文字数 3,335文字

「亮くん。お父さんのお名前、佐倉正孝さんとおっしゃるの? まさか佐倉病院の院長の?」

柏木先生は、さっきまでの打ち解けた様子とはちがって、緊張感のある声でそう尋ねた。その目には明らかな驚愕があらわれていた。

「そうですけど……。それが何か?」

おれはとまどいながら答えた。
先生は父さんのことを知っているみたいだけど、この様子は普通の知り合いという感じではない。

「そうだったの……。佐倉という苗字を聞いたとき、まさかとは思ったけど……。だとすると……」

おれは不安な気持ちで先生のつぎの言葉を待った。

「もしかしたら亮くんは、生まれつきのオメガではないのかもしれない」

「え? どういうことですか? 途中からオメガになるなんてことがあるんですか?」

「普通はないんだけどね、どうしても気になることがあるの。むかし同僚に、富川美月という女性がいたんだけど、彼女はひそかに、ベータをオメガやアルファに変えるという研究をしていたの。そして彼女と亮くんのお父さんである佐倉正孝さんの間には、ある因縁があった」

「因縁?」

「うん。そのあたりの話は、ご両親の検査結果を見てからにするけどね。彼女は数年前に芦田会を辞めて消息をたっているの。できるはずがないと思っていたけど、彼女は研究を完成させたのかもしれない。未登録のオメガが見つかるというだけでもめったにないことなのに、さらにあなたが佐倉さんの息子さんであるということが、偶然の一致だとは考えにくい。それに、じつはさっき書いてもらった問診票の回答も、オメガの男性に当てはまらない項目がいくつかあるの」

「つまり……?」

「つまり、亮くんの元の性別はベータだったと思われる。富川が佐倉さんの息子である亮くんに目を付け、ウィルスに感染させて後天的にオメガにした、と考えるとつじつまが合うの」

自分がオメガだと聞かされたときと同じくらいの衝撃を受け、それに加えて、体内に得体の知れないものが入り込んでいる気持ちの悪さで、全身から血の気がひいていった。それにおれ自身がそのウイルスの媒体となって、周りの人にうつしてしまっていたとしたらどうしよう?

「大丈夫? 顔色が良くないみたい。少し休んだ方がいい?」

「大丈夫です。それより、おれが接触した人にもそのウイルスがうつるってことは?」

「たぶん、それはないと思う。ウィルスが感染力をもつ期間は限られているし、人から人へ感染するようなウィルスだったとしたら、芦田会に話が届いていないはずがないから。体がこれだけ変化するには、少なくとも数か月はかかっているはずだよ。感染経路を特定するのは難しいだろうけど、何か心当たりはある? 面識のない人から何かをもらって口にしたり、親密な接触をしたりしなかった?」

はっきりと心当たりがあった。
自暴自棄になって乱れた生活を送っていた時期があり、朝まで遊んでは体を痛めつけるようにお酒を飲んでいた。そこで出会った人と行きずりの関係を持ったことさえあった。
数週間つづいたその生活が終わるきっかけとなった、あの出来事――。

「一年くらい前、クラブで声をかけてきた年上の女性と二人で飲んで……、その後ホテルに行ったんです。そこからの記憶がなくて、目を覚ましたら彼女はいなくなってた」

「何ばかなことしてんだよ」
瀬戸が軽蔑を隠そうともせず、吐き捨てるように言ったので、おれはムッとして
「なんだよ、おまえに関係ないだろ?」
と言い返した。

柏木先生がなだめるように言う。
「二人とも、今はそんなこと言ってる場合じゃないよ。亮くん、それからどうなったの?」

「次の日から熱を出して、三日間くらい寝込んだんです。熱が下がったあともしばらく倦怠感が抜けなくて、それからは学校とバイト先くらいしか人と会わない生活でした」

「どんな女だったの?」

「髪が長くて、背が高かった……と思います。だいぶ酔ってたから記憶が曖昧で……」

「そっか。とにかく、まずはご両親の遺伝子検査をしてはっきりさせることにしましょう。近いうちここへ来てもらえるように伝えてもらえる?」

「だけど、遺伝じゃない可能性の方が高いんですよね?」

「うん、そうだね」

父さんと母さんはベータで、おれだけがオメガ。
そんな話を聞いたら二人はどう思うだろう? 不信の目を向ける父さんに、おろおろとうろたえる母さん。心臓が冷たくなるような嫌な場面しか思い浮かばない。

