7月7日(水)彼女の視界
文字数 5,354文字
「吉野か朝倉、居るか?」
昼休み。カオルと一緒に弁当を広げていたユウは、聞き覚えのある声に顔を上げた。ナギサも気付いたのか、席を立って廊下に立つ声の主のほうへ歩いていく。
ユウもカオルに一言断ってから、廊下のシュウジのほうへ近づいた。
「どうかしました?」
先に廊下に出たユウが問いかけると、シュウジはB5の上質紙を差し出してくる。
「テスト明けから夏休み中の予定表が出来たんだ。失くすなよ」
そう言って、遅れて出てきたナギサにも同様に予定表を渡した。このクラスの弓道部員は、ユウとナギサの二人だけだ。あとはA組に三人、D組に一人いる。
早速予定表に目を通していたユウは、少し気になる記述を見つけて顔を上げた。シュウジのほうを見る。
「……先輩」
「ん?」
「この八月の大会って、俺も行くんですか?」
「え、行かないつもりだったの?」
意外そうに言ったのはナギサだ。対する彼女は行く気満々だったらしい。
ユウは彼女のほうを見て、「そりゃ吉野は行くだろうけどさ」と返す。
「俺は今月始めたばっかりで、まだ弓も持ったことないんだよ? エントリーできるわけないんだから、行くなら見学かマネージャーの手伝い……」
「え、お前もう選手で登録しちまったけど」
重ねられた言葉に、ユウはぴしりと固まった。石化か、そうでなければ凍結である。
指に妙な力が入り、予定表がぐしゃりと歪んだ。
「大丈夫だいじょーぶ、まだ一ヶ月あるし」
「せんぱぁい……」
気楽に笑うシュウジに、ユウは脱力する。
テスト明けからは、死ぬ気で練習しなければならないようだ。
◇
ユウは今日も、学校に残って勉強するつもりだった。
ナギサあたりは普段一緒に帰れない友人たちと一緒に帰り、ちょっと寄り道を楽しんだりするのだろう。あいにくユウには同じ方向に家があり、かつ帰りを共にするほど仲のいい友人はまだできていない。カオルの家は逆方向だった。
とりあえず八月の大会のことについては、カオルに愚痴って忘れることにした。
今考えても仕方のないことだし、シュウジが今更ユウのエントリーを取り消してくれるとも思えない。彼は楽天的なのだ。ユウにしてみれば絶望的なほどに。
毎日屋上の先輩たちのお世話になるのも気が引けたので、今日こそは図書室で勉強しようと考えていた。今日も騒がしいようであれば、そのときは仕方がないので教室に戻ろうと思う。
図書室の前に立つ。静かだった。
今日は大丈夫そうだ、と安堵して、ユウは目の前の戸を開ける。
「あれ、朝倉。いらっしゃい」
入ってすぐに横から声をかけられて、ユウは思わずそちらを見た。
カウンターに、眼鏡をかけた男子生徒が座っている。
一瞬誰だかわからなかったが、よくその顔を見れば、一昨日知り合った三浦アツシだった。カウンターに座っているところを見ると、今日は彼が当番らしい。
「三浦って目悪かったんだ?」
「いつもはコンタクトなんだけどね。細かい字を見るとか、目を酷使するようなときは、こっちのほうが楽だから」
アツシはそう言って、手にしているシャープペンを軽く持ち上げた。銀色のそれは、すらりと細いわりに重厚感がある。聞けば、使いやすさから製図用のものを愛用しているそうだ。
ユウがカウンターを覗くと、彼の前にはB5のノートが広げられていた。線の細い英文が、流れるような筆記体で綴 られている。
「そうだ、朝倉の図書カードできてるよ。これで貸し出し可能になったから」
「うーん、有り難いけど滅多に使わなそうだなあ。部活もあるしね」
ここに入ったのだって一昨日が初めてだった、とユウがぼやくと、アツシは特に気分を害した風でもなく肩をすくめた。
