9. 片道切符の行き先は(中編その3):Oの理由

文字数 7,042文字



あんなに愛おしく感じていたこの空間が、あっという間に恐ろしい処刑台へと変わった。
目の前には男が倒れている。おそらく、そう、俺が突き飛ばしたのだ。先ほどまで男と言い争っていた女は驚いたように口元に手を当て、倒れた男を見ている。
駅ホームの人間たちは決定的な場面を収めようと携帯のカメラをこちらに向けていた。電車はまだ停車したままで、電車の中からも何があったのかと多くの人々が視線を向ける。
意味をなさない人々の言葉のざわめきが足元から這い上がってその場から動けない、そんな妄想にとりつかれる。
背中に流れる冷や汗を感じた瞬間に、ようやく俺は、とんでもないことになるぞと理解した。
今この一瞬で、自分の人生で歩むべき道、歩いて来たはずのその道が、目の前で崩落したのだ。



「よう、ばーちゃん、聞きたいことがあるんだけどさ」
俺とLは車両の後方へと移動する。窓の景色はカタンカタンという音とともに、その先へとすっ飛んでいく。
俺は車両の中程の座席に座っていたばあちゃんに近づいて、顔を覗き込む。しかし、その目はかたく閉じており、俺の声にも全く反応がない。
「……寝てるのか?」
よくよく見ると呼吸とともに体が小さく上下している。
「おばあちゃん……寝ちゃったんですか?」
車両の前方、俺たちが先ほどまでいたあたりから、女子高生二人も近づいてくる。女子高生の一方の春華は、先ほどまでずっとうつむき気味だったが、今はどこかスッキリしたような表情でこちらに話しかける。
「あんたはこのばあさんが何者なのか、知ってるのか?」
「そんなには……」
春華はすこしためらうように口元に手を伸ばす。
「この電車に乗った時、話を聞いてくれたんです。話すときは私の話ばかりだったので……。
おばあちゃんのことで知ってるのは、この電車に7日間乗ってるってことと……」
春華は最後の情報について少し言いにくそうに一度口をつぐんでから、
「……旦那さんは、数年前に亡くなっちゃってるってこと……くらいですかね……」
それでも口を開いて俺たちにそれを教えた。
俺は固く目を閉じるばあちゃんの顔をまじまじと見る。まだ起きる気配はない。
「……どうするんだ? 起こして話を聞くか」
俺の問いに、Lは肩をすくめる。
「いや、無理に起こす必要はないよ。先に後ろの彼に話を聞きに行こう」
俺もまったく同意見だ。

