第35話 命の細い糸

文字数 5,519文字

 翌日は、土曜日。
主治医に予約を取って、検査をする予定になっていた。
一三(かずみ)が病院まで随伴してくれるはずだったが、本社のサーバーがクラッシュしたと連絡が入り、慌てふためいて出社して行った。
だが丁度いい。
病院で五十六と待ち合わせることになっていたから、もしニアミスしたら面倒なことになる。
最寄りの駅から、電車を乗り換えて、ほぼ三十分といったところだ。
平日の朝とは違い、車内は行楽客の姿も多い。
観光客とおぼしき親子連れや、デート中のカップルもちらほら見かけた。
しかし、そんなことには関係無く、部活や勉強に精を出す学生や日祝関係のないビジネスマンもいるわけで。
階段を下りきったところで、(たまき)の前を歩っていたサラリーマン風の五十代の男性が、持っていた缶コーヒーを落とした。
空の缶だったのだろう、軽い音を立てて、床を転がっていく。
「課長・・・?」
隣の部下と思われる男性が、その足元の缶を拾おうと、手を伸ばした。
「ああ、ごめ・・・」
と頷いたまま、男性の体がゆっくりと傾いだ。
そのまま、片膝をつき、床にしゃがみこんでしまう。
周囲がざわついて、人垣が割れた。
彼は苦しいのか、荒く浅い息を繰り返していた。
「課長!大丈夫ですか?!
部下が、慌てた様子で肩をゆすった。
(たまき)は、隣に急いでしゃがみこんだ。
「すみません。発作かも」
突然そう言われて、まだ新人なのだろう若い青年は、戸惑ったように手を離した。
倒れこんだ男性の顔色は、血の気がひいていた。
一過性の貧血や、低血糖による意識消失というような状態ではないようだ。
突然倒れた、ということは、持病のてんかんや、脳疾患や心筋梗塞の可能性が高い。
「持病とか、飲んでる薬とか、わかりますか?」
青年は、首を振った。
「救急車お願いします」
そう言うと、彼は頷き、異変に気付いた駅員に声をかけた。
脈を取ると、・・・遠いな、細いな・・・という印象だった。
逃げようとする細い命の鼓動を、なんとか掴み取る。
かすかな命の音だ。
よし、捕まえた。離さないからね・・・。
(たまき)は集中して、脈を辿った。
まず観察しなさい、脈を取って。脈をとれば、大体わかるものよ。
と、長年赤十字で緊急医療の看護師を務めている母がよく言っていた。
脈が飛ぶ・・・、飛ぶ・・・。
(たまき)は男性の口に顔を近づけた。
呼吸をしていない。
顔色がみるみる土気色になっていく。
青年が、腰が抜けたようにへたりこんだ。
大丈夫。ここは駅だ。
「すみません!AED持ってきて!」
立ち上がって叫んだ(たまき)に、駆け寄ろうとしていた駅員が大きく頷いた。

