第5話

文字数 1,188文字





「死んでください」
 保健室に乗り込んだおれたち二人がはじめに言われたのは、死んでください、だった。
「わかったら帰ってください」
 とてもひどい。緋縅先生がひどい奴だというのは聞いていたが、生徒に向かって開口一番死んでくださいはないだろうよ。おれはすでにこころが折れそうだったが、牙野原が帰るわけがなかった。それどころかずかずかと音を立てて緋縅先生の目の前に立つと背の低い先生を睨み、白衣の襟をねじ曲げるように掴んで、持ち上げる。先生の身体が少し浮きそうになる。先生はじと目でされるがままにされている。
 牙野原は言う。
「あたしたちに詩を教えろ」
「教える義理はありません」
 そこまで言うと、緋縅先生は大外刈りで牙野原をぶん投げた。リノリウムの床に叩きつけらる牙野原。倒れていると、靴で先生は牙野原の顔面を踏みつけた。
「まだなにか? わかったでしょ。死ぬか帰るか二択です」
 おれがそこに割って入ろうとすると、牙野原が手でおれを制止する。
 顔面を踏まれながら、牙野原はそれを押しのけることなく、言う。
「あんたが詩人年鑑にも載っている有名な詩人なのは知っているんだ。なぁ、辞めにしないか、こんなくだらないこと」
「言われる筋合いはないです」
 踏んだ足に重心を乗せる緋縅先生。
「おまえ、あたしの姉ちゃんだろうが。かわいい妹の話は訊けないってか」
「もう家族ではありません」
「両親のことはどうでもいいじゃんか」
 ああ、そういうことか。姉妹なのか、こいつら。凶暴なところはそっくりだ、……が。
「もう一度言います。死んでください」
「あたしも、結局〈詩〉から逃れられないんだよ、それがわかった」
「自分で見つけなさい、自分の道くらい。わたしのように」
 と、言って踏んだ足を顔面から放すと、その足のつま先で緋縅先生は牙野原の頬を蹴った。
「帰ろう、牙野原」
 おれは牙野原に言う。
 牙野原は、切れて血が出るくちびるを腕で拭って、倒れたまま言う。
「人間の無気力に強大な領域を与えなくてはならない。労働者は職をみつけねばならず、新しい行動力の場をつくらなければならない。そこではつねにあらゆるでっちあげ製品、あらゆる卑劣な人工的代理品が幅をきかすようになる。そこでは本物の自然など無用で、恥ずべきことにこれを最後に、わがもの顔の代用品をあけわたさねばならない」
 ふぅ、と息を吐いた緋縅先生は自分の事務椅子に腰を下ろし、
「アントナン・アルトーからの引用ね」
 なんて言ってから、
「アルトーと同じ、あなたの病気は大丈夫なのかしら。……話を聞こうじゃないの」
 と、あきれ顔をした。
 ゆっくり立ち上がりながら、
「そうこなくっちゃな」
 と、牙野原は言った。
 おれにはこの二人の思考回路がわからない。ただ、投げられ足で顔面を踏まれて蹴られた牙野原は、笑っていた。よく笑う奴だな、こいつは。敬愛するに足る人物だと、少しだけ思う。


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