「お、今度は俺の番か?」
走る車両の後方に向かうと、ボックス席の中、進行方向を向いて座っていた男がこちらに顔をのぞかせた。
「少し話を聞きたいんだけれど」
「ああ、もちろんいいぜ。ここじゃあ、変わらない景色を眺めるか、同乗者と話すしか、やることがないもんな」
短く切り揃えられた髪に、黒縁眼鏡。見た目は真面目で堅そうにみえるが、話し口調はなんとも気軽な男だ。
彼がボックス席の向かいに座るよう俺たちに手で示すので、Lと俺はそれに従って座る。
ボックス席は、真向かいに座ると膝がふれあいそうになるくらい狭い。Lが背が高いものだから、自然とボックス内が窮屈になる。
二人の女子高生達は俺たちの後ろについてきて、隣のボックス席に座っている。女子高生達は真向かいに座ってもまだ余裕がありそうだ。俺もこんなぎゅうぎゅうの席に座るよりは、あっちの席のほうがよかった。
「俺は、前にも話したけど、大浦。あんたたちは……」
眼鏡の男がそう切り出すので、俺たちも自己紹介をする。俺は須藤、Lは立野と名乗った。
「わかったよ。よろしくな。……それでさ、なにを聞きたいんだ」
「僕たちはこの電車から降りる方法を探しているんだ。大浦さんは、何か知らないかい」
「ふーん、降りる方法ねえ。悪いが、俺は知らないよ。降りようと思ったことがなかったからな」
大浦は飄々とした様子で語る。
「ほんとうに?」
「なんだ? 疑ってるのか?」
「いや。……この電車は停車したりしないのかい。どこかの駅に」
「しないね。少なくとも、俺のいる3日間は。ばあちゃんも停まったことはなかったって言ってたよ」
Lは続いて大浦がこの電車に乗った時の話を聞く。回答は俺たちの乗った時と同じようなものだった。駅のホームで、鳴らない鈴の音を聞き、その時、電車がやってきたのだと言う。
鳴らない鈴は、女子高生達と同じ神社のお土産売り場で買ったようだ。
大浦はズボンのポケットから青い紐の括られた鈴を取り出した。そういえば、彼はカバンのような荷物を持っていない。網棚の上にもそれらしきものはないし、その身一つでこの電車に乗ってきたようだ。大浦は鈴を元通りにズボンのポケットに入れ直す。
Lが思い出したように口を開く。
「……ああ、あと、疑問に思っていたんだ。あなたは3日ほど前からここにいるとあのおばあさんが言っていたけれど……どうして3日だなんてわかるんだい? ここはずっと夕方じゃないか」
窓の外はまだ夕暮れだ。ずっと、変わらない景色が続いている。広い田園を、温かな橙色に染める夕陽。ずっと沈まない太陽。これでは、時間感覚なんてすぐになくなってしまうだろう。今が昼なのか夜なのか、わからないはずだ。
それなのに、3日、とはっきり言うことに、少し違和感はあった。
「どうしてもなにも、腕時計は普通に動いてるからな、ここ」
「え?」
彼は自分の左腕を掲げて見せる。そこには黒いバンドで銀縁の腕時計があり、文字盤のうえでは秒針が規則正しく、1メモリずつ針を進めていた。時間は10時少し過ぎ。梓と会って、電車を待っていたのが確か8時あたりだったはずだ。それから2時間少々経ったというわけか。
俺は腕時計をつけない。どうやらLもつけていないようだ……今日はちょうど忘れてきてしまったんだ、と俺に何故か弁明のように言う。女子高生達は腕時計をつける習慣はないだろう。携帯の時計機能は機能していたのかもしれないが、圏外と分かってから、ろくに見ていなかったので気がつかなかった。
「それにここは、一日ごとに“車掌”が来るからな」
「……車掌がいるのか?」
車掌とは初耳だ。来る、というが、どこから来るんだ?
「だいたい日付の変わる時間に来るからな。あんたらも実際に見てみればいいさ」
それだけ言って、大浦は説明するのが面倒だとばかりに話すのをやめてしまった。
確かに、12時まではさほどないのだから、実際に会ってみるのが早いのかもしれない。横のボックス席で俺たちの話を聞いていた春華が、険しい顔で自身の腕を抱えるようにしたのが目に入った。……なんだ?
「だから、ここで日にちが分かったのはそういうわけだよ」
「わかったよ。……それじゃあ、最後に聞きたいんだけど」
「ああ、もう最後かい」
「どうして、あなたはこの電車に乗っているんだい」
「……どうして?」
Lの問いに、大浦は聞き返す。
「あなたも都市伝説を試してみたってことだろう? それを試してみた理由さ」
「なんでそんなことが気になるんだ?」
「そうだな……この電車に乗っている人の原因とか……その共通点とかがあれば電車を降りる方法のヒントになるかもしれないと思ってね。まあ、僕の単なる興味だけどさ」
少しだけ躊躇うようにした大浦も、まあ、話して減るもんでもねーか、と前置きをして、話し始める。
「俺はさ、電車がすげえ好きでさ。最近流行ってる都市伝説に興味があったわけよ」
話によれば、黒い列車なんてのは、なかなかお目にかかれるものではないらしい。
確かに、黒い電車を他で見た覚えがない。かつて蒸気機関車には黒色が使われていたが、これは煙の汚れを目立たなくするためで、蒸気機関を使わない今となっては黒色である必要はないのだ。電車に黒が使われない理由には、暗闇での視認性が低いとか、太陽光を吸収しやすく夏場は暑くなるとか、地味で暗いとか、いろんな理由があるらしい。なんにせよ、真っ黒な列車は、蒸気機関が電気に置き換わって以来、そりゃあ珍しいものなのだ、と彼は言う。
男が熱を込めて説明する声に、少し聞き覚えがあることに気がついた。しかし、それが何故なのか、記憶を遡って思い出してみるが、はっきりとしない。確かに、最近聞いたことがあると思ったのだが。
「ま、この辺りだと、少し前に走っていたようだけど、それも廃止になって、今は資料館の庭に当時の列車が一両残っているだけ……。
この黒い電車は、その当時走っていた列車にそっくりだ」
「その電車に乗ってみたかった、と」
「ああ、走る姿は初めて見た。乗ってみたくもなるだろ?」
「じゃあ、あんたはもうこの黒い電車に乗れたから満足か」
「……ああ。名残惜しいが、十分堪能したからな。いつ降りてもいいね」
彼はそう言うと目を細めて、慈しむように車内を眺める。
俺とLは顔を見合わせた。もう降りる意思があるのなら、俺たちがすることはない。
そして大浦も、降りる方法を知らないということなら……。
「そしたら、あとはばあちゃんだけか」
俺はばあちゃんの方を見るが、未だに微動だにせずうつむいている。まだ寝ているのだろう。
俺たちがばあちゃんの方を伺っているのに気がついた大浦が、ああ、とこぼす。
「……ばあちゃんに話を聞きたいのか? なら、明日になるぞ。ばあちゃんは夜の時間は起きねーから」
「夜と言われても、全く実感がないんだけれどね」
「あんたらも寝たほうがいい。ずっと夕方とはいえ、夜は寝るものだろ」
「それなら、そうさせてもらうよ」
どうせ降りる方法もまだわからないのだ。
「ああ、そういえば。もう少し……1時間もすれば、日付が変わる。“車掌”が来ると思うぜ」
「ああ、さっき言っていた……」
「まあ、こっちが勝手にそう呼んでるだけだがな。もしあんたらが降りる方法を知りたいってんなら……あいつに聞いてみるのもいいかもな」
そういえば、俺も気になっていたことがある。
「なあ、窓が割れないかは試したのか?」
「そんなこと試すわけないだろ」
「試してないのか」
「いいか? この電車は幻の電車なんだぜ。その貴重な電車を傷つけようなんて、正気の沙汰じゃないぜ」
彼はむっとして俺たちに釘を刺すように言う。
「あんたらも、この電車に傷つけようってんなら許さねーからな」
「はいはい……」
Lは呆れたように返しつつ、立ち上がる。俺も立ち上がって、通路側に出る。
車内は変わらず夕焼け色に染まっている。



