第48話 第二章/ふたつの葛藤 ナジムの回想 -9
文字数 2,171文字
周りには、家の出入り口らしきものが見当たらず、どうやら、ナジムの立つ堤防の肩からは、さらに梯子 を下ったところにあるようでした。
ナジムは、香の薫りと、異臭の混じりあう空気を胸いっぱいに吸い込み……、ゆっくりとはきだすと、梯子の取っ手をつかんでうしろむきに足をのばして、二段目の段に足をかけて、そろりそろりと体重をおろしてゆきました。
すると、ギッシ、ギッシ、と踏むたびに軋 む音に心臓を掴まれるようで――、
途中、腐れて落ちそうな段を踏み抜かないように細心の注意をはらいながら下りて、最後の段をはなれた足が、床をふんでからだをかえした瞬間――、
「ヒィー!」
ナジムは思わず、出た息を吸いこみました。
そこには、鬼のような形相をした老婆が立っていて、
前かがみに大きな手鍋をふり上げて、
「なんどくりゃ~、気がすむんじゃーっ!」
と、ナジムにむかって一喝 しました。
ナジムは、
「まま、待ってください。ひ、ひとちがいです!」と思わずよろけ、
もたれかかった手摺りが動いて川底に落ちそうになりました。
そのとき、騒ぎを聞きつけたとなりの住民が窓から顔をつきだして、
「フエ婆 ! よく見ろや。そいつは、いつもの奴らとは、ちと、ちがうぞ!」と叫びました。
老婆は、一歩下がると、ナジムのつまさきから顔まで舐 めるように見上げて、
「なんだ、小僧か。なんの用だ!――」
と言って鍋を下ろしました。
「と、と、とつぜん、し、しつれいしました。
わ、わたしは、ナ、ナ、ナ、ナジムといいます」
ナジムはおもいっきり頭を下げました。
「な……、なめくじ?
フエー。
蛞蝓 がなんだって!」
耳の遠かった老婆は、からだを半身に、耳のうしろに手を当てて目を細めました。
「あっ、えと、その、あの、お、じ、
……じつは、お城のおしごとで、
きょうは、お天気もよろしいので……、
む、虫とか、ナ、ナメクジをつかまえに……、
お、おさんぽを、ちょっと、」
老婆はからだを正面にもどすと両目をつりあげて、
「なに言ってんだ、おまえ。
……おまえは、あれか、城の人間か?
フエー、
オレはまた、バカな役人どもが薬を撒 きに戻ってきやがった、と思ったんだよ。
悪かったな、おどろかしてよ。
しかしここは、おまえみたいなお坊ちゃまのくるところじゃないよ!
とっと帰んな!――」
そう言って、鍋を背負い、からだをかえして家に戻ろうとしました。
「あっ、ちょ、ちょっとまって、待ってください!
――じつは、
おはなしが聞きたくて来たんです!」
強面 の老婆でしたが、根はきっとやさしい人にちがいない。
と、思ったナジムの手は、思わず老婆の袖 のあたりをつかんでおりました。
老婆はその手を払いのけ、かえした平手でナジムの頰をはげしく打ちました。
「だーぁつ!
汚れたことのない手で、気安くさわんじゃないよ!
おまえたちがゴミといっしょに捨てるような暮らしでも、
オレたちは、必死に生きてんだ!
城の中で美味 いもんばっか食ってるおまえらとは、
二度とここへは来るな。
今度来たら、ほんとにナメクジみたいに川底に弾き飛ばすよ。
わかったかい――!」
そう言って、激しく戸を閉め、内側から鍵がかけられてしまいました。
そのようすを見ていたとなりの住人は、
「今日んとこはおとなしくかえんな。
かわいがってた孫が死んじまって、気が立ってんだ」
そう言って、のぞいていた顔をひき、窓をとじると、
家を出てきてながめていた人たちもそれぞれの家にもどり、
ナジムひとりが、その場にとりのこされました。
老婆に打たれたほほの痛みと、
その手でしめされた在処 が……、
体中にひろがる痺 れとなって、
ナジムは……、重たい足を梯子にすべらせ、なんども落ちそうになりながら、
その後どうやって城までたどり着いたのか、思いだすこともできませんでした。
ナジムは城にかえって部屋にとじこもり、その後、街へ出ることもなくなりました。
それから四年がたち、ナジムは十九歳になりました。
この四年というもの、ナジムはすっかり口を閉ざしたまま、母親とはなすことすら避けておりました。
ナジムは藻掻 き苦しんでおりました。
『街の人びとの生活や城の生活が豊かで便利になればなるほど、
その一方に、あの日に見た、危険な場所にくらし、貧困のなかで生きてゆかなければならない人びとをつくりだしている』
その現実は、目の前にあらわれた得体の知れない大きな壁となってナジムの前に立ちはだかり、
あの日の光景と、老婆のことばが、片時もはなれずにナジムのこころを痛めつけました。
「お祖父さまならどうする?
国の王とは?
