1. 奇妙な同居人

文字数 2,943文字

妙な生物を手に入れた。
そいつは俺が家の洗面所で顔を洗ったあと、洗面台にはりついていた。
紫の、痰のようななにか。それがじわりと意志を持って動いた。ナメクジかと思ったそれは、確かに動きはナメクジに似ているが、体は丸い。親指の先ほどのちいさなそいつは、ずりずりと洗面台を這い、そうしてようやくこちらをみた。
確かにそこには目があった。
それは、まぎれもなく生き物だった。
しばらくじっと見つめ返していたが、そいつはずりずりとこちらによってくると、にか、と笑うように口を開けた。歯は見えなかった。
最初は悪い夢を見ているのだと思った。顔を洗った水と合わせて流してしまおうと思った。俺だっていつもはそうしている。本当に訳のわからないものに出会った時、俺がとるのは逃げの一手だ。目を背け、極力関わらないようにする。この世界の歩き方として、それが良いと思ってきたからだ。
それでも俺はそいつを流さなかった。かといって、ハエのように叩き潰したりもしなかった。これは多分夢なのだ。いつもだったらどうにかして部屋から出そうとする来訪者を、その時ばかりは俺は受け入れていた。いずれいなくなるものだという予感があったのかもしれない。だから俺は放っておいた。
しかし、いくら時間が経っても、そいつはそこにいた。次の日も、また次の日も。変わらず洗面台に小さな体をはりつかせていた。
なんとなく、おい、と声をかける。二つの目が、こちらを見た。
その時俺は何故だか、こいつを飼おう、と思ったのだ。
この間空いたジャムの小瓶を持ってきて、移そうとしてやる。瓶の口をそいつに近づけて、促した。
しかしどうにも嫌なようで、ずりずりと瓶の口から離れようとする。
焦ってはいけないと思いつつ、うまくいかないことに少し苛立ちを覚えながら、俺は違う皿を持ってきた。1年ほど前にコンビニの食料品のおまけとしてもらったものだ。使い道がなく食器棚の奥で眠っていた。小さいが、すこし深め。しかし茶碗とするには小さ過ぎる。そんな皿である。
その皿を近づけてやると、そいつはやはり離れようとするが、ぐいぐいと押しつけるとちょいちょいと味見をするように皿に触れる。そして問題ないと思ったのか、ずりずりと皿の上に登ってきた。
しばらく皿を這い回ったあと、そいつは丸い体を起こして小さなふたつの目でこちらを見つめてくる。
よくみると愛着が湧く。
少し指を伸ばしてみる。どんな感触がするのか、確かめてみたくなった。
噛まれた。
「いっっ……た!」
予想外の痛みに指の先を見る。小さな規則正しい歯形がついていた。
「……何か食べるか?」
腹が空いているのかもしれない。
俺は昨日の残りのナゲットを持ってくる。かけらを置いてやると、あっという間に無くなった。
食べ終わるとそいつはこちらを見つめ、にっこりと笑ったように思った。



それから、一ヶ月ほどが経った。
そいつはまだその皿の上ににいて、俺は毎日すこしずつ食糧を分け与えている。特にファストフード店のナゲットがお好みのようで、くれてやるとあっという間になくなった。
変わったことといえば、そいつの大きさだ。指の先ほどだったそれは、握りこぶしぐらいの大きさになった。小さくてよく見えなかった目もよく見えるようになった。そいつはくりっとしたかわいい目をしていた。
俺はいつもの通りナゲットをやる。少し前はちぎってやっていたが、いまはちぎらなくても食べられる。
むしゃむしゃとおいしそうに食べるそれを俺はゆっくりと眺めていた。
ふと試したくなり、そっと指を近づける。ふたつの目がこちらを見るが、指が噛まれることはなかった。そっと触れると、なめらかな大福のような触り心地がした。



