バイブル・スタディ・コーヒー ~スラスラ読める! 聖書入門

作者 mika

[歴史]

298

158,384

79件のファンレター

バイブル・スタディの仲間たちの会話をちょっとだけ覗いてみてください。
寝ころんでスラスラ読める! 「物語」がわかれば、聖書は楽しい。
聖書を最初から最後まで読み通すのは大変です。途中でいやになってしまうことも珍しくないでしょう。
なんとなく難しそうでも、聖書のことばの向こうには、豊かな歴史と文化が広がっています。
どなたでも、実際に聖書を読んでみようというかたのお役に立てればうれしいです。


アイコンはTopeconHeroesダーヤマ様の「ダ鳥獣戯画」より使用させていただきました。

ファンレター

「創世記」バベルの塔 “不条理”と旧約聖書

今回も、①歴史的な創世記・旧約聖書の成り立ちと、②物語から読み取るメッセージが、両者ともに書かれており、読者としては頭が整理される内容です(①と②を一緒にしてしまっている科学的でない論調が多いだけに)。①では、旧約聖書が「エジプト脱出からバビロン捕囚まで、各時代のさまざまな文書が、エズラによって、紀元前4世紀から5世紀に集大成されたという説」という点が興味深かったです。他の世界の大思想(孔子、老子とか)と近い時期なんですね。

mikaさんの「『旧約聖書』を無視して、「キリスト教は新約だけでOK!」と言ってしまったら、イエスや弟子たちや新約の時代の人々が読んでいた「聖書」を無視することになる」という意見には同感です。しかし、マルキオンのような人は、米国で私が会ったクリスチャンには沢山おりました。例えば私が以前住んでいたユタ州は、キリスト教の分派であるモルモン教の総本山があるところですが、彼らの立場は、概ね、「新約聖書は、聖典として旧約聖書に替わる新しい契約」といった解釈でした。また、一部のアメリカの日曜学校では、「イエス様は、子供のころ、熱心に日曜学校に通うクリスチャンでした」といった誤った教えられかたがされているということを皮肉っている本も読んだことがございます。キリストがユダヤ教信者であったとはしたくない立場の人は多いようです。

「契約のしるしに現れた虹は、主なる神が人間の悪をゆるし、神の愛と恵みが永遠に続いていくことを示している」という解釈は、私にとっても、旧約聖書の中では、もっとも感動的な解釈の一つです。一方、「バベルの塔」の解釈は、私にとっては困難ですが、何かポジティブな意図があって、神が行ったことと考えるのが、聖書をプラス思考で読むということと思っております。「人の傲慢さを叩くため」というのが文脈から読み取れるところではありますが、バベルの塔の事件の結果として「言語や住む場所が異なり、多様性が増したことで人の文化が豊かになった」といったところが、現在のオリンピックのテーマなども考えると現代的かなと思ったりもいたします。

しかし、その一方で、私は「バベルの塔」の話を読むたびに、「不条理」な話であると感じておりました。「神の深遠な意図は、人知では及ばない」という立場はありますが、この「不条理」感は、「ヨブ記」に共通するものであります。「カインとアベル」の話にたいする私のファンレターの返事に、mikaさんが、“もしカインとアベルに信仰による優劣が全くないとすれば、この世の「不条理」を表した物語ということになりますね。”と返信をいただきました時は、「目からウロコ」でありました。私は、「カインとアベル」と「不条理」のテーマを結び付けたことがなかったので、大変勉強になりました。私はカミュやカフカなどの「不条理」を描いた小説が好きなのですが、「神の意志がすべての事象に及んでいるのか」、あるいは世の中は「不条理」であるのか、いずれにしても、そうした世の中で、人はどう生きていくべきか、など、こうした物語を読みますと考えさせられます。

荒野の狼

返信(1)

荒野の狼さん、お読みいただきありがとうございます! 前回のお返事で書いた「カインとアベル」を「不条理」を描いた物語として読む解釈について、「目からウロコ」と言っていただき、とてもうれしく思いました^^ 荒野の狼さんが『エデンの東』の台詞を教えてくださったおかげで、わたし自身も今まで考えていなかった解釈をすることができました。いつも示唆に富むコメントを寄せていただき、ありがとうございます!

そうなんですね、マルキオンのような考え方のクリスチャンはアメリカでは大勢いるのですね。「キリストがユダヤ教信者であったとはしたくない」という感情の根っこにはユダヤ人差別の感情があるのではないかと思います。残念ながら、ヨーロッパでは20世紀になって反ユダヤ感情の高まりとともに、『旧約聖書』を捨ててしまおうという議論が再び燃え上がったのだそうです。ナチズムに協力したドイツの教会内では、マルキオンと同じような立場をとる神学者が多く見られたそうです。政治的な圧力にもかかわらず、旧約聖書の価値を評価したカール・バルト(スイスの神学者)もいましたが…。当時は、ディートリヒ・ボンヘッファーというナチズムに抵抗した牧師がおられましたが、強制収容所で刑死しました。偏りのない目で聖書を読むことが、文字通り命がけの時代だったのですね。アメリカの一部の教会では、今でも似た状況にあるのかもしれないですね。

「聖書をプラス思考で読む」というのは、わたしも賛同します! 「神の深遠な意図は、人知では及ばない」のかもしれませんが、どんな意図があったのかをさまざまに思いめぐらすことで、自分にとって有意義な気づきが得られるのではないかと思います。
カフカがお好きであれば、カフカの『町の紋章』という「バベルの塔」を題材にした短編を手に取ってみてはいかがでしょうか。
神が言語を混乱させたおかげで、「多様性が増した」というのはおっしゃる通りだと思います。トニ・モリスンはノーベル文学賞受賞演説で、「バベルの塔」を題材としたスピーチしています。
モリスンの考えによれば、多くの言語に乱れて塔の建築が失敗したことは不幸なことではない。もし単一の言語があれば、建築が続けられ、天国に到達できただろうと言われている。しかし、それは誰の天国だろうか?どんな天国なのか?もし誰もが他の言語、他の見解、他の物語を理解する時間を取れなかったとしたら、天国の達成は時期尚早である。
スピーチ全文は以下のURLに掲載されています。素晴らしいスピーチなので、お時間ある時にぜひ一読ください^^
https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1993/morrison/lecture/

モリスンは、神が言語を混乱させた後に人間がいさかいばかりになり、塔の建設が中断してしまったという点に着目しています。この着眼点は、聖書注釈本では見られない、モリスンならではの視点だなと思います。一つの言語、一つの宗教、一つの民族だけでまとまることは、自分たちと異なるものを差別し、排除することにつながると歴史が証明しています。モリスンの「誰にとっての天国なのか?」という問いかけは、帝国主義や全体主義が行ってきたことを思い起こさせますね。モリスンが言うように、異なる他者を受け入れ、共に生きることができないうちは、天まで届く塔を建設するのは「時期尚早」なのかもしれません。
次回はアブラハムのお話です。引き続きよろしくお願い致します!