こんなとき、いったいなにをするべきなのだ!」
その難題は、ナジムの足もとに大きな口をひらいて、
今にも呑みこみそうに迫ってきました。
逃れても逃れても追いかけてくる苦しみ。
大きな鎌 をふり上げた老婆がどこまでもどこまでも追いかけてくる悪夢に、
ナジムは毎晩のように魘 されました。
「ああー、たすけて!」
悪夢に悶 えて夜中にとびおきると、
「ぅぅぅぅぅ~、
ナジム、
……ゆるしておくれ。
わたしがわるかった、わたしが悪かったの……
ぅ、ぅ、ぅ、」
母のすすりなく声が壁越しに聞こえて、ナジムの心臓に突き刺さりました。
ナジムは、母まで苦しめている自分が、いやでいやでなりませんでした。
ナジムは、香の薫りと、異臭の混じりあう空気を胸いっぱいに吸い込み……、ゆっくりとはきだすと、梯子の取っ手をつかんでうしろむきに足をのばして、二段目の段に足をかけて、そろりそろりと体重をおろしてゆきました。
すると、ギッシ、ギッシ、と踏むたびに
途中、腐れて落ちそうな段を踏み抜かないように細心の注意をはらいながら下りて、最後の段をはなれた足が、床をふんでからだをかえした瞬間――、
「ヒィー!」
ナジムは思わず、出た息を吸いこみました。
そこには、鬼のような形相をした老婆が立っていて、
前かがみに大きな手鍋をふり上げて、
「なんどくりゃ~、気がすむんじゃーっ!」
と、ナジムにむかって
ナジムは、
「まま、待ってください。ひ、ひとちがいです!」と思わずよろけ、
もたれかかった手摺りが動いて川底に落ちそうになりました。
そのとき、騒ぎを聞きつけたとなりの住民が窓から顔をつきだして、
「フエ
老婆は、一歩下がると、ナジムのつまさきから顔まで
「なんだ、小僧か。なんの用だ!――」
と言って鍋を下ろしました。
「と、と、とつぜん、し、しつれいしました。
わ、わたしは、ナ、ナ、ナ、ナジムといいます」
ナジムはおもいっきり頭を下げました。
「な……、なめくじ?
フエー。
耳の遠かった老婆は、からだを半身に、耳のうしろに手を当てて目を細めました。
「あっ、えと、その、あの、お、じ、
……じつは、お城のおしごとで、
きょうは、お天気もよろしいので……、
む、虫とか、ナ、ナメクジをつかまえに……、
お、おさんぽを、ちょっと、」
老婆はからだを正面にもどすと両目をつりあげて、
「なに言ってんだ、おまえ。
……おまえは、あれか、城の人間か?
フエー、
オレはまた、バカな役人どもが薬を
悪かったな、おどろかしてよ。
しかしここは、おまえみたいなお坊ちゃまのくるところじゃないよ!
とっと帰んな!――」
そう言って、鍋を背負い、からだをかえして家に戻ろうとしました。
「あっ、ちょ、ちょっとまって、待ってください!
――じつは、
おはなしが聞きたくて来たんです!」
と、思ったナジムの手は、思わず老婆の
老婆はその手を払いのけ、かえした平手でナジムの頰をはげしく打ちました。
「だーぁつ!
汚れたことのない手で、気安くさわんじゃないよ!
おまえたちがゴミといっしょに捨てるような暮らしでも、
オレたちは、必死に生きてんだ!
城の中で
ここ
がちがうんだよ――、ここ
が!二度とここへは来るな。
今度来たら、ほんとにナメクジみたいに川底に弾き飛ばすよ。
わかったかい――!」
そう言って、激しく戸を閉め、内側から鍵がかけられてしまいました。
そのようすを見ていたとなりの住人は、
「今日んとこはおとなしくかえんな。
かわいがってた孫が死んじまって、気が立ってんだ」
そう言って、のぞいていた顔をひき、窓をとじると、
家を出てきてながめていた人たちもそれぞれの家にもどり、
ナジムひとりが、その場にとりのこされました。
老婆に打たれたほほの痛みと、
その手でしめされた
こころ
の体中にひろがる
ナジムは……、重たい足を梯子にすべらせ、なんども落ちそうになりながら、
その後どうやって城までたどり着いたのか、思いだすこともできませんでした。
ナジムは城にかえって部屋にとじこもり、その後、街へ出ることもなくなりました。
それから四年がたち、ナジムは十九歳になりました。
この四年というもの、ナジムはすっかり口を閉ざしたまま、母親とはなすことすら避けておりました。
ナジムは
『街の人びとの生活や城の生活が豊かで便利になればなるほど、
その一方に、あの日に見た、危険な場所にくらし、貧困のなかで生きてゆかなければならない人びとをつくりだしている』
その現実は、目の前にあらわれた得体の知れない大きな壁となってナジムの前に立ちはだかり、
あの日の光景と、老婆のことばが、片時もはなれずにナジムのこころを痛めつけました。
「お祖父さまならどうする?
国の王とは?
こんなとき、いったいなにをするべきなのだ!」
その難題は、ナジムの足もとに大きな口をひらいて、
今にも呑みこみそうに迫ってきました。
逃れても逃れても追いかけてくる苦しみ。
大きな
ナジムは毎晩のように
「ああー、たすけて!」
悪夢に
「ぅぅぅぅぅ~、
ナジム、
……ゆるしておくれ。
わたしがわるかった、わたしが悪かったの……
ぅ、ぅ、ぅ、」
母のすすりなく声が壁越しに聞こえて、ナジムの心臓に突き刺さりました。
ナジムは、母まで苦しめている自分が、いやでいやでなりませんでした。