藍と黒
文字数 1,993文字
リィ・グレーネが結界を一段強化してから、空の色が濁ったと思う。
なのに教官も同級生も、「結界は無色透明だから気のせいだよ」って、本気にしてくれない。
雑草取りのクマデとカゴを抱えて木道を歩きながらチトは、水色の瞳で空を見上げる。
「ぜったい濁ってるよ!」
「濁っていますか、すみません」
声がして飛び上がると、木道から外れた湿地の中頃に、セレス長さまがいらした。
長い薄衣を腰で縛り上げ、生っ白い足が丸出し。
「何やってんですか! 蒼の長さまが!」
「衣装は汚していませんよ、また洗濯係に叱られる」
見ると、先の木道の上に畳まれたローブとキラキラした装飾、上品な靴がお行儀よく並んでいる。
「裸足なんですか! 泥の中で足を切ったらどうするんですっ」
「ここの植物が私を傷付ける訳ないでしょう。何千年も堆積した植物がフカフカの限りなく優しい踏み心地です。貴方も裸足になってみれば分かるのに」
「嫌ですよ、泥に足を飲み込まれる」
「ふふ、臆病さんですね」
セレス長は来た足跡を器用に戻り、木道に腰掛けて白い足を引き上げた。このヒトが歩くと不思議に水が濁らない。
投げ出した足指も長くて細くて綺麗だなと、チトはどうでもいい事を思った。
手には幾ばくかの茶色い草が握られている。
「ダイオウがね、油断するとすぐ放牧地の方から侵食して来る」
「言ってくれればボクがやるのに」
「そうですね、次からはそうします」
と言ってたくしあげた髪をほどくこのヒトは、絶対言うことを聞かないでまた執務室の隙を突いては湿地で泥に浸かっているのだ。
言葉に出さなくても分かる、長なんかやっているより、ずっとこうして木や草花を相手にしていたかったのだ、このヒトは。
***
チトが生まれる少し前の話。
里内の民の視線は、いつも連れ立って歩く二人の立派な若者に注がれていた。
藍の瞳と 黒の瞳。
彼らの周辺は空気すら輝く、声がするだけで場が華やぎ、歩を進めると軽快なリズムが響く。
修練所では常に主席を争い、卒業と同時に、リィ・グレーネの三百年振りの弟子となった二人。
後々は彼らのどちらかが長に推挙されるのだと、当たり前に思われていた。
当時の長は、人柄で成った術力に心許ない長。リィ・グレーネが退いてから何代かはずっとそうだった。
稀代の術者リィだったが後継には恵まれなかった。そればかりはどうしようもない、術力は訓練で育てる事が出来るが、素養は生まれた時に持って来る分しかないのだ。
久しぶりにリィ・グレーネに認められた弟子という事で、若者二人は大いに期待されていた。
やはり蒼の長というと術力、長の血からなる圧倒的な術力という意識が、何千年も昔から踏襲されている。
若者は双方とも、長の血筋を引いていた。リィ・グレーネの方ではなく、彼女の全弟の系譜。あまり記録に残っていない全弟だが、リィと同じくナーガ・ラクシャを父とする事に変わりはない。
片方は、里で紡がれた確実な家系に生まれた。容姿が、絵姿に残る藍の瞳のナーガ・ラクシャにそっくりだと、幼い頃から注目されていた。
もう片方は、草原で、朽ちたパォの中に見付かった。
里外で埋もれかけていた家系。親族が絶えて取り残された子供が独り、僅かな羊と馬に囲まれて、どれだけの時間か生き延びていた。リィ・グレーネの遠見が奇跡的に発見した。
真黒い髪と瞳の、獣のように言葉を発しない幼子。蒼の妖精ではないのに、術の素養は底知れなかった。
二人が二十歳を越えると、気の早い者の間で論争が起こり始めた。
どちらが長となるべきなのか。
順当で行けば、如何にもナーガ・ラクシャの血を引いた外見の、由緒正しい里育ちの彼。
しかし術力は黒髪の若者が圧倒的に勝る。リィ・グレーネが目に掛けるだけはあると、実質主義の者の間で推されていた。だが彼はどうしたって蒼の妖精ではない、凡庸な『草原の民』なのだ。
『種族』は、血の多さではなく、生まれた時に一目瞭然に分かる。あやふやな者はいない、妖精は妖精として生まれる。
成長するにつれて資質を発揮する事はあるが、種族が変わる事はない。
「リィ・グレーネ様とて母親は別種族。蒼の妖精の血は半分ではないか。里には混血の者も多い、今どき種族などと拘る方がおかしい」
「そうは言っても、蒼の長となるとまた別ではないか?」
「血は混ぜた方が子孫が強くなると、ナーガ・ラクシャ様は説かれていた」
「術力だけで決めてしまうのは危うくないか? あるだろ、もっとこう、醸し出されるオーラとか、品格って奴が。あいつはちょっと……なぁ……」
言っている間に、黒髪の若者は里内から姿を消した。リィ・グレーネの命を受けて外へ仕事に出ていると説明があった。
里内の論争は止んだ。
彼は身のほどを弁えて退いたのだろう。やはり長は蒼の妖精の方が収まりがいい。
今まで通り変化なく平穏に、と。
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