「ここの学校は、皆そんなもんみたいだよ。ここだってほら、誰もいないだろ? 朝倉が放課後最初のお客さん」
言われてユウが室内を見回してみれば、確かに彼とアツシ以外に人が居る様子はなかった。
「まあ、おかげで仕事がほとんどないから本は読み放題だし、こうして勉強してても問題ないんだけど」
「俺も今日は勉強しに来たんだ。家だと色々と騒がしいから」
「あ、分かる。車の音とか人の話し声とか気になるんだよね」
ユウは、折角だからとカウンターに近いテーブルに荷物を置いた。
教科書、ノート、筆記用具。昨日コウイチに教えてもらった物理から始めようと思う。バッグから必要なものを引っ張り出しながら、アツシがまだ勉強の手を止めていることを確認して口を開いた。
「話し声で思い出した。俺、昨日も来たんだけど、話し声が廊下にまで聞こえててさ。結局場所を変えたんだ」
おかげでコウイチとトワの二人と知り合えたし勉強も見てもらえたのだが、それは彼に話すことではないので省略した。
アツシは当然そんなユウの考えも知らず、昨日の当番が誰だかを確認して嫌そうな顔をする。
「……ああ、あの人ね。帰宅部だから当番に入ってるんだけど、元々立候補して図書委員になったわけじゃないらしいし。ちなみに明日もその人だから、来るのはやめたほうがいいよ。さすがに長谷川も来ない」
「マジですか」
「マジですよ。当番なら、水曜が僕で月曜と金曜が長谷川だから、その日なら静か」
「え、三人で回してるの? 前の学校は週一で二人ペアだったけど」
「それが普通だと思うよ。うちの学校は三年とか部活が忙しい人は外してるか、昼休みの当番なんだ」
アツシも、特にそのことに対して不満はないようだ。
話がひと段落し、お互い勉強に取り掛かろうとしたとき。タイミングを計ったように、図書室の戸が開く音がした。
「あれ、朝倉くん」
「長谷川さん」
毛先がゆるくウェーブを描く長い髪だけを床と垂直に垂らして、斜めに傾いたミキの顔がひょこっと現れた。次いでその傾きが戻り、彼女の全身が現れる。教科書は教室に置いてきていると容易に想像できる、軽そうなトートバッグを肩に掛けていた。
それを見て、アツシが呆れた口調でユウに言う。
「長谷川は火曜と木曜以外は毎日来るよ。僕もだけど、目的が違う。僕は図書室の本来の使い方をしに来ているけど、長谷川は例の先輩ウォッチング」
「ああ」
ユウが頷くと、ミキが途端に目を輝かせる。
「そうなのよ、屋上の先輩がバッチリ……って、何バラしてくれてんの三浦!」
(おお、ノリツッコミだ)
内心で感動したユウである。
アツシはミキの非難を完全にスルーして、いささか感心したように目を瞠 った。
「あれ、最近は屋上にいるの? 僕は三年の教室でも見てるのかと思ったけど」
「確かに教室も見えるけどね。……っていうか、何かアンタの口ぶりからすると、私がストーカーみたいじゃない?」
「似たようなもんでしょ」
ごん、と鈍い音。
「ぶん殴ったわよ」
「事後申告かよ」
漫才のようなやり取りに、ユウがくすりと笑った。それに気付いたのか、アツシとミキは揃ってユウを見る。
注目されていることにはすぐに気付き、ユウは思ったことを口に出した。
「仲いいんだね」
「断じて違います」
間髪入れずに否定したミキに笑みを向けて、「でもさ」とユウは更に続けた。
「結構付き合い長そうに見えたから」
「まあ、同じ中学だしね」
アツシが涼しい顔で答える。ミキはうんざりしたようにため息をついた。
彼女はそのまま、恐らくはいつもの定位置なのだろう窓際に歩いていく。視線の先は屋上だ。
