第118話 桜花。【とりあえずの後編】

文字数 6,034文字

現代美術家の会田誠先生の絵画作品に『マンハッタン空爆の図』というのがあるのです。昔、戦争画と呼ばれるものがあって、それを現代に復活させた会田誠『戦争画リターンズ』シリーズの中の一作品ですね。
『マンハッタン空爆の図』は、リアルに描かれたマンハッタンを、わざとぺらぺらに(折り紙を切り張りしたかのような)日本の戦闘機が傷痍弾を落として炎上させている図よね。わたしは水戸芸術館の『リトル・ボーイ展』で観て笑ったわよ。ちなみに、「リトルボーイ」というのは日本に落とされた原子力爆弾のひとつの愛称ね。もうひとつは「ファットマン」という愛称だった。
この絵画は現代美術なのでいくつものギミックが仕掛けられていますが、まず、原子力を推進していた〈マンハッタン計画〉の名前のあるアメリカのマンハッタンを、日本の爆撃機が空爆しているところがポイントですね。
実は、茨城県鹿嶋市の『桜花公園』で保存されている本物の航空機「桜花」は、燃料が片道切符にしかならないくらしか入ってないだけじゃなく、燃料代を捻出出来ないこともあって「かなり殺ぎ落としたシェイプをした機体」だったのよ。つまり、ぺらぺらに描いた会田誠はある意味、簡略化して描いているように思えて、実際はその特別攻撃隊(特攻隊)の機体のぺらぺら感を戯画化して描いているだけで、本物にかなり近いのよね。いろんな意味で驚いたわよ!!
さて。今回は引き続いて坂口安吾の『桜の森の満開の下』のレビューからインスパイアされて書いている、「桜のように散った」名前通りの〈桜〉である「桜花部隊」や特攻隊の話と、そこから敷衍して戦争の話です。
坂口安吾は『特攻隊に捧ぐ』で、こう言う。「それは一に軍部の指導方針が、その根本に於て、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう」と。
それから、「若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう」と続きますね。「けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?」と、問題提起するのです。
引用をじゃんじゃんぶち込むわよ。坂口安吾は「我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の偽懣とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか」と、言うのよね。
けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応なく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶な死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以て敬愛したいと思うのだ」と言って、そして。
最後の結びとして「要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのであろうか」と、書いたわね。
さて。これをどう解釈すべきか、なのです。
いままでこの太平洋戦争は、アメリカの文化人類学者のルース・ベネディクト『菊と刀』に書いてある文脈で語られてきたわね。
ルース・ベネディクトは、西欧文化は自分が善と信じたことは他者がなにを言おうとしても曲げない『罪の文化』であるのに対し、日本文化は善いと思ったとしても他者がこぞって承認しなければ実行しないという「恥の文化」である、としたのです。「個人主義」対「全体主義」の対立軸としたのです。『菊と刀』の菊は天皇、刀は武士道。「飯は食わねど高楊枝」の武士と、その「みんなが承認しているのが天皇だった」ということに短絡化されますね。ある意味、それはそうですが、一側面でしかないのです。
成瀬川るるせは何回もいろんな小説の中で書いているけど、ここでも繰り返すわ。2.26事件は、その理論的支柱だったのは北一輝の思想で、彼はあとで死刑になった。北一輝は主著『日本改造法案大綱』で「明治維新は天皇を指揮者とする国民運動であり、これにより国民は将軍や大名への隷属状態から解放され、日本は天皇と国民が一体化した、天皇を総代表とする民主主義の国家となった。しかし財閥や藩閥、軍部、官僚制など特権階級によってこの一体性が損なわれており、この原因を取り除かなければならない。その具体的な解決策は天皇と合体した国民による、国家権力である社会意志の発動たるクーデターであり」と、wikiにはあるわね。
ちょっと、成瀬川るるせの『百瀬探偵結社綺譚』から引用するのです。
「金を……国賊どもが吸い上げちまったんだ! 小さな田舎の漁村の金すら、奴らはな! 食い扶持に困ったおれの親も、村のほかの大人も、……売り飛ばしたんだよ! 村の若い、年端もいかない女の子たちを、な! 同じだろ、あの昭和のテロの時代と! 国の中央にいる奴らの性的欲求を満たして手に入れたなけなしの金で、おれたち村の者はみんな、飯を食うことが出来たんだよ! あんな飯は、もう……喰いたくねぇんだよ」