「閉じ込められた時に脱出する方法は、大きく3つあると思うんだ」
「なんだ、いきなり」
ばあちゃんのいる席から少し間を開けた向かいの席に、俺たち二人は座っている。
俺たちは大浦が言っていた、“車掌”が来る12時まで待っているところだ。女子高生達は休むといって、車両の前の方に戻っていった。ばあちゃんは相変わらず目を閉じて俯いたまま微動だにしない。女子高生達の話し声が、内容は聞き取れないまでも、ぽそぽそと聞こえていた。
Lは隣に座った俺との会話を続ける。
「いや、こんな状況だからね。あのおばあさんが7日間、そして彼が言っていた3日間というのが本当なら、僕らはここに……走っている電車の車内に、閉じ込められたことになる」
「そうだな」
「いつまでも走り続ける列車。駅に止まることもなく、扉は開かないーーそれは、密室状態も同じことだろう?」
急に、ミステリードラマみたいなことを言いだしたな、と思う。
「もし閉じ込められたとして、そこから脱出する方法を考えていたんだよ」
Lは相変わらず明るい調子で言う。そして、指を1本こちらに見えるように掲げた。
「その3つだけどさ。1つ目は、内側から開くことだ。鍵を使ったり、つっかえ棒を外したりとかね。
でも、今回の場合、これはそぐわないよね。鍵が隠されているわけでもないし、扉はそもそも開かない」
確かに、この列車には内側から扉を開けるボタンなどは付いていない。
「あと、内側からっていえば、扉を破壊するっていう手段もあるね」
「強硬手段だな」
「いやいや、それもひとつの手段だろう?
でも、多分これも役立たない。彼は試していないと言ったけど、窓を割ったところで、この景色……たぶん異空間だろうけど、この中に放り出されてはたまったものではないからね」
Lは2本目の指を立てる。
「2つ目は、外から開けてもらうこと。
外に閉じ込められた原因があるときは、こうするしかない。ただ、今回は全く異世界に来てしまったようだし、それが役に立つかどうかは分からないよ。
それに、外の人……例えばMちゃんとかNくんに助けを求めたくても、ここは圏外だから、助けを求められないしね」
Lは3本目の指を立てた。
「そして、3つ目は、閉じ込めた者の要求を呑むことだ。
この妖怪……黒い電車にはおそらくなにか意図があってこんなことをやっている。意図、もしくは目的、もしくは……願望、必要性。
それを解消すれば、ここから出られる……降りられるんじゃないかっていうことだ」
「妖怪の願望、ねぇ」
それがわかったら苦労しないのだ。
そんなことを思って、前に同じようなことをNと話したことを思い出す。Nはうまくやっているだろうか。


