バイブル・スタディ・コーヒー ~スラスラ読める! 聖書入門

作者 mika

[歴史]

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バイブル・スタディの仲間たちの会話をちょっとだけ覗いてみてください。
寝ころんでスラスラ読める! 「物語」がわかれば、聖書は楽しい。
聖書を最初から最後まで読み通すのは大変です。途中でいやになってしまうことも珍しくないでしょう。
なんとなく難しそうでも、聖書のことばの向こうには、豊かな歴史と文化が広がっています。
どなたでも、実際に聖書を読んでみようというかたのお役に立てればうれしいです。


アイコンはTopeconHeroesダーヤマ様の「ダ鳥獣戯画」より使用させていただきました。

ファンレター

ソドムの滅亡/ソドムの罪は同性愛なの? LGBTの差別に現在も誤用される聖書

「バイブル・スタディ・コーヒー」、今回も大変勉強になりました。ひとつ提案ですが、今回が20話になりますが、各話の前に、「20話.  ソドムの滅亡/ソドムの罪は同性愛なの?」 としてはどうでしょうか。今後、話数を重ねると、たぶん、読者によっては、過去の話にもどったり、興味のある話だけを読んだりということがあると思うので、話数を題の前に書いておくと重宝であると思われます。ご考慮いただければ。

「20話(笑)」の「ソドムの滅亡は「異人歓待の掟」を破ったことへの裁き」であるというのが最新の神学者の一般的な解釈なのですね。私は、そもそも「異人歓待の掟」という視点で、この箇所を読んだことがありませんでしたが、調べてみると、ユダヤ教以外にも、この地方では異人を歓待するという風習があるとの話もありました。ソドム=同性愛という誤用は、私が暮らしていたアメリカでは、同性愛を禁じる法律が「sodomy laws ソドミー法」と呼ばれているくらいに浸透しておりました。ソドミー法は法律として残っていても、実際に適用されることは、現代ではさすがになくなったのが救いではありますが、同性愛の反対者には「キリスト教原理主義者」が多いです。しかし、きちんと聖書を読んでその原理を理解すれば、同性愛に反対ということにはならないので、「原理主義者」たちの理論の根拠の薄弱さは明らかではあります。しかし、ひとたび定着してしまったイメージといのは、なかなか拭い去ることが困難でありますので、今回の「バイブル・スタディ」は、ソドム=同性愛という概念がまだ定着していない日本で、その誤りを書かれているので大変重要であると考えます。他にも「マグダラのマリア=娼婦」とか、定着してしまった不正確な聖書のイメージを「バイブル・スタディ」が払拭してくれるのではと期待しています。

私は「バイブル・スタディ」を読むにあたって、以前、使っていた聖書関係の本を参照することが多くなりました。そのひとつがHeperCollins Bible Dictionaryという聖書の辞書です。「同性愛homosexuality」を検索しますと以下のような記載がありました。

“まず旧約・新訳聖書には同性愛にあたる概念がなく、英語でこれにあたる用語が19世紀を起源とする。同性愛に関わる行為に罪を与えるとしたものはレビ記(18:22)にあるが他所では記載は不明瞭。同性愛を戒めたとされる創世記のソドムの記載も(人間による天使にたいする)集団レイプのことであり、旧約聖書のエゼキエル書(16:49-50)でも「ソドム」は同性愛ではなく不道徳・不正義一般についての象徴として使われている。新訳聖書では、ユダの手紙の7節にソドムにおける「unnatural lust不自然な肉の欲」と言う記載があるが、これは同性愛に対することではなく、天使に対する人間の肉欲について述べていると解釈するのが適当。また、女性間の同性愛に関する記載は聖書にはない。”

私が持っている上記の聖書辞書は1996年発行の旧版で、2011年に出版されている最新版は持っておりません。ですから、「バイブル・スタディ」と比較して、まだ解釈が古いのかもと思っております。ですが、今回、「バイブル・スタディ」でも触れられていた「ユダの手紙」などについても書かれてあり、聖書をまた改めて、数ヵ所、読み直す、よい機会になりました。ちなみに、アメリカで常識のある人は、レビ記の一ヵ所だけを引用して現代に適用するのは誤りであるとしておりました。即ち、男性同士の行為を禁じた上記のレビ記18章の前の17章を守れば、レアでステーキは食べられませんし、20章によれば、生理中の女性と性行為を持つと男女ともに死罪になってしまうという具合です。

「18話(笑)アブラハムと三人の御使い」では、神の声がサラにも聞こえたという意味を考えておりました。この前後を読んでも、神はアブラハムの前にも姿は現しておらず、声だけが聞こえていたような印象を受けます。「神は、個々人の心の中にある」とする解釈をもってすれば、サラに神の声が聞こえたということは、サラの宗教心が深まってきたことのあらわれかもと思っています。この箇所では、「サラが神の声を笑ったことで、サラが否定的に書かれているなあ」と、今までは考えていたのですが、この部分は、いわば、サラが心のなかにいる神と自問自答して、自省にいたった描写と解釈することも可能かな、などと思いました

次回も楽しみにしております。

荒野の狼

返信(1)