 (たまき)はそのまま男性と共に救急車に乗せられて、自分もまた目的地だった海天堂病院にたどり着いた。
心臓といえば、ここだものねえ・・・・。
夢中だったせいだろう、環は知らず頭を怪我していたのだ。
どこで切ったのか、打ったのか。
全く覚えていない。
まるでホチキスのような機器でパチンパチンと三針止められた。
薬も塗らない。ガーゼも当てない。
メロンみたいなネットもかぶらないのかと聞いたら、今はそんなことしないと若い看護師が笑った。
予約の時間を少し遅れてしまったが、看護師が事情を説明してくれて主治医が予定をずらして待っていてくれた。
初めて会う主治医は、青柳先生と言う四十代後半の医師だった。
「久しぶりだね。いっくん。お手柄だったねえ。・・・ああ、ここパッチンされたのか。かわいそうに」
小さい頃からの親しみで、彼は頭を軽く撫でた。
「・・・あの、さっきの人は・・・」
「うん。心筋梗塞。でも、おかげさまで心肺停止時間が二分程度だって?ダメージは少ないよ。明日には意識も戻ると思う」
ほっとして(たまき)は椅子に座った。
心停止時間が5分超えると、身体的に重い後遺症が残ることが多い。
脳へのダメージを防ぐため、心臓マッサージを続けていたのが良かった。
両腕と、手首と、指先が痛い。
大きく口呼吸をしていたせいで、顎がガクガクする。
「しかし。すごいなあ。適切な処置だったよ。偉かったなあ。どこで覚えたの?」
救急隊も感心していたよ、と彼は続けた。
「・・・えーと・・・」
大学の実習で。とは言えない。
「・・・授業で。林間学校の前に、担任の先生が養護教諭なので、教わりました」
嘘ではない。実際、林間学校直前の学年合同集会で、体育館で皆の前で人工呼吸とAEDの使い方を指導したのだ。何人が真面目に聞いていたかは、別として。
「ほおー。最近の学校はすごいなあ。助からなかった患者さんをここ数年だけでも何人も見て来たよ。全員すぐそばにAEDはあったんだけどね」
環は頷いた。
医療現場に携わる者は、そう言う。
母も、よく言っていた。
「・・・そうなんです。だから授業で若い世代に伝えるのが大事・・・」
(たまき)がはっとして顔を上げた。
驚愕と感動の入り混じった視線とぶつかる。
「いっくん・・・。ちょっと見ない間に、随分大人になって・・・」
「いやいやいやいやいや。・・・先生が、言ってたんです!」
そうなんだ、と更に感心したように青柳が大きく頷いた。
その後、心電図や、MRIを取り、血液検査もして。
検査の簡単な説明を聞いてから、待合室に戻ると、五十六(いそろく)が手に変な柄のエコバッグを下げて待っていた。
「おー、おつかれさま!いやー、大変だったな。さっきのおっさん、もう大丈夫だってよ」
待ち合わせの時間を超過して、イライラと待っていた五十六(いそろく)は、救急車から車椅子に乗せられ頭から血を流している環と出くわした。
その後に、ストレッチャーにぐったりと体を横たえた患者が運ばれて行った。
看護師にまさか本当のことなど言えないので、たまたまお見舞いに来ていたのだが、担任しているクラスの生徒が運ばれてきたのだが、どうしたのか教えて欲しいと言って事情を聞いたのだ。
本来なら個人情報なのだが、申渡しをしていた看護師と救急隊が褒めてくれて大体の内容を聞いた。
「これ」
ずいっとビニール袋を押し付ける。
「腹減っただろ?ここの売店のサンドイッチ、うめーんだよー」
「あ、ありがと・・・」
そういえばすっかり忘れていた。
一番近い椅子に座り込む。
「・・・あー・・・びっくりした・・・・」
正直、今頃実感が来た。
林間学校の準備の時、やる気をみせない生徒達に、ちゃんとやれ、真面目にやれ、真剣にやれ、ビビるな、と叱りつけたが。
子供達には酷なことを言っていたと気づいた。
まあ、一番ふざけていて手を焼いたのは五十六(いそろく)だが。
その上、林間学校は欠席だった。
心臓疾患だと知らなかった当時は、腹も立ったものだ。
(たまき)の指先が震えていた。
今頃、実感が襲って来た。
たまたまうまくいったから良かったけど。
あの男性が助からなかった場合の事を考えると・・・今更ながら恐ろしくなった。
もう家に帰って、鯖缶でも開けて熱燗飲んで寝たい・・・。
しばらく酒等飲んでいなかったから、きっと気持ち良く一瞬で寝れるだろう。
サンドイッチを頬張っていると、五十六(いそろく)が、頭の傷に気づいた。
「・・・せ、先生・・・俺の頭に、金属の何かが刺さってんだけど・・・!」
「ああ。何か、切ったらしくて。ホチキスみたいのでパッチンされた」
「おおお、怖ェエ・・・。中身、俺じゃなくて良かった!」
見ないように見ないように、五十六(いそろく)は顔を遠ざけた。
「・・・しかも、そこハゲになってるっぽいんですけど・・・」
「カミソリで少しね。だって、剃らなきゃパッチンできないじゃん」
サンドイッチをぺろりと平らげてしまうと、環は一緒に入っていたプリンの蓋も開けた。
ホチキスで留められた頭して、よくまあばくばく食えるな・・・。と五十六は傷口を見ないように顔を背けた。
「来週抜針するって。また来なきゃ」
「ううう。今度は針抜くのかよう・・・。こええーー・・・」
ヘタレめ。
「あんたね。そんなこと言ってるけど。検査したんだからね。必要あったら手術なんだからね。ザクザクッといくのよ?」
「うああ、言わないでくれよー・・・。もう怖いんだから・・・。あー、マジ良かった。先生が俺の体入ってて・・・」
なんと無責任な。
「でもあの青柳先生って思ったより若いのね・・・。大丈夫なの?」
年齢でどうこう言いたくないが。
「大丈夫だよ!アル中で死んじまったけど、伝説のゴットハンド・鬼首静香(おにこうべしずか)先生の一番弟子が青柳先生なんだぞっ。鬼首(おにこうべ)先生、外科医と爆弾処理班と配管工は経験と手先の器用さが大事だってよく言ってたもんな」
