第39話

文字数 1,525文字






 朝になった。空は東北以北の晴天、透明なグラスブルー。昨日のおれは疲れていた。電話で夏野の話を聞いたら、処理が追いつかず、あたまがスパークしそうだった。……そしてその後、夜中に出会った少女・ぷりる。だが、疲れは取れずともおれは今日、保健室で緋縅先生に会う理由が出来ていた。
 おれは先生に牙野原の話を訊かなければならない。同じ〈忘却乙女〉の、相棒として。

 保健室の前に部室に寄る。出来上がっていた数作品の一段譜を、電子音楽部となった部室の机に置く。すると、最知がおれのあとから部室に入ってきた。三つ編みを揺らしながら。
「マシンガンをぶっ放して作詞作曲したようね」
「まぁな」
「どういう風の吹き回し? 絶対つくれないよね、って夏野と話していたの。あんた、忙しそうだったし」
「おれが最近その〈沼地〉にハマりかけている〈自由詩〉の〈哲学〉が教えてくれる一番重要なことはたぶん、ある意味で〈どこまで断念できたか?〉ということなんだって気づいたんだよな。これはもちろん、自らを解き放つための言葉だった。〈断念〉がないとエディタは白紙であり、白紙が綺麗だなんてレトリックはいらないことを知ることが出来る。それを悟った。駄作になるかもだなんて心配はいらない、書くことがすべてなんだ」
「へぇ。勉強してるじゃんか、鯨瀬。どうしたぁ? オンナでも出来たかぁ?」
「おれの作曲法はギターを弾いて、むにゃむにゃ歌ってメロディ探って、そこにコードを当ててみて、良い感じの流れができたらノートにコードメモして、弾き語りで歌って途中経過を録音して、それ聴き返しながらさらに練って、ってやっていく方法だ。だが」
「だが、なに?」
「社会システム論の言葉を借りるなら、機能分化的ってのは定常システムであり、機械システムじゃないので有機的に繋がっているってことなんだ。目標、目的はいろんなレベルで別々だけど縦にも繋がっているし、横……というよりリゾーム的に繋がっていて互いが作用していて、それに対応して流動的に動いていくことが必須。出来ないひとは確かに多い。だが、おれには出来るし、おれが出会ってきた奴らはみんな、それを知っていて、〈出来る〉奴らなんだ」
「出会ってきた奴らって誰よ、具体的に」
「緋縅先生や牙野原。それから、ぷりるたちだ」
「相変わらずオンナの名前ばかりね、鯨瀬。はぁ。まあ、いいわ」
「トランジション理論とはなにか、ってのも、考えていたんだ」
「トランジション理論?」
「トランジションの3つの過程。1. 終わり、2. ニュートラルゾーン、3. 新たな始まりの3つの過程で定義する。トランジション理論とは、キャリアや人生の節目において人間がどのような心理状態に置かれるか、あるいはどのようにしてその過渡期を抜け出すかを説いた理論だ。 トランジション理論は従業員のキャリア形成を考えるマネージャーにとっても多くの示唆を与えるものだって言われている。もとから興味があった理論でもある。さっきのシステム理論のトランジション理論のふたつと、〈詩作〉が、おれのなかでつながったんだ」
「……あんた、全然眠ってないでしょ。あたまのおかしいことを、今あんたは言ってるわ」
「あたま、おかしいかな」
「おかしいわよ。そんな意味不明な理論だかなんだかに振り回されてちゃ、ダメね」
「ギターだってコード理論だろうによ……」
「ま、ともかく、受け取るわ、一段譜」
「ありがと。じゃ、行くとこあるから、また」
「たまには部活に顔を見せなさいよ!」
「はいよ!」
「ったく、これだから創作系男子はクズなのよね」
 そうだった、おれも一応クリエイターの一種なんだよな、と思い返しながら、おれは朝の部室をあとにする。
 向かうは保健室だ。


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