荒野の狼さん、いつもお読みいただきありがとうございます。たしかに連載も順調に続き、だんだん長くなってまいりましたので、1話、2話、とカウントした方が分かりやすいですね。時間があるときに、修正したいと思います。いつも応援してくださり、感謝の気持ちでいっぱいです^^

来訪者を歓待したり、虐待したりすることで、幸運を得たり、不幸を招いたりする説話は世界各地に伝わっており、『創世記』18章から19章の物語も国際的に共通する類型に当てはまるものだと言えます。このタイプの説話の登場人物は、<来訪者>と<来訪者を歓待する者>と<来訪者を虐待する者>の三者です。『創世記』では、<来訪者=御使い>、<来訪者を歓待する者=アブラハム&ロト>、<来訪者を虐待する者=ソドムの男たち>が登場します。18章と19章のテーマは、神に届いた「叫び」が真実かどうか見定めるための御使い旅です。御使いの旅路において、アブラハムとロトは彼らを歓待し、ソドムの男たちは襲撃します。歓待したアブラハムは息子が生まれるという喜ばしい知らせを受け取り、ロトは助け出され、襲った男たちは神によって裁かれます。善因善果、悪因悪果のシンプルな応報譚だと思います。

同じ類型の説話は、日本の昔話では「大歳の客」や「蘇民将来」が有名ですね。「備後国風土記」の「蘇民将来」のお話は、武塔の神が嫁取りの旅の途中で一夜の宿を借りたが、村の兄弟のうち裕福な弟は宿を貸さず、貧しい兄・蘇民将来は宿を貸し、精一杯もてなした。数年後に再び蘇民将来の元を訪れた神は、茅の輪を腰の上につけるように命じ、その夜に村人全部をことごとく殺した。言いつけどおり、茅の輪をつけた蘇民将来の娘だけがただ一人助かった。
このお話では、来訪神を冷遇した者がことごとく殺され、来訪神を歓待した者も禁忌(言いつけ)を守らなかった者は同じ罰を受けています。来訪神を歓待し、言いつけも忠実に守った娘だけ生き残っています。
このお話は、ロトの妻が、御使いを歓待した側(幸運を得る側)であるにもかかわらず、ふり向いてはならないという言いつけを破って、塩の柱になった説話と通じるものがあります。
ロトの妻の話とよく似た昔話が韓国にあります。「長者池」と呼ばれる韓国に広く伝わっているお話では、僧が托鉢にやって来たとき、長者は牛糞を与えたが、嫁はひそかに米を与えた。僧は「この家にいると死んでしまうから、私についてきなさい。ただし絶対に後ろをふり向いてはいけない」と言った。嫁は赤ん坊を背負って家を出て、僧について行った。長者の家は罰を受けて、雷雨によって池に沈んでしまった。嫁は禁忌を破って後ろを振り向いたので、石になってしまった。
どうでしょうか? このお話のお嫁さんは、ロトの妻と同じような目に遭ってしまって、なんだか不憫ですよね。

ソドムの滅亡の物語は、18章と19章をセットで読めば、とてもわかりやすい「異人歓待/虐待」の説話だと思いますが、ここに後世の読者が「偶像崇拝」や「同性愛」という問題意識を持ちこんで読み解こうとしたので、現代人にとって非常にわかりにくい物語になってしまったように感じます。
お手持ちの聖書注解辞書で、ユダの手紙の「不自然な肉の欲」という言葉を「同性愛に対することではなく、天使に対する人間の肉欲」と解説しているのですね。今回、参考に挙げた「「ソドムの罪」は同性愛か : 「他の肉を追い求める」(ユダ7節)をめぐって」によれば、この箇所の解釈は大きく分けて、「①同性愛、②天使との性交、③偶像崇拝、④性的な意味ではない」と分類されるそうです。ちなみに岩波書店版の新約聖書では、この箇所は「男性同性愛」と注釈されているとのことです。なぜか、英語圏では「同性愛」と解釈する学者が多く、ドイツ語圏では「天使との性交」と解釈する学者が多いそうです。「同性愛」を支持する学者のほとんどは、その根拠を挙げておらず、なぜか自明な事として書いているそうです。
現代の注釈書で流布されている①と②の説は、「ユダの手紙」が書かれたとされる紀元1世紀頃では一般的な考え方ではなく、「不自然な肉の欲」に特に天使との性交や同性愛を読み取る必要はないそうです。「ユダの手紙」の執筆者は『エノク書』を前提に書いており、「堕天使たちと同じく」、ソドムの人々も性的不道徳、性的放縦にふけっていた、と考えるのが妥当なのだそうです。

『旧約聖書』の戒律をどの程度遵守するかは、時代によってまったく異なりますよね。割礼や食物規定に関して言えば、世界中のクリスチャンは全く戒律を守っていないし、守っていないことを「罪」だとは感じていません。しかし、同性愛を「罪」と決めつけるクリスチャンの多くは、レビ記を根拠に挙げます。同性愛を「罪」とする教会では、同性愛者に対して残酷に悔い改めを強要してきました。
わたしは、すべての人が神の似姿として創造され、誰もが尊厳を持って生きるに値するという考えを支持したいです。このすべての人の中に、もちろんLGBTQの人々が含まれます。

次回は、塩の柱になったロトの妻の話とロトの娘たちの話です。引き続きよろしくお願いいたします!