7月5日(月)図書室の住人

文字数 5,246文字

 夏真っ盛りには少しばかり早い、七月のはじめ。

 目に映る空は、腹が立つほどに涼しげな水色をしていた。その上には白い雲が、青とのコントラストを強調せんとばかりにぽんぽんと置かれている。
 青には冷たいイメージがあるっていうけどあれは嘘だ、と朝倉ユウは心中で断言した。いくら今が早朝でも、暑いものは暑い。
 ひび割れたノイズが、絶えず鼓膜を震わせている。うるさいなと顔をしかめて、それが蝉の鳴き声だと今更ながらに気付く。どうやら暑さで頭がまともに機能していないらしい。

「あっつ……」

 だから、そんな弱音だって声に出てしまう。
 半分以上ポリエステルで出来ているワイシャツは、いくら半袖であろうとも通気性が悪い。できることならこんな服は脱ぎ捨てて、中に着ているTシャツだけで登校してしまいたい。
 ……昼まで持つかな、俺。
 そんなことを考えながら歩いていると、後ろから軽く肩を叩かれた。

「だっらしないよ朝倉! ああもう姿勢から歩き方から髪の毛から全てがだらしない! あとおはよう!」
「何でそんなに元気なんだ、お前……」

 ユウは力なく後ろを振り向き、この時間、この暑さに負けず元気なその人物を視界に入れる。
 クラスメイトであり部活メイトでもある吉野ナギサは、ユウの反語表現に対して「女は度胸!」と関係ない上に間違った慣用句を言い放った。

 ユウは、六月半ばに編入してきた。通りのいい言葉で言うなら『転校生』だ。
 転校の理由は親の仕事の都合というごくありふれたものであったが、本人にしてみればたまったものではない。必死こいて受験勉強を乗り切り、どうにか志望校に合格したと思ったら、入学して二ヵ月ちょっとでその学校を去らなければならなくなってしまったのだ。彼自身それを知ったとき、どれだけ父の勤める会社に放火でもしてやりたかったか。

 それに対し、ナギサはクラス委員であった。
 転校初日、彼に真っ先に声を掛けたクラスメイトが彼女――というわけではないが、クラス委員の仕事として校舎を案内したのは彼女だった。
 そして現在、ナギサの誘いもあって、ユウは彼女と共に弓道部に所属している。これから二人には、弓道場での朝練が待っているのだ。

「吉野、いま何分?」
「七時十二分だけど」
「あー……時間ないか。コンビニで涼んでこうと思ったのに」
「弓道場だって涼しいよ! ……きっと」
「百歩譲って涼しかったとしても、朝練やってるうちに暑くなるに一票」
「だったら尚更さっさと学校行って日陰にありつこうよ」
「それもそうだな。さっさと歩くか……」

 だいたいこんな流れで、彼と彼女は毎日一緒に登校する。


 ◇


「おし、んじゃ解散ー!」

 弓道部部長の号令に「お疲れ様でしたー!」と全員で返し、朝練は終了した。
 ユウがこの弓道部に所属してから、まだ半月と経っていない。とりあえず今はまだ弓矢を使わず、基礎トレーニングと基本的な姿勢を訓練されている。ナギサたち四月からいた連中は、既に的めがけて弓を射っていた。

 ……それにしても。
 朝練終了直後の弓道場は、集まった部員の体温で暑いことこの上ない。恐らく外の気温も上がっているだろう、朝から昼にかけて気温が上がるのはごく自然な現象だ。
 全面板張りの床は多少暑さを軽減してくれるのではないか、とユウは思っていたが、それは甘い考えであったらしい。運動して発熱している弓道部員たちの熱エネルギーは、築三十年の道場にはいささか荷が重すぎたようだ。

「あーさーくーらー! 聞いて聞いていま自販でジュース買ったら当たりが出て」
「わかったから耳元でわめくなー!」

 着替えを終えたユウが制汗スプレーを探してバッグを探っていると、弓道場の入口から突進してきたナギサが、彼に叫んだ。耳元で。
 あまりの大声に、道場中の視線が彼らに集まる。が、大声の原因を認めた途端に興味をなくし、それぞれの用事に意識を戻してしまった。どうやら既に日常茶飯事とされてしまっているらしい。
 それでも羞恥心が無いわけではないので、ユウはナギサを道場の外へ引きずり出した。外なら道場ほど声は響かない。

「吉野、お前には恥ってもんがないのか?」

 ダレたくなるような暑い日にここまで元気だと更に暑苦しい、とユウが続けようとしたところ。

「朝から元気だなあ、お前ら」

 微笑ましそうでいて且つ呆れたような様子で、先に外に出ていた男子生徒が横手から声をかけてきた。
 二人はほぼ同時に男子生徒の顔を見上げる。ユウが小柄でナギサがそれより小さい所為もあるだろうが、彼らよりも頭ひとつ分ほど、その人は背が高い。

「先輩、『ら』は余計です。元気なのは吉野だけ」
「それに付き合ってるお前も十分元気だよ」

 ユウの反論も柳に風と受け流し、弓道部部長である宗方シュウジは苦笑する。
 シュウジはユウたちのひとつ上、二年生だ。三年生は六月にあった大会で引退してしまっている。ユウの入部とは入れ違いになってしまった。受験勉強が忙しいのだろう、引退した彼らが部活に顔を出しているのをユウは見たことがなかった。

「先輩ー、朝倉ー、続き話していい?」
「続けるのかよ……」

 めげないナギサにユウはげんなりし、シュウジは再び苦笑いを零す。
 丁度、強めの風が吹いた。母親譲りの猫っ毛が目の前に流れてきて、ユウは思わず