ユウもそちらを見ると、ちょうどシュウジがコウイチに分厚い辞書の背で殴られているところだった。トワの姿が見えないが、時折細い手が、ジャージの袖と共に建物の陰から伸びてシュウジの頭を叩いている。ここからでは死角になって、姿が見えないだけだろう。
もう一度ミキの顔を見る。見えているのはユウと同じ、あの光景のはずだ。なのに彼女の両目は潤み、うっとりと屋上を見つめている。
「恋は盲目?」
ユウが何とはなしにアツシに言う。アツシは無言で首を振った。
「盲目って言うより、視野狭窄 。先輩しか見えてません」
「なるほど」
「ああやって黙って先輩見てるだけだから、気にしなければ邪魔にはならないと思うよ」
「そっか」
流石に喋りすぎたと反省して、ユウは物理の教科書を開く。
コウイチに言われて引いた蛍光グリーンのアンダーラインが、やたらと目についた。
◇
午後の四時半になったところで、ユウの携帯電話が鳴った。マナーモードにしてあったため、低く唸るだけだ。
誰だろうと思ってユウが携帯を取り出すと、『宗方シュウジ』と表示されている。
弓道部員は連絡網代わりに、全員で携帯の番号とメールアドレスを教え合っていた。チャットのほうが楽だと思うのだが、顧問がわからないからと却下されたそうだ。
「ちょっと、ごめん」
慌てたせいでガタッと音を立てて席を立ってしまい、こちらを見たアツシに一言謝る。彼は特に不快に思ったわけではないらしく、そのまま再びノートに目を落とした。
それを横目で見ながら、ユウは図書室を出て通話ボタンを押す。
「もしもし」
『あ、朝倉。お前今日は来ねえの?』
「毎日お世話になるのも悪いと思って、今日は図書室です」
『遠慮しなくていいって。お前いた方が、俺が集中砲火浴びずに済むんだから』
「ああ、さっき日高先輩に辞書で叩かれてましたね。見えてましたよ」
げ、とシュウジが電話の向こうで呻いた。あちらも屋上から校舎に入っているのか、声がわずかに反響して聞こえてくる。
(あ、そういえば……)
明日は図書室が使えそうにないということを思い出し、ユウはそっとシュウジを呼んだ。
「それじゃあ、明日お邪魔していいですか?」
『……ああ、遠慮しないでおいで』
「はいっ」
優しい声音に、思わず顔がほころんだ。頼れる先輩だと思ったらヤラレキャラで、かと思えばずいぶんと大人びた声を出す。シュウジという人間は、やはり年上の人なのだと改めて思う。
それから少し世間話をして、ユウは電話を切った。時刻を見れば、十分ほど話していたことになる。自分にしては長い電話だった。
(……名前で呼び合ってるってことは、やっぱり先輩たちも同じ中学だったりするのかな)
何となく疑問が浮かんだが、もう電話を切ってしまったし、この疑問の解消のためにこちらから掛け直すのも躊躇 われる。
とりあえず明日を楽しみにしようと、ユウは図書室の扉を開けた。
「お帰り」
「ただいま」
アツシは戻ってきたユウに気付いたが、ミキは微動だにしなかった。無駄に凄い集中力だな、と少々失礼なことを思いながら、ユウは自分の席に戻る。
ちらりと屋上を見ると、シュウジもまた校舎から屋上に出てきたところだった。こちらを見て、軽く手を振ってくる。
「え?」
ミキが驚いた様子で声を上げた。彼女からすれば知り合いでもないシュウジに手を振られる理由はないわけで、戸惑うのも当然だろう。
「弓道部の今の部長だよ、長谷川さん」
ユウがシュウジに手を振り返しながらミキに告げると、彼女はユウが手を振っているのを見て納得したようだった。
シュウジはコウイチに何か――恐らく今の行動の理由を問われているのだろうが、とぼけた顔をして笑っている。ユウがここにいることを教える気はないらしい。
「もしかしてさ、電話ってあの部長さんからだったの?」
「うん」
