アンチ・ヒーローよ語れ、ピカレスクの華を(下)
文字数 1,890文字
価値観が大きく変わった出来事でもあるのですよね。サドの話は焚書と表現の話に接続されるとして。現在は国連の世界人権宣言てのがあるっていうほど、「ひとの命は大切」なのです。ここでいう「ひと」ってのは「みんな」を指す言葉ですね。単純化していえば。
作家は「炭鉱(坑道)のカナリア」だもんね。全体主義はロマン主義の成れの果てだった、って話も、近代~現代文学に続く話とつなげても罰は当たらないと思うわ。ちょっと年代の幅が広すぎて焦点がぼやけてきたけど。
プロタゴニスト(主人公)は、アンタゴニスト(敵対者)がいて初めて成り立つ。古代ギリシャ劇の話なのですが。プロタゴニストとアンタゴニストは、それぞれコーラスという引き立て役に促されて、闘争(アゴーン)を行う。アゴーンとは論争などを指すのですが。コーラス役は観客の代弁者の役も担うのです。
敵、つまり自分らにとっての『悪』はぶっ殺すべし、ってのは現実でずーっと起こっているのです。ロマン主義がひどい帰結を招いて、社会をシステムとして「人材が取り換え可能で回る」風にデザインして、同時期に構造主義がもてはやされたのですが、やっぱり吸引力のあるカリスマが必要というのが、露呈してくる。
人材が買い叩かれる社会が、今なのです。人材の使い捨ても同様。スマホゲーの課金すらできない子供が、この格差社会を感じてしまったところに先導者が「立派な大人になればいい!」というメッセージを流す。ソーシャルデザインとしては、国際競争率上がってもばっちりな人材の育成になる仕組みなのです。
昔、映画に『小さな恋のメロディ』ってあって、滑稽な大人の世界への子供からの反逆を描いたのだけれども、子供のまま反逆するのではなく、大人になって見返せ、って話になってるのが今の社会よね。人口の問題もあるからってのも理由になるでしょうけど。
「一芸に秀でて無双!」が(ステレオタイプな)ウェブ小説の醍醐味なのです。長い時間をかけて培ってきた熟練の技や知識が、転生でもして若くして使えて無双するのです。「頭脳は大人」なのがこの場合の肝なのですよね。
「何者でもないおれが何者かになる」ストーリーには、勝てないってことになってしまうのですね、この話は。ポストモダン文学の騎手も『歴史』を導入してスカスカの現在しかないフラット感を『打破』するしかなかったように。
むー。魅力的な人物を描くしかないのね。当たり前の話になったわね。でも、瞬間的にはそれは否定されようとしてた。けど、それは無理だった。それはもう、時代の要請によるところが大きい。そこに「カラクリがあるのでは?」と疑問を持つと、今回のわたしたちの話みたくなって、でも結局はストーリーを引っ張る人物や主人公は必要不可欠なので、仕方ないですね、となるわけね。