探偵ボードレールと病める花々【第二十二話】

文字数 1,291文字

とはいえ、ボードレールがその先陣を切ったわけではないのです。数々の先行作品があり、ボードレールは〈百合〉と向き合うことになったのです。
ああ、そうなんだ。
バルザック『黄金の眼の娘』、ゴーティエ『マドモアゼル・ド・モーパン』、デラトゥーシュ『フラゴレッタ』などが、先行作品として、あるのです。
ボードレールは、ドラクロアの絵画でも、レズビアンに対面していて、ボードレールはその絵の批評の中で、「地獄的なものへの方向にある近代女性のヒロイックな顕示」について語っているのですよ?
ボードレールは美術批評家をやっていたのを、忘れちゃダメね。そういうところからも、モティーフを持ってきているのよ。
このモティーフは、サン・シモンズに淵源を持っている、と言われるのです。シモンズは、両性具有の観念に価値を付与していたのでした。
ボードレールの「ヒロイックな女性」のイメージは、サン・シモンズのサークルの中で打ち出された、と言うわ。
〈百合〉がボードレール文学のなかで重要なのは明白な事実で、でも、そのなかでも、ひとの注意をひかずにきたものがいくつかあると、ベンヤミンは語るのです。
「レスボス」はレズビアン賛歌なのに、「地獄に落ちた女たち」は、同じ情熱への断罪だ、という対極的な傾向が、そのひとつなのです。
ボードレールはレスボスの女を、社会的な問題としても、人間の素質の問題としても見ていなかったから、彼女たちに対する態度を、散文詩風に決定することがなかったのだ、と。
〈近代〉のイメージのなかにレスボスの女たちのために場所を置いたけれども、〈現実〉のなかには、彼女たちを〈再認〉することは〈なかった〉と、ね。
幻想のなか……イメージのなかにしか、ボードレールさんにとっては百合はなかったのね。百合幻想。少し前までは、確かに日本でもそうだったよね。いろんなひとの努力や騒ぎで、〈現実〉のなかに〈再認〉されたけれども。
だから、ボードレールは、こう、書いているのですよ。以下、抜粋。
「ぼくたちは文筆をふるう博愛家の女性を知っている。彼女がフーリエ主義者であれサン・シモンズ主義であれ、ぼくたちは決してああいう大仰な、癇に障る振る舞いには、ああいう男性的精神のイミテーションには、眼を憚らすことはできない」と。
ボードレールが好意的に〈百合〉に肩入れしたことがある、とするのは〈間違っている〉と、ベンヤミンは断定するのです。これが、注意をひかずにきたものの、もうひとつなのです。
百合を書くひとたちみんなに、読ませたいわね、このベンヤミンの注釈を。
まあ、そして、『悪の華』は、裁判になるのでした。市民から排斥されなければ、この情熱のヒロイックな性質は成り立たないのです。
そして……。
「おちてゆけ、おちてゆけ、あわれな犠牲者どもよ」というのが、ボードレールがレスボスの女にたむける最後の言葉なのでした。
話を戻すと、ヒロイックだったのは描かれる主体か、それとも、詩人自身なのか。
そうして、探偵・ボードレールさんは、堕ちていくのでした。おしまい。
本稿は岩波文庫『ベンヤミンの仕事2』(野村修・訳)を大きく参照して執筆しました。
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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