アツシの質問に、ユウは頷いた。用件までは言う必要がないし、彼も興味がないようだった。
時計を見れば四時四十五分。流石に閉館時間まで勉強する気力はないので、五時半あたりで切り上げるつもりだった。ちなみに昨日の屋上での勉強会も、同じくらいの時間に解散している。
目の前で開かれている、自分のノートに目を通す。物理はあと二ページ程度見直せば終わるから、その後で英語を少し復習しよう。そう考えて、ユウは改めてノートに目を落とした。
――数分ほど、静寂を挟んで。
するりと布が擦れる音がしたのでそちらを見ると、ミキがカウンターに頬杖をついてアツシのノートを覗いていた。
アツシも彼女の影が落ちて気付いたらしく、ふっと顔を上げる。
「どうしたの?」
「さっき部長さんに手振られて、それでも屋上見つめてたら怪しい人じゃないの」
「それに関しては手遅れだと思うな」
ぺし、と間抜けな音を立ててミキの平手がアツシの頭頂部にヒットした。
「俺、悪いことしちゃったかな。部長に気付かれちゃって」
「別に気にしないでいいよ。今日は私もあからさまに見てたからさ、そろそろ止めないと本気で怪しまれるし」
「いつもは?」
「窓際の席で、本読んでるフリしてる」
一昨日知り合ったときに、開かれた本を持っていたのはそういうことか。ユウは納得しながら物理の教科書とノートをバッグに戻し、英語のノートと辞書を取り出した。
「あ、B組って英語どこまで進んだ?」
ユウが取り出した辞書に気付いて、アツシが聞いてくる。ユウは自分のノートを見て確認した。
「プログラム3がそろそろ終わるよ。ほら、イギリスの写真家の話」
「ああ、じゃあ範囲は縮まんないか。うちは4に入ってるし。予習まだならノート見せようか?」
アツシの好意に喜んでノートを借りたユウだが、彼が達者な筆記体を使っていることをすっかり失念していた。
結局、所々に書き込んである補足は意味が分からなかったので、和訳だけを写させてもらった。
昼休み。カオルと一緒に弁当を広げていたユウは、聞き覚えのある声に顔を上げた。ナギサも気付いたのか、席を立って廊下に立つ声の主のほうへ歩いていく。
ユウもカオルに一言断ってから、廊下のシュウジのほうへ近づいた。
「どうかしました?」
先に廊下に出たユウが問いかけると、シュウジはB5の上質紙を差し出してくる。
「テスト明けから夏休み中の予定表が出来たんだ。失くすなよ」
そう言って、遅れて出てきたナギサにも同様に予定表を渡した。このクラスの弓道部員は、ユウとナギサの二人だけだ。あとはA組に三人、D組に一人いる。
早速予定表に目を通していたユウは、少し気になる記述を見つけて顔を上げた。シュウジのほうを見る。
「……先輩」
「ん?」
「この八月の大会って、俺も行くんですか?」
「え、行かないつもりだったの?」
意外そうに言ったのはナギサだ。対する彼女は行く気満々だったらしい。
ユウは彼女のほうを見て、「そりゃ吉野は行くだろうけどさ」と返す。
「俺は今月始めたばっかりで、まだ弓も持ったことないんだよ? エントリーできるわけないんだから、行くなら見学かマネージャーの手伝い……」
「え、お前もう選手で登録しちまったけど」
重ねられた言葉に、ユウはぴしりと固まった。石化か、そうでなければ凍結である。
指に妙な力が入り、予定表がぐしゃりと歪んだ。
「大丈夫だいじょーぶ、まだ一ヶ月あるし」
「せんぱぁい……」
気楽に笑うシュウジに、ユウは脱力する。
テスト明けからは、死ぬ気で練習しなければならないようだ。
◇
ユウは今日も、学校に残って勉強するつもりだった。
ナギサあたりは普段一緒に帰れない友人たちと一緒に帰り、ちょっと寄り道を楽しんだりするのだろう。あいにくユウには同じ方向に家があり、かつ帰りを共にするほど仲のいい友人はまだできていない。カオルの家は逆方向だった。