「ま、切ったり貼ったりする仕事は大体そうでしょうけど・・・」
あ、と高久がエレベーターの方を見た。
「ヤギ先生だ」
環も振り向いた。
・・・まさか、検査結果がよほど悪かったのだろうか・・・。
「ああ。良かった。まだ居たね」
「先ほどはお世話になりました」
ぺこりと(たまき)が頭を下げた。
「検査頑張ったね。検査結果が出たわけじゃなくて。いっくんが助けた男性がね、今さっき意識を取り戻してね」
気丈な人で、目が覚めて大体の状況を理解したら、助けてくれた学生にどうしてもお礼が言いたいと言ったそうだ。
さすがに集中治療室で直接会うことは無理であるとして、それで慌てて青柳が五十六(いそろく)を追い掛けて来たということらしい。
「そうですか。良かった。後遺症はどうですか?」
「うん。今後の状況次第だけど、そんなに問題ないと思うよ。手足の感覚もしっかりしてた。たいしてリハビリは必要ないんじゃないかな、治療だけで」
(たまき)はほっとした。
脳血管を切ったわけではないから、四肢に麻痺が出るとか、言葉が不自由になるとかの心配はないだろうが、それでも心臓が止まり、呼吸が止まると言うことは、わずかでも脳に酸素が行かなかった時間がある、ということであるから、心配だった。
「・・・良かったあ・・・」
五十六(いそろく)がしみじみ呟いた。
体に爆弾を抱えるのは自分も同じだ。
心穏やかではなかった。
「・・・・ええと?こちらは・・・?」
(たまき)の姿をした五十六(いそろく)を青柳がにこやかに見つめた。
「えーと。あの、さっき言った、先生です。担任で、養護教諭の」
「え。あ。そうです。・・・ほんとにたまたま、知り合いのお見舞いに来ていましたら、偶然、高久(たかく)くんに会ったんです」
ほら、ご挨拶、と(たまき)五十六(いそろく)に小声で叱咤した。
「あ、ええと。・・・いつも、生徒がお世話になっております。担任の金沢環(かなざわたまき)です」
「そうでしたか。心臓外科医の青柳と申します。いやいや、先ほど、先生の授業の成果のおかげだといっくんと話していたんですよ。素晴らしいですね、授業で心肺蘇生法や、応急処置を教えるというのはとても意義のあることです」
「はあ?」
きょとんとしている五十六(いそろく)の脇を(たまき)が小突いた。
やっぱり。ろくに覚えちゃいない。
「嫌だなあ。先生・・・!ほらっ、臨海学校の事前準備で、学年皆で体育館で、心肺蘇生法とかAEDの使い方、やったじゃないですかー・・・」
消防署の職員とも打ち合わせして、当日指導に来てくれるように頼み込み、資料を作り・・・。
こっちがどんだけ時間がかかったと思っているんだ。
「ええ?・・・あ、ああ・・すごーい・・・ミラクルー・・・」
五十六(いそろく)がこれまた適当なことでごまかした。
内心、(たまき)は舌打ちしたが。
青柳はぎゅっと五十六である環先生の手を握りしめた。
「いえ!ミラクルなんかじゃありませんよ。先生の情熱と、努力の結果です。素晴らしいことなんですよ、これは。感動・・・いえ、感激しました」
五十六(いそろく)は驚いて目をぱちぱちさせていたが、(たまき)の方もまた感動していた。
そんなこと言って貰える日が来るなんて・・・。
生徒達のそんなの関係ねぇ的な態度に、もうこんな授業、来年からはやるもんかと思っていたが、来年も再来年も応急処置の授業はやろうと心に決めた。
「・・・・あ、し、失礼しました・・・」
青柳が、手をぱっと放した。
「いえあの。僕ですね、本当に嬉しくて。授業でちゃんとした応急処置を教えているだけでもすごいのに、子供の時から知っているいっくんがそれを実践して、いのちを救ったわけですから・・・」
「うんうん。そうですよね。わかります・・・」
(たまき)も目がうるうるして来た。
「・・・あ、はい・・・ドーモ」
気まずそうに五十六(いそろく)はただ微笑んだ。
困った時は、笑え、と環に言われているからだ。
「亡くなった鬼首(おにこうべ)先生も、きっとすごく喜んでくれてるよ、いっくん」
居心地が悪くて、五十六(いそろく)は環にさっさと帰ろうと耳打ちした。
「え・・・あ、先生、ではまた検査結果が出る来週にお伺いします。ありがとうございました」
「うん。待ってるね・・・、あ、それと、ちょっとすいません」
胸ポケットから、青柳が名刺を取り出した。
「主治医の青柳倫敦(あおやぎともあつ)です。・・・どうぞ、今後ともよろしくお願いします」
はあ、と五十六が名刺を受け取った。
・・・これどうすればいいんだろう、という態度に、(たまき)は小声で一読してしまいなさい。と言った。
「は?イチドクってなんだよ?」
「・・・読むふりくらいしろってこと・・」
五十六(いそろく)(たまき)の名刺なんか携帯していないし、さてどうするか、と思案していたのだが。
「あ、じゃあ。ヤギ先生、名刺もう一枚ちょうだい」
「・・・ああ、はい」
親しげにそう呼ばれたのに少し驚いたが、彼は素直に名刺を手渡した。
ポケットからペンを取り出して、名刺の裏に何かを書いて青柳の手に戻した。
「それじゃ、失礼します。高久くん、行きましょう!」
「・・・え?あ、はい。・・・では失礼いたします。お世話様でございました」
環は、ぺこりと頭を下げ、元気よく前を行く五十六(いそろく)を追った。
青柳は二人を見送ると、手元の名刺の裏側を見た。
金沢環のメールアドレスのようだった。
「・・・・kamehame-ha@・・。おもしろい人だなあ・・・」
それは本当は五十六(いそろく)のメールアドレスなのであるが、そんなこと知る由も無い青柳は大事そうに名刺をポケットにしまい込んだ。
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登場人物紹介