成瀬川るるせ・著『百瀬探偵結社綺譚』手折れ、六道に至りしその徒花を【第六話】より抜粋

ここにあるように、北一輝が「財閥や藩閥、軍部、官僚制など特権階級によってこの一体性が損なわれており、この原因を取り除かなければならない」と書いたときに青年将校たちが思い浮かべたのは、成瀬川るるせが書いたように「金を……国賊どもが吸い上げちまったんだ! 小さな田舎の漁村の金すら、奴らはな! 食い扶持に困ったおれの親も、村のほかの大人も、……売り飛ばしたんだよ! 村の若い、年端もいかない女の子たちを」という、現実問題に直面していて、憤りを覚えていた、というのが大きな要因になった、と言われているわ。「そうじゃない」とは一概に否定できないのよ、昔の寂れた農村漁村というか、寒村と呼ばれるところは、こういう事情があったの。
で、ここで切り離さなければならないのは、天皇の問題と、市井の人々の事情ですね。この『死神』でも何度も語っていますが、どうせ誰も読んでないか忘れているだろうし、語り直すのです。
日本の戦国時代を終わらせたのは、徳川家康ね。家康が戦国時代を完璧に終わらせるために行ったのが〈宗教の去勢〉なの。〈檀家制度〉というナイフでとどめを刺した。なぜなら「宗教はやっぱり強い」からよ。
家康の江戸時代という「近世」を越えて幕末。成瀬川るるせが友達に「天狗党ってなんですか? なんでこんな奴らが生まれたんですか?」って言ってたらしいです。これは「勅書」返納問題が絡みますね。〈戊午の密勅〉ってのが水戸藩に孝明天皇から直接下賜されたっていう。ここらへん、マジでヤバいゾーンに入ってしまうので、ウィキペディアも慎重になってますね。徳川御三家とはいえ、天皇から直接密勅(ざっくり言うと秘密のお手紙です)が届いたら大問題なのです。で、実際にその大問題が起こった、という。
水戸藩は、水戸黄門と呼ばれた水戸光圀が彰考館という建物を建てて、『大日本史』編纂のために藩をあげて頑張った。全国から書物を持ってきたりして、大日本史という「〈史書〉」をつくった(正確には明治期にやっと完成した)。で、ここに関連した学者の思想を水戸学、と呼ぶ。実際はこれも若干違うけど、ウィキ的には、そうなるわね。
ウィキからベタ打ちでも「全体的に水戸学=大義名分論とする尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えた。歴代天皇が現在のものに改編されたのも『大日本史』の影響とされている」と書いてあって、幕府より天皇の方が偉いっていうことを、再発見するのです。で、若い頃の吉田松陰とかが水戸に遊学に来ていて尊攘思想を受け取りー、ってことで、明治になったのです。
もう一度言うと、日本は徳川家康がつくった檀家制度によって菩提寺があるままで、つまり、仏教のどこかの宗派にはいた。明治期は信仰にちょっとだけ自由が出たけど(仏教弾圧の話は、もうちょっと前からの流れもあるから省略ね)、その関係で今も残る新興宗教がかなり出てくる。ここの(新興宗教の)流れは、誤解を恐れずざっくり言うと、政府の考えた「復古神道」や、それに「古神道」の流れ、仏教でもそれらの神道に関連した要素があったりして(すごく睨まれて弾圧される宗派もいくつもあったし)、これらがブレンドしていく感じ、さらには聖書の数秘術みたいな奴(要するに聖書解釈の手法をパクったように流石にわたしには思えるわね)、なテイストのなにやらするのも続々生まれてくるし、今もその流れはある(*誤解が生じることを書いてしまったので、詳しくは調べてね)。作者の友達は、ここらへんの話を言いたかったのだと思う。
成瀬川るるせ

「僕がここで語った復古神道の話は昔からある〈神社18系統〉と呼ばれるものではなく、〈教派神道13派(と、そこからもこぼれ落ちる派閥)〉の、新興宗教を念頭に置いているぜ」

〈皇国史観〉という宗教(?)は、岩倉具視を全権とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された『岩倉使節団』がつくったってのが定説になっているぜ!! ヨーロッパとアメリカを見てきた岩倉使節団、特に岩倉具視は、西洋列強が強いのは一神教というもので「一丸になる」ことが出来ることだと踏んだ。ので、ちょうどよく天皇制を(また、ここでも)利用したのがベース。

なお、6世紀百済から伝来した仏教を天皇家は丁未の乱(ていびのらん)ののち、信仰することになってるぜ。

〈記紀〉は、氏族の主観的な歴史を排除し、口伝ではなく、大陸などに向けても二十四史のような正統な〈正史〉(紀伝体の本)が必要とされたのでつくったのだぜ(Wiki的には紀伝体風という位置づけだぜぇ)。よって、それを日本のドグマとして考えるのは本流ではないけど、岩倉は利用したし、教派神道などは記紀をドグマとして捉えるのが普通だぜ。