とりあえず八月の大会のことについては、カオルに愚痴って忘れることにした。
今考えても仕方のないことだし、シュウジが今更ユウのエントリーを取り消してくれるとも思えない。彼は楽天的なのだ。ユウにしてみれば絶望的なほどに。
毎日屋上の先輩たちのお世話になるのも気が引けたので、今日こそは図書室で勉強しようと考えていた。今日も騒がしいようであれば、そのときは仕方がないので教室に戻ろうと思う。
図書室の前に立つ。静かだった。
今日は大丈夫そうだ、と安堵して、ユウは目の前の戸を開ける。
「あれ、朝倉。いらっしゃい」
入ってすぐに横から声をかけられて、ユウは思わずそちらを見た。
カウンターに、眼鏡をかけた男子生徒が座っている。
一瞬誰だかわからなかったが、よくその顔を見れば、一昨日知り合った三浦アツシだった。カウンターに座っているところを見ると、今日は彼が当番らしい。
「三浦って目悪かったんだ?」
「いつもはコンタクトなんだけどね。細かい字を見るとか、目を酷使するようなときは、こっちのほうが楽だから」
アツシはそう言って、手にしているシャープペンを軽く持ち上げた。銀色のそれは、すらりと細いわりに重厚感がある。聞けば、使いやすさから製図用のものを愛用しているそうだ。
ユウがカウンターを覗くと、彼の前にはB5のノートが広げられていた。線の細い英文が、流れるような筆記体で
「そうだ、朝倉の図書カードできてるよ。これで貸し出し可能になったから」
「うーん、有り難いけど滅多に使わなそうだなあ。部活もあるしね」
ここに入ったのだって一昨日が初めてだった、とユウがぼやくと、アツシは特に気分を害した風でもなく肩をすくめた。
「ここの学校は、皆そんなもんみたいだよ。ここだってほら、誰もいないだろ? 朝倉が放課後最初のお客さん」
言われてユウが室内を見回してみれば、確かに彼とアツシ以外に人が居る様子はなかった。
「まあ、おかげで仕事がほとんどないから本は読み放題だし、こうして勉強してても問題ないんだけど」
「俺も今日は勉強しに来たんだ。家だと色々と騒がしいから」
「あ、分かる。車の音とか人の話し声とか気になるんだよね」
ユウは、折角だからとカウンターに近いテーブルに荷物を置いた。
教科書、ノート、筆記用具。昨日コウイチに教えてもらった物理から始めようと思う。バッグから必要なものを引っ張り出しながら、アツシがまだ勉強の手を止めていることを確認して口を開いた。
「話し声で思い出した。俺、昨日も来たんだけど、話し声が廊下にまで聞こえててさ。結局場所を変えたんだ」
おかげでコウイチとトワの二人と知り合えたし勉強も見てもらえたのだが、それは彼に話すことではないので省略した。
アツシは当然そんなユウの考えも知らず、昨日の当番が誰だかを確認して嫌そうな顔をする。
「……ああ、あの人ね。帰宅部だから当番に入ってるんだけど、元々立候補して図書委員になったわけじゃないらしいし。ちなみに明日もその人だから、来るのはやめたほうがいいよ。さすがに長谷川も来ない」
「マジですか」
「マジですよ。当番なら、水曜が僕で月曜と金曜が長谷川だから、その日なら静か」
「え、三人で回してるの? 前の学校は週一で二人ペアだったけど」
「それが普通だと思うよ。うちの学校は三年とか部活が忙しい人は外してるか、昼休みの当番なんだ」
アツシも、特にそのことに対して不満はないようだ。
話がひと段落し、お互い勉強に取り掛かろうとしたとき。タイミングを計ったように、図書室の戸が開く音がした。
「あれ、朝倉くん」
「長谷川さん」