◇ 金沢 環 《かなざわ たまき》


私立旭鷲山学園《しりつきょくしゅうざんがくえん》の、養護教諭。

いわゆる保健のおばちゃんながら、人手不足の為に担任も持たされている。

日々、クラスの男子高生に手を焼いている。

世間に疲れ始めた30代前半。


既婚。夫は警察官。

都内の夫の実家で夫の母と別世帯の二世帯同居。

◇ 高久 五十六 《たかく いそろく》


私立旭鷲山学園《しりつきょくしゅうざんがくえん》の高校2年生。

態度が悪いが、父親が大手商社のCEOで、大口寄付をしている為、学校側に忖度《そんたく》されて野放し。

5月16日生まれなのが名前の由来。

ブランドモノを好むが服のセンスは悪い。


父と兄がいる。

◇金沢 諒太 《かなざわ りょうた》


環の夫。警察官。

激務で不在がち。

◇ 一ノ瀬 紫《いちのせ ゆかり》


私立旭鷲山学園の音楽教師。

吹奏楽部顧問。

音大出身で、学園長の姪。


環の同僚。

環の事は好きなタイプではないので、あまり積極的に関わっていない。

同性の友人が少ないタイプ。

◇ 白鳥  学  《しらとり  まなぶ》


私立旭鷲山学園 二学年の学年主任。数学担当。

教頭候補。

進学特進クラスの担任。


親の七光くクラスと揶揄される、環《たまき》のクラスの生徒をよく思っていない。

◇ 一ノ瀬 幸太郎 《いちのせ こうたろう》

私立旭鷲山学園《しりつきょくしゅうざんこうこう》の学園長。


紫《ゆかり》の叔父。

◇  高久 一三 《たかく かずみ》


五十六《いそろく》の兄。

家業の高久商事に勤務して居るが、就職以来、度重なる転勤と出張の生活。

実家にはあまり寄り付かずに、本社の近くにマンションも所有して居るが、そもそも転勤ばかりしている為にそこにも居付けない。

名前の由来は一月三日生まれ。

◇ 高久 九十九 《たかく つくも》


高久商事のCEO。

一三《かずみ》と五十六《いそろく》の父親。

出張が多く、不在がち。

まだ学生の五十六《いそろく》の事は、家政婦のしなのに任せて居る。


早くに結婚したが離婚。

九月十九日生まれが名前の由来。

◇ 青柳 倫敦 《あおやぎ ともあつ》


海天堂病院の心臓外科医。

五十六《いそろく》が子供の時からの主治医の一人。


伝説のゴットハンド ドクター 鬼首 静香《おにこうべ しずか》 通称鬼の静香《おにのしずか》女史の弟子。

◇ 三条 昭和 《さんじょう あきかず》


美容師。

紫《ゆかり》が長年通って居るサロンのオーナー。

通称アキラ。

異性交友関係が派手。

◇ 毘沙門天  《びしゃもんてん》


仏神であり、天部四天王。

五穀豊穣や家内安全等の信仰を担う七福神の一人でもある。

激務の為、しばし休憩しようとした場所で、環《たまき》と五十六《いそろく》と出会い、手違いを起こす。

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