〈記紀〉は、氏族の主観的な歴史を排除してつくられたものなのはことのほか重要です。世の中には「系図屋」と呼ばれる職業があるのです。系図をつくってもらうと、どんなご家庭も由緒ある戦国武将やらなんやらの子孫なのだー、とか系図屋がでっちあげるんですね。〈氏族〉は、各々系図を持っていたのです。それじゃ困るから、今の天皇家に連なる家系図(神代からの、疑似的かもしれない家系図)を公式な歴史としたのが〈記紀〉なのですよ。
思い出してみて。卑弥呼がいて群雄割拠してたのよ? それをなかったかのようにいつの間にか天照から始まる天皇家の話になるのはなんでか、っていうと、紀伝体風正史が朝廷で必要になったからつくったからなのよ。しっかりして! 小学生でもこのトリックっぽいひっかけ問題は、わかるわよ。
大和朝廷公式家系図(神話も含む)を、この国のスタンダードとして採用したって話なのです。実際のことはとりあえず文献があやしいの以外は残ってないのでなんともなのです。それを踏まえて、記紀神話は読むのです。
これね。古来から日本には氏神信仰っていうのがあるのね。自分の祖先を敬う信仰が氏神信仰。で、偉い人の祖先はやっぱり偉いから敬おう、となったらなんか神様ということになっていて、神様の子孫なのだー(ずぎゃ〜ん!!)みたいなことになってるのね。
で、昔からこの国では、その神様の子孫だというひとを囲って、自分を征夷大将軍とかにさせて実際の政治や権力を牛耳る、っていう方々が現れては消え、また現れる、となっていたのですね。学校で習う日本史とはそれだけが描かれた話だ、と言ってもいいのです。で、明治政府は遣欧使節団などで遊学して「日本を一丸にするのに」また利用してしまったのです。
やっと本題に入れそうだけど、とりあえず『るるせ短編手帖』からの抜粋をするわ。

日本には、血縁主義であった氏神信仰と、地縁主義であった産土神への信仰がある。

両者はくっついてしまったし、現在は引っ越しなどにより、産土神と鎮守神が別、というのも一般的になっている。


血縁主義は、ある意味では難しい。こうなってくると、伝統、トラディショナルなものは、地縁主義が担うことになる。氏神が自分の祖先神でなくても、「産土神と化した氏神」の、氏子に入って、地元のコミュニティに加入する、などが増えるだろう。

ただ、産土神と言った場合、「生まれた場所」のことと、その神を指すのだから、生誕地を、生まれ育った町のことを、考えながら過ごすことになるのだ。都会のひとは特に、望郷の念がありつつ、田舎には住みたくない、となるひとが多いので、住んでる町の〈地縁〉と、〈産土〉の両方を考えるだろう。田舎に住むにしても、地元コミュニティに所属することが必要だし。


成瀬川るるせ・著『成瀬川るるせ短編手帖』第65話 血縁主義と地縁主義より

これはなにを指すか、というと、「ナショナリズムとパトリオティズムは違う」という話なのです。
ナショナリズム……つまりネイション(国家)主義と、パトリオティズム(無理矢理訳せば、郷土愛)は、全く違う。坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』の特攻隊への賛美は、パトリに基づくもので、それはナショナリズムでは、決してない。そういうことよ。
氏神信仰の血縁主義だけを観るのではなく、産土神信仰に代表される地縁主義を観ないと、坂口安吾のロジックは理解出来ないのです。要するに、そういうことなのです。
ふぅ……。また補足を入れるかもしれないけど、これで【後編】にしちゃっていいかしら。本当は数回にわけて書くつもりだったけど、なんか、これ以上書いても竜頭蛇尾になるわね。「個人を越えて大きいモノのために戦う」となった場合、それは叙事詩が語る英雄と(文献突き合わせれば)似た行動でもある、というのはそれでも一方には考えとしてあってもいい。けど、敗戦国が戦勝国の皆様や戦争をふっかけた国々の皆様の前でやると、なにか言われるわね、当たり前だけど。でも、わたしの考えでは、それはナショナリズム、つまり「天皇教」、ではない、違うものだと思うわね。ここでそれを説明してきたけど、でも、理解できないひとが多いとも思うわ。るるせの筆が至らなかった所為なので、ご了承くださいね。
ですね……。今回は、ひとまずこれで。
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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