毛先がゆるくウェーブを描く長い髪だけを床と垂直に垂らして、斜めに傾いたミキの顔がひょこっと現れた。次いでその傾きが戻り、彼女の全身が現れる。教科書は教室に置いてきていると容易に想像できる、軽そうなトートバッグを肩に掛けていた。
それを見て、アツシが呆れた口調でユウに言う。
「長谷川は火曜と木曜以外は毎日来るよ。僕もだけど、目的が違う。僕は図書室の本来の使い方をしに来ているけど、長谷川は例の先輩ウォッチング」
「ああ」
ユウが頷くと、ミキが途端に目を輝かせる。
「そうなのよ、屋上の先輩がバッチリ……って、何バラしてくれてんの三浦!」
(おお、ノリツッコミだ)
内心で感動したユウである。
アツシはミキの非難を完全にスルーして、いささか感心したように目を
「あれ、最近は屋上にいるの? 僕は三年の教室でも見てるのかと思ったけど」
「確かに教室も見えるけどね。……っていうか、何かアンタの口ぶりからすると、私がストーカーみたいじゃない?」
「似たようなもんでしょ」
ごん、と鈍い音。
「ぶん殴ったわよ」
「事後申告かよ」
漫才のようなやり取りに、ユウがくすりと笑った。それに気付いたのか、アツシとミキは揃ってユウを見る。
注目されていることにはすぐに気付き、ユウは思ったことを口に出した。
「仲いいんだね」
「断じて違います」
間髪入れずに否定したミキに笑みを向けて、「でもさ」とユウは更に続けた。
「結構付き合い長そうに見えたから」
「まあ、同じ中学だしね」
アツシが涼しい顔で答える。ミキはうんざりしたようにため息をついた。
彼女はそのまま、恐らくはいつもの定位置なのだろう窓際に歩いていく。視線の先は屋上だ。
ユウもそちらを見ると、ちょうどシュウジがコウイチに分厚い辞書の背で殴られているところだった。トワの姿が見えないが、時折細い手が、ジャージの袖と共に建物の陰から伸びてシュウジの頭を叩いている。ここからでは死角になって、姿が見えないだけだろう。
もう一度ミキの顔を見る。見えているのはユウと同じ、あの光景のはずだ。なのに彼女の両目は潤み、うっとりと屋上を見つめている。
「恋は盲目?」
ユウが何とはなしにアツシに言う。アツシは無言で首を振った。
「盲目って言うより、視野
「なるほど」
「ああやって黙って先輩見てるだけだから、気にしなければ邪魔にはならないと思うよ」
「そっか」
流石に喋りすぎたと反省して、ユウは物理の教科書を開く。
コウイチに言われて引いた蛍光グリーンのアンダーラインが、やたらと目についた。
◇
午後の四時半になったところで、ユウの携帯電話が鳴った。マナーモードにしてあったため、低く唸るだけだ。
誰だろうと思ってユウが携帯を取り出すと、『宗方シュウジ』と表示されている。
弓道部員は連絡網代わりに、全員で携帯の番号とメールアドレスを教え合っていた。チャットのほうが楽だと思うのだが、顧問がわからないからと却下されたそうだ。
「ちょっと、ごめん」
慌てたせいでガタッと音を立てて席を立ってしまい、こちらを見たアツシに一言謝る。彼は特に不快に思ったわけではないらしく、そのまま再びノートに目を落とした。
それを横目で見ながら、ユウは図書室を出て通話ボタンを押す。
「もしもし」
『あ、朝倉。お前今日は来ねえの?』
「毎日お世話になるのも悪いと思って、今日は図書室です」
『遠慮しなくていいって。お前いた方が、俺が集中砲火浴びずに済むんだから』
「ああ、さっき日高先輩に辞書で叩かれてましたね。見えてましたよ」
げ、とシュウジが電話の向こうで呻いた。あちらも屋上から校舎に入っているのか、声がわずかに反響して聞こえてくる。
(あ、そういえば……)
明日は図書室が使えそうにないということを思い出し、ユウはそっとシュウジを呼んだ。
「それじゃあ、明日お邪魔していいですか?」
『……ああ、遠慮しないでおいで』
「はいっ」
優しい声音に、思わず顔がほころんだ。頼れる先輩だと思ったらヤラレキャラで、かと思えばずいぶんと大人びた声を出す。シュウジという人間は、やはり年上の人なのだと改めて思う。
それから少し世間話をして、ユウは電話を切った。時刻を見れば、十分ほど話していたことになる。自分にしては長い電話だった。
(……名前で呼び合ってるってことは、やっぱり先輩たちも同じ中学だったりするのかな)
何となく疑問が浮かんだが、もう電話を切ってしまったし、この疑問の解消のためにこちらから掛け直すのも
とりあえず明日を楽しみにしようと、ユウは図書室の扉を開けた。
「お帰り」
「ただいま」
アツシは戻ってきたユウに気付いたが、ミキは微動だにしなかった。無駄に凄い集中力だな、と少々失礼なことを思いながら、ユウは自分の席に戻る。
ちらりと屋上を見ると、シュウジもまた校舎から屋上に出てきたところだった。こちらを見て、軽く手を振ってくる。
「え?」
ミキが驚いた様子で声を上げた。彼女からすれば知り合いでもないシュウジに手を振られる理由はないわけで、戸惑うのも当然だろう。
「弓道部の今の部長だよ、長谷川さん」
ユウがシュウジに手を振り返しながらミキに告げると、彼女はユウが手を振っているのを見て納得したようだった。
シュウジはコウイチに何か――恐らく今の行動の理由を問われているのだろうが、とぼけた顔をして笑っている。ユウがここにいることを教える気はないらしい。
「もしかしてさ、電話ってあの部長さんからだったの?」
「うん」
アツシの質問に、ユウは頷いた。用件までは言う必要がないし、彼も興味がないようだった。
時計を見れば四時四十五分。流石に閉館時間まで勉強する気力はないので、五時半あたりで切り上げるつもりだった。ちなみに昨日の屋上での勉強会も、同じくらいの時間に解散している。
目の前で開かれている、自分のノートに目を通す。物理はあと二ページ程度見直せば終わるから、その後で英語を少し復習しよう。そう考えて、ユウは改めてノートに目を落とした。
――数分ほど、静寂を挟んで。
するりと布が擦れる音がしたのでそちらを見ると、ミキがカウンターに頬杖をついてアツシのノートを覗いていた。
アツシも彼女の影が落ちて気付いたらしく、ふっと顔を上げる。
「どうしたの?」
「さっき部長さんに手振られて、それでも屋上見つめてたら怪しい人じゃないの」
「それに関しては手遅れだと思うな」
ぺし、と間抜けな音を立ててミキの平手がアツシの頭頂部にヒットした。
「俺、悪いことしちゃったかな。部長に気付かれちゃって」
「別に気にしないでいいよ。今日は私もあからさまに見てたからさ、そろそろ止めないと本気で怪しまれるし」
「いつもは?」
「窓際の席で、本読んでるフリしてる」
一昨日知り合ったときに、開かれた本を持っていたのはそういうことか。ユウは納得しながら物理の教科書とノートをバッグに戻し、英語のノートと辞書を取り出した。
「あ、B組って英語どこまで進んだ?」
ユウが取り出した辞書に気付いて、アツシが聞いてくる。ユウは自分のノートを見て確認した。
「プログラム3がそろそろ終わるよ。ほら、イギリスの写真家の話」
「ああ、じゃあ範囲は縮まんないか。うちは4に入ってるし。予習まだならノート見せようか?」
アツシの好意に喜んでノートを借りたユウだが、彼が達者な筆記体を使っていることをすっかり失念していた。
結局、所々に書き込んである補足は意味が分からなかったので、和訳だけを写させてもらった。