「できれば、両親には言いたくないです」

「どうして?」

「とにかく言いたくないんです。こんな話信じてくれるとは到底思えないし、信じたら信じたで何を言われるか……」

「そう……。どうしても気が進まないというのなら、ひとまずご両親には伝えずに検体を用意してもらって、それを検査することもできるけど」

「検体ってどういうものですか?」

「たとえば、歯ブラシとか」

「それなら用意できると思います」

「じゃあとりあえずそうしましょうか。できるだけ早めに持ってきてね。それから、富川が何をしてくるか分からないうちは、なるべく一人にならない方がいいかもしれない。電車通学も危険だよ」

「でも、自分の車持ってないんです」

「それなら、おれが送り迎えしてやろうか?」

突然の瀬戸の申し出に、おれは面食らって言った。

「送り迎えって、おまえそんな暇なの? 学校とかバイトとかあるだろ?」

「それがちょうど最近バイトをくびになったとこなんだよ」

「くびって、いったい何したんだよ?」

「それがさ、塾講師やってたんだけど、授業時間の分しか時給払わないんだよ、そこ。じっさいには準備とか保護者の応対とかでかなり時間外労働してるのに。で、それはおかしいって上にうるさく言ってたら、契約更新のときに切られた。言っとくけど、べつに金のために言ってたわけじゃないから。おかしいことにはおかしいって言う主義なんだよ、おれは」

おれは半ばあきれて、半ば尊敬をこめて言った。
「すごいな、おまえ」

「当然のことだろ? そういうわけだから、時間の融通がきく身なんだ」

「だけど女の子じゃあるまいし、送り迎えなんて恥ずかしくておれが嫌なんだよ」

「亮くん。つがいを得るまでのオメガはとても不安定な存在なんだよ。万一アルファに首筋をかまれたりしたら、一生支配されてしまうの。上に報告して富川を探してもらうから、それまでの間は送り迎えしてもらったほうがいいよ」

「でも、瀬戸に迷惑かけられないし」

「それなら秀くんにバイト代が支払われるように申請しておくよ。そしたら亮くんも気にしなくていいし、秀くんも新しいバイトが見つかって、一石二鳥じゃない?」

「いいんですか? ありがとうございます!」
瀬戸がうれしそうに言った。

結局、当分のあいだ瀬戸の車で送り迎えしてもらうことに決まってしまい、家とバイト先の場所や、一週間の予定などを打ち合わせて、連絡先を交換した。

「そうそう、これを渡しておかないとね」
先生が机の引き出しから腕時計のようなものを出しておれに手渡した。

「これは?」

「体温とか脈拍とか、生体情報を測ってくれる端末だよ。データが集まってくるとかなり正確にヒートを予測できるようになるから、寝るときと入浴のとき以外はなるべく身につけておいてね」

「はい」

なかなかお洒落なデザインだったので、煩わしいというよりむしろうれしくて、さっそく左手首につけてみた。

柏木先生はにっこり笑って言った。
「それじゃあ亮くん、あとは薬局で薬もらったら帰っていいけど、何か質問はあるかな?」

「いえ、特には。というより、まだ何を質問したらいいのかすら分からないというか……」

「まあそうだよね。何かあったらいつでもいらっしゃいね」

「おれはこれから大学行くけど、おまえどうする?」
と、瀬戸が尋ねてきた。

今日はもう、誰かと顔を合わせても普段どおりにふるまう自信がなかった。疲労感で体が重く、頭は混乱して何も考えられない。

「今日は家に帰っておとなしくしてるよ。どうせ勉強なんて頭に入らないだろうし、バイト行っても逆に迷惑かけちゃいそうだから」

「それがいいでしょうね。帰るときは受付でタクシー呼んでもらってね」
と、柏木先生が言葉をはさんだ。

「はい。ありがとうございました」

先生と安藤さんに頭を下げ、瀬戸とふたりで診察室を後にした。


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