それからまた一ヶ月ほど経った。
それはもう少し大きくなって、今は子猫ほどの大きさになっていた。最初の皿では足りなくなり、今では使っていない小鍋の中に収まっている。俺が仕事から帰ると、そいつは期待した目で俺を見る。だから俺は買ってきたハンバーガーをくれてやるのだ。
相変わらず、そいつは美味しそうにむしゃむしゃと食べる。
そうやって食べ物を必死で食い、自分の糧にして、生きている。俺たちも同じだと、なんとなくそう思った。
たまに撫でてやると嬉しそうに目を細める。
そいつの撫で心地はその時々によって様々で、ビロード生地のようになめらかな毛皮のような時もあれば、子どもの頃に触った小石のようにすべすべとしている時もあった。いつだってそいつを撫でるのは心地よかった。
しかし、小鍋でもそいつの居場所には窮屈そうになってきた。もう少し大きくなるとしたら、こいつ専用の大きめのボウルなどを買ってこないといけないかもしれない。

**

それからまた一ヶ月ほど経っただろうか。
その日はどうにもやる気が出なかった。仕事で大ぽかをやらかしたせいなのか、やる気がないからそんなことになったのか。
どうにも打ちのめされて、家に着く頃にはふらふらだった。俺は家に着くなりソファに崩れ落ちる。暗い中で、カーテンの開いた窓からさす街灯の光だけが室内を照らしていた。
目を閉じると上司の顔が浮かぶ。そして昼間と同じ言葉を何度も繰り返す。
俺は諦めて目を開く。
……俺だって、この仕事を好きでやっている訳じゃない。いや、違う。選んでやっている仕事なはずだ。ならどうしてこんな気持ちになる?俺にはほかにやりたいことがあるんじゃないか……。
ソファに沈んだ体だけを取り残し、いろんな考えが泡のように浮かんで弾ける。ぼおっとして、室内を眺めた。こんなにこの部屋は広かっただろうか。

ふと、あいつがいるはずのボウルを眺めた。
そこにはいなかった。
どこかに行ったのだろうか。
では、どこに?
気になった俺がソファから体を起こしかけた時、何かが俺の上に飛び乗った。
あいつだ。
その時にはもう、少し大きめの猫ぐらいにはなっていた。
ずしりとした重みを腹の上に感じる。
どうも無理矢理退かすことはできないように感じて、俺はそいつの顔を見た。
くりくりとした目がこちらをみる。そしてそいつは、にか、と歯を見せて笑った。
そして、その大きな口が、規則正しい小さな歯が、こちらに近づいてきて……。



「ただいま」
帰宅するときにはそれを言う。
誰に聞かせるわけでもないのに。
玄関に荷物をおろし、洗面所で手を洗う。スーツをハンガーにかける。
冷蔵庫の中を覗くと、キャベツと卵だけが入っている。「スープでも作るか…」
誰にともなく呟いて、俺はまな板と包丁を取り出す。
最近はめっきり料理をすることだけが俺の趣味だ。昔にもっと情熱を燃やした、なにかがあったような気もするけれど、全く忘れてしまった。
ふと、シンク下の物入れに大きなボウルがあることに気がついた。いつ買ったのか、何を作ろうとして買ったのか覚えていない。
俺は大きなボウルをなんとなく手に取った。
使った形跡のない、新品同然に奇麗なボウル。
今度、ケーキでも作ってみるか。





⭐︎妖怪:夢喰い
無邪気な食いしん坊
ワクワクドキドキするものが特に好き
お腹が減ると人の夢を喰う
それが悪いことかいいことかなんて、
誰にも判別がつかない

⭐︎人間:A
学生時代は部活に打ち込み、それで食べていくことも夢みたけれど、現実を悟り会社員となることを選ぶ。現在は一企業の平社員。
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登場人物紹介

⭐︎バイト: S

どちらかというと背は低い方。

ガサツなところがある。

ファミレスハンバーグが好き。

⭐︎バイト: N

どちらかというと背は高い方。

慎重派。

仕事が終わったらすぐに寝たい。

⭐︎バイト: L

背が高く、細身。

髪の一房を金髪に染めている。

常に明るく振る舞う。

⭐︎バイト: M

背は小さめ。ボブカット。

常に冷静で無表情。

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