「そういえば、鈴木……じゃなくて、Seaが、今日の仕事が始まる前に言っていただろ。妖怪と共存するだとか」
「ああ、『人間と妖怪の共存のために』ってやつだね」
今回の仕事の始まる前、駐車場でN、Mと、仕事の説明を受けた時だ。長い髪を先だけ青く染めた男、Seaはそんなことを言っていた。
「彼は以前も……彼がまだ“S”の時も、仕事のたびにあれを言っていたけど、あの言葉の本心は聞いたことがないな」
Seaの信念とでもいうのか。
あいつの言うように、妖怪と共存していれば、いずれ、妖怪の行動の目的や、願望がわかるようになるのだろうか。
「人間と妖怪で歩み寄ろうってことか」
「さあね。ただ、僕は、妖怪と共存なんて、不可能だと思うけどね」
Lがやけにはっきりと言うので、俺は思わずLの顔を見る。
前に見た顔と同じ顔をしている。笑顔だが、目が笑っていない。
「人間と妖怪で歩み寄ることなんて、不可能さ。だって、あいつらはどうやったって、僕らの敵なんだから」
夕焼けに照らされたその顔は、どこか寂しげにも見えた。


その時、急に車両前方の扉が開いた。俺たちは驚いてそちらに目をやった。
開いたのだ。ばあちゃんはなにをやっても開かないと言っていた扉が。
開いた扉の先には、“それ”が立っていた。
車掌だ。一目見て、そうだと分かる服装。
だが、顔がない。顔のあるべきところには、空洞があり、真っ黒なもやがそこを満たしている。
そこには、確かに“車掌”がやって来ていた。

**

一方、少し前のことーーー

「どうしました?」
俺、Nは、携帯の画面を見つめるMに声をかける。外は雨が降っており、それぞれ傘を差している。俺は濃い青色、Mは濃い紫色の無地の傘だ。傘にあたる雨の音がパタパタと聞こえる。
「ああ、ごめんなさい。Lから連絡が来ていて……少し車に戻ってもいいかしら」
「いいですけど……。何かありましたか」
「いえ、大したことはないのだけど。……少し確かめたいことがあって」
俺たちは聞き込み作業のため繁華街に出ていたところだった。駐車場に戻るため、来た道を引き返していく。
「Lは妖怪のことになると容赦ないから、心配なの」
その言いように、少し違和感を覚える。
「え? Lさんがですか?」
「そうよ。意外だった?」
「ええ、まあ……あんな明るい人ですから」
Lは容赦ない、と言う言葉とは無縁な気がした。確かに、前の“噂”の妖怪を対処したときは、Mに対して少し怒っていたこともあったかもしれない。しかし容赦ないというほどでは……。俺が考えを巡らせていると、Mがポツリと呟く。
「……Lには、お姉さんがいたんだけどね」
「……いたってことは」
「ええ。今はもういない。……影喰いの仕業よ」
聞き覚えのある単語に、俺は目を見開く。
影喰いとは、俺もSと対処したことがある妖怪だ。ひとりの人間の影を喰う。影を喰われた人間はどうなるのか、俺は詳しいことは聞かされていなかったが……碌なことにはならないだろうことは明白だった。そして、今のMの言い回しからして、おそらく喰われた者は、もう。
「そんなことが……。でも、本当なんですか」
「本当って?」
「人に何かあったとして、それに妖怪が関わっていることは、秘匿事項にされているはずです。どうしてそれを?」
センターの活動は他言無用とされており、契約時の項目にもそれは含まれていた。そもそもの妖怪の活動についてだって、同様だ。
「……気になってね。センターの資料を使って、調べたのよ。そうしたら、影喰いの事例として記録されているのが見つかったわ」
Mがセンターの資料から調べ上げたというのか。
センターの実態も、資料が保管されている場所でさえ知らなかった俺からすると、全く想像のつかない話だ。まあ、センターから機器を借りるようなMになら、それも可能なのだろう。
そして、センターの資料に残されているのであれば、疑いようがない。
「当時のバイトは……仕事をしてなかったんですか」
「さあね。でも、影喰いの事例なんて山ほどあるわ。その全部を未然に防げるわけじゃない。だから、影喰いは厄介なのよ」
妖怪に喰われたものはどうなるのだろう。
俺はそれに興味がないわけではなかったし、その答えをMは知っていると思ったが、聞くことはできなかった。知らなくたって今の仕事はできるのだ。
俺は実感する。
確かに、身近に妖怪はいる。
そして、こちらに手を伸ばしてきているのだ。
二つの傘が、人気の少ない路地へと消えてゆく。

**

つづく
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登場人物紹介

⭐︎バイト: S

どちらかというと背は低い方。

ガサツなところがある。

ファミレスハンバーグが好き。

⭐︎バイト: N

どちらかというと背は高い方。

慎重派。

仕事が終わったらすぐに寝たい。

⭐︎バイト: L

背が高く、細身。

髪の一房を金髪に染めている。

常に明るく振る舞う。

⭐︎バイト: M

背は小さめ。ボブカット。

常に冷静で無表情。

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