バイブル・スタディ・コーヒー ~スラスラ読める! 聖書入門

作者 mika

[歴史]

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バイブル・スタディの仲間たちの会話をちょっとだけ覗いてみてください。
寝ころんでスラスラ読める! 「物語」がわかれば、聖書は楽しい。
聖書を最初から最後まで読み通すのは大変です。途中でいやになってしまうことも珍しくないでしょう。
なんとなく難しそうでも、聖書のことばの向こうには、豊かな歴史と文化が広がっています。
どなたでも、実際に聖書を読んでみようというかたのお役に立てればうれしいです。


アイコンはTopeconHeroesダーヤマ様の「ダ鳥獣戯画」より使用させていただきました。

ファンレター

「創世記天地創造/なぜ唯一神は複数形なの?」 :ヘブライ語のエロヒームは神の複数形

ヘブライ語のエロヒームは神の複数形なのだけれど、動詞は単数形なので、神々とは訳さない、など大変勉強になりました。1章26節の「我々にかたどり」の「我々」の三つの解釈も興味深いです。私は聖書をいくつか持っているのですが、用語の解釈が深く知りたいときは、英語の聖書には脚注がついていることが多いので、これらを利用しております。そこで、今回、mika さんの解説が勉強になりましたので、HerperCollins Study Bible を見てみましたら、1章26節は英語では、Let us make humankind in our image, according to our likeness. となっており、“us”というように複数となっている説明は、multiple gods ではなく”God and the retinue (従者) of the divine court”となっていました。

ここで、私が思い出しましたのはヨブ記の1章6節で、サタンが「神の使いたち the heavenly beings」のひとりとして登場するところです。the heavenly beings の脚注は Heb (ヘブライ語): sons of God となっておりました。

私はヘブライ語に関しては知識がありませんが、mika さんの書かれるように「ヘブライ語の意味に立ち返ることで、聖書理解がより豊かになる」というのを改めて実感いたしました。

ヨブ記は、このバイブル・スタディは、まだまだ先ですが、私は聖書の中では、もっとも好きなもののひとつですので、mikaさんの解説が待ち遠しいです。

前回の私のファンレターで、「創世記が最初から二つの異なるストーリー」と書いたのは、1章と2章では、男女、動物などの創造の順序などが異なるので、この部分は二つの異なるソースから書かれたという話を思いだしたことによります。「四資料仮説」と呼ばれているのは知りませんでした。私は神学を本格的に勉強したことはありませんが、上記の話を最初に聞いた時に、「本当に1章と2章で、創造の順序がちがうのかなあ」と、創世記の該当箇所を読み直して、違いを確認できたときは、何か発見したような思いでした(笑)。ちなみに、私が在米中に、クリスチャンの友人の何人かに、この話をすると、知らない人が多かったです。

mikaさんの願いとして、バイブル・スタディで聖書に興味を持ってもらって、「実際に聖書を自分で読んでもらう」という目的は、聖書の1章と2章の読み比べという「課題」を読者に与えるといいかもと思いました。聖書のアラさがしということでなく、こうした違いも含めて聖書の面白さを、原典を読むことで味わうことができるのでは、というのは私の体験からの考えです。

荒野の狼

返信(2)

荒野の狼さん、いつも読んでいただきありがとうございます。
「エロヒームは神の複数形なのだけれど、動詞は単数形なので、神々とは訳さない」というヘブライ語聖書の解説を楽しんでいただけて、良かったです! 「勉強になった」と言っていただけて、本当に書いてよかったと思いました^^
「我々にかたどり」の聖書箇所が、英語ではこのようになっているのですね。この“us”は「神と御使いたち」という解釈を提示しているのですね。個人的な意見では、「神の尊厳を表す複数形」説が有力ではないかと思います。しかし断定はできないので、読者がより説得的だと思う説を選べばよいのかなと思います。
わたし自身、ヘブライ語についてはまったく未熟で、勉強しながら書いています。「ヘブライ語の意味に立ち返ることで、聖書理解がより豊かになる」ということを教えてくださったのは、ヘブライ語聖書がご専門の日原広志先生(神学博士)です。縁あってお話を聴くことができまして、その時にヘブライ語で読むことの意味を教えられた次第です。
ヘブライ語聖書というのも奥深くて、現代ヘブライ語とは微妙に文法が違うそうです。聖書ヘブライ語の中でも、使われている文法的特徴や語彙などから、三段階に分けられるのだとか。書かれたのが一番新しいと考えられている部分では、アラム語(当時の世界共通語だった)やペルシャ語からの借用語が含まれていて、明らかに捕囚時代の影響が見られるのだそうです。面白いですね。

「四資料仮説」については、リチャード・エリオット・フリードマン『旧約聖書を推理する―本当は誰が書いたか』を読んで初めて知った時は、わたしも非常に驚きでした。もちろん「モーセが一人で書いた」という設定を完全に信じていたわけではないですが、これほどばらばらに資料が切り貼りされていたとは…と衝撃の一言でしたね。
わたしが一緒にバイブル・スタディをしたクリスチャン青年たちも、二つの創造物語が並置されている、というのに気づいていなかったですよ。牧師たちは神学部で学んでいるので、もちろん解説してくださいましたが…。矛盾した記述や内容に気づいても、どこかで聖書は「真実」であり絶対に「正しい」と思っているふしがあって、見落としてしまうか、意図的に矛盾に目をつぶってしまうのかもしれませんね。
だから、伝統的に「モーセが一人で書いた」説が本当に信じられていた時代に、初めてモーセ著者説に疑問を呈したユダヤ人の聖書学者アブラハム・イヴン・エズラ(12世紀)は、すごいと思います。ヨーロッパで聖書への批判的研究が行われるようになったのは、だいぶ後の19世紀です。

荒野の狼さんのご助言を受けて、二つの創造物語が並置されていること、次回に紹介することにしました。次回更新分もどうぞお楽しみくださいね!
mikaさん  
フリードマン『旧約聖書を推理する―本当は誰が書いたか』は面白そうですね。私は新約聖書の成り立ちについては、本などで勉強したことがありましたが、旧約の成り立ちについての議論は知識がなかっただけに勉強になりました。mikaさんの言われるように、私の友人の敬虔なクリスチャンには、聖書に書かれていることのすべてが真実であるとする人がおりました。その根拠として、聖書の中に、「聖書には何事も付け加えられないし、何事も取り去られることが将来的にもない(文言はうろ覚えです、苦笑。ですから聖書の中での引用箇所もあやふや)」と書かれているからであるとしていました。科学的には、自著が自著の内容の正確さを力説しても、それは何の証拠にもならないのですが、この一節だけで、聖書の内容に疑問をもってはいけないという立場をとっています。その一節が、仮に誤りだとしたら、すべての土台は崩れてしまうということには、目をつぶってしまうのです。

私は、書かれていることが思想・人生哲学として「真実」であれば、それが歴史的に「真実」であることより重要であると考えております。そこで、「偉大な小説は、フィクションなのだけれど、そこに書かれいるメッセージ(愛)は真実である。聖書も、書かれているメッセージが真実ならば、それが歴史的にあったことでも、なかったことでも、それは些末な問題なのでは」と、クリスチャンの友人に言ったこともありましたが、この部分は譲れないところであるという人もおりました。

そのようなわけで、私は、聖書を科学的に読む立場も、伝統的に読む立場も、内容を現代的・進歩的に解釈していく立場も、いずれにもリスペクトをおいて楽しんでおります。もっとも、どれも、読みかじった程度のものではありますが。聖書とヘブライ語については、カバラまで行くと、ちょっと行き過ぎかもと思って深く勉強したことはございません。ただ、イスラム教の理解にはアラビア語の理解が不可欠と言われますように、ヘブライ語の深い知識が聖書の理解を助けるというのは頷けます。ヘブライ語の重要性が強調されないのは、おそらく歴史的にキリスト教は、英語圏で発展を遂げ、英語を母国語とする人たちの誤ったプライド(英語の聖書はヘブライ語のものに劣らないといった)ものがあるのかもと、ふと思いました。

二つの創造物語の紹介をしていただけるとのこと、楽しみにしております。ただ、私のコメントはかなりユニークと思われますので、大部分は無視していただいて、mikaさんご自身と、ファンの皆さんが楽しめるように自由に執筆していただきたいと思っております。

荒野の狼