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これは絶対気のせいじゃない。
さっきから後ろの男が、荒い息づかいをわざと聞かせるようにしながら体をすりつけてきている。

満員電車の人いきれには、いつまでたっても慣れることはない。けれどそれに我慢して乗ってさえいれば、電車は無事に目的地まで運んでくれていた。男の自分が痴漢にあうことはないと思っていた。

冗談じゃないという気持ちとは裏腹に、体の中に強い衝動が呼び覚まされていくのを感じた。
このままではおかしくなりそうだ。だけどどこにも逃げ場はない。次の駅に着くまで耐えるしかない。

「ん……」

首筋に息をふきかけられたとき、くすぐったさとも違う、強い快感のようなものが体を突き抜けて、思わず声がもれそうになるのを必死で押しとどめた。

最悪なことに、正面に息を荒くして立っていたスーツ姿の男までが、おれの体に手をのばし、遠慮なく弄りはじめた。

今日はいったいどうなっているんだ。

「やめ……」

欲望があおられて頭の中が真っ白になってしまい、声すらまともに出せなかった。膝に力が入らなくて、立っているのがやっとだ。

突然、だれかに手首をつかまれて強く引っぱられた。おれを弄んでいるスーツの男のとなりにいた、精悍な若い男だった。
その胸元によろめくようにぶつかると、男はおれを抱き込むようにしてドアの方へ移動させ、自分の体で壁を作ってかばってくれた。
獣のような欲望はまだ体の中で暴れまわっていたけど、刺激されなければなんとか耐えられそうだった。

「つぎで降りるぞ」
その男が、不機嫌そうな低い声で言った。

「ああ……」
おれは息が上がっていて、それだけ返すのがやっとだった。

次の駅までの長い数分間、そいつはおれを視界に入れまいとするかのように、こわい顔をして斜め前方を睨みつけていた。


ようやく次の駅に着き、助けてくれた男といっしょに電車をおりた。
地下鉄のホームはお世辞にも空気がいいとは言いがたかったけど、満員電車の中よりは百倍ましで、ひんやりとした風が頬に気持ちよかった。
男はこっちへ来いというふうに顎で示し、人通りをさけるようにして端の方へと歩いていき、おれはそれに従った。

男は運動した後みたいに肩で息をしていた。おれの方も、欲望を必死になだめながらなんとか息を静めようとした。
しばらくそうしているうちに激しかった衝動は少しずつおとなしくなっていき、耐えられないほどのものではなくなったけれど、まだ体の奥底でしつこくくすぶりつづけているのを意識せずにはいられなかった。

男の方はすっかり落ち着いた様子で、おれから目をそむけたまま吐き捨てるように言った。

「おまえ、抑制剤飲み忘れたんだろ? いま持ってるならここで飲めよ」

ヨクセーザイ? 抑制剤?
聞き慣れない言葉に頭のなかで漢字を当てる。

「抑制剤って?」

「とぼけるなよ。抑制剤っていったら、ヒートの抑制剤に決まってんだろ?」

「ヒート? 熱さましのこと?」

熱のことヒートって、この男はもしかして帰国子女なのだろうか。
すると男はようやくおれの方を見た。形のいい眉をけげんそうにひそめている。

「……まさかほんとに知らないのか?」

「うん」

「じゃあ、おまえ未登録ってことか。まじかよ」

そいつはおおげさなため息をつき、しばらく考えこんでから言った。
「あのさ、前にも痴漢にあったことある?」

ずいぶん不躾な質問だったけど、男の声はけっして冷やかすような調子ではなく、何か理由があって聞いているのだと感じられた。

「ないよ。今日がはじめてだ」

「おまえが痴漢にあったのにはさ、理由があるんだよ」

「理由って?」

「詳しい話は先生からしてもらった方がいいと思う。とにかく、ついてこいよ」

「どこへ?」

「病院」

「病院? なんで?」

わけがわからず全て質問で返していたら、そいつは痺れをきらしたように声を荒げた。

「なんでも! ひとつ言えるのは、そのまま電車に乗ったらまた同じ目にあうってことだけど、どうしたい?」

それは困る。またあんな目にあったら、こんどこそ人前で醜態をさらすことになってしまうだろう。おれは素直に従うことにした。

「わかった。病院に行く」

「よし。あ、ところで名前は? おれは瀬戸秀明」

「佐倉亮」

「佐倉くんね、よろしく。じゃあ行こうぜ」

瀬戸秀明は冷たくすっと目をそらして、大股で歩き出した。


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