立ってきた。
 ついにあるとき、振り返らずに鏡の中へむかって話しかけてみたのだ。
「君は一体、どういうつもりなんだい? なぜいつも僕に付きまとうんだい?」
 すると男の子はにっこりと笑い、ある方向を指さすではないか。
 それが奇妙な方向で、あのトイレには外へむいて開いた窓があるのだが、そのすぐ外にあるひさしのあたりなのだ。
 古いトイレだから、ひさしは瓦屋根になっていて、赤く錆びた雨どいが取り付けてある。
 このトイレと同じように、男の子の身なりもかなり古くさいということに、英一は突然気がついた。
 丸刈り頭をしているので、耳が左右にぴょこんと大きく目立つ。
 着ているのはくすんだ茶色の学校制服のようなもので、歴史の本では国民服と紹介されているやつだ。
 つまりこの男の子は、第二次世界大戦ごろの服装をしていたわけだ。
 英一の家は、この駅からそう遠くないところにある。
 両親や祖父と一緒に暮らしているが、英一は祖母の顔を見たことがない。
 祖母は第二次世界大戦中に死んだ。
 祖母はちょうどこの駅にいて、列車に乗ろうとしていた。そこへアメリカの爆撃機がやって来たのだ。
 駅の建物はまわりの家々よりも大きいから、軍需工場と誤認したのかもしれない。
 爆弾が命中し、駅は跡形もなく吹き飛んでしまった。
 祖母はそのときに死に、英一が毎日利用しているのは、戦後建て直された新しい駅だ。
 古い時代の駅は、現代とは少し構造が違う。トイレが駅の外にあり、別の建物になっていることが多かった。
 公園にある公衆便所を思い浮かべてもらえばいい。
 小さな小屋のような建物で、駅のトイレはどこでもみんな、ああいう感じだった。
 だから爆弾が爆発した時も、駅のトイレだけは無傷で残ったのだ。
 戦後に駅は作り直されたが、トイレだけは当時の姿のままで現在に到っている。
 祖母の死体は発見されず、爆発で粉々に吹き飛んでしまったものと思われた。
 祖母は金持ち一族の出身で、嫁入り道具はいろいろと豪華だったらしい。
 中でも一番だったのはダイヤの指輪で、当時でも一個でひと財産と言われた。
 しかし今は英一の一家は没落し、先日も両親の内緒話を偶然耳にしたのだが、借金を返すために、いま住んでいる家も近々、売り払わなくてはならないということだった。
 父が経営していた会社が倒産し、債権者に追われるのが日常になっていたのだ。
 だが英一にどうこうできる話ではない。気づかないふりをして、毎日を過ごすほかなかった。
 そんなところへ鏡の中から男の子が現れ、トイレの窓の外を指さしたわけだ。
「えっ?」
 英一は思わず振り返った。
 そのときには男の子の姿はもう消えていたが、彼がどこを指さしていたのか、英一ははっきりと覚えていた。
 英一は窓に近寄り、ひさしを見上げた。両手をかけ、窓にはい上がってみた。
 ひさしがさっきよりもずっと近くなる。雨どいにだって手が届きそうだ。
「あっ」
 突然バランスを崩し、英一は転がり落ちそうになった。思わず手が伸び、雨どいをつかんでしまった。
 だが戦争前から立っている古い建物だ。雨どいは簡単にちぎれ、ガタンと外れてしまった。
 だけどそのとき、雨どいの中から何かが出てきたのだ。内部に引っかかっていたものが転がり落ちてきた感じだ。
 それは床に落ちて、小さな音を立てた。
 英一はなんとか窓から落ちずにすみ、ほっとしたけれど、雨どいから出てきたものに気がついて、思わず小さな声を上げた。
 それがダイヤの指輪であると理解した時、どれだけ驚いたことか。
 銀色のリングに、人差し指の先ほどの透明なダイヤが取り付けてあるのだ。拾い上げて、英一は駅員を呼びにいった。
 駅員は警察官を呼び、警察官は鑑識課員を呼び、ちょっとした騒ぎになった。
 翌日の新聞にも小さな記事が出たほどだ。
 指輪の裏側には刻印があり、製造メーカーはすぐに知ることができた。
 英一にとって幸運だったのは、指輪には製造番号も刻印されており、しかもメーカーが製造台帳を現在でも保管していたことだ。
 その番号から、これが英一の祖母の所有物だったことはすぐに証明できた。
 だから英一は、今でも以前と同じ家に住み、転校することなく同じ学校に通っている。
 指輪を売って得た代金は、借金を返してもまだ余裕があり、父はそれを元手に新しい仕事を始めることができた。
 蛇足だが、その後英一があのトイレを何回利用しても、あの男の子が鏡の中に姿を現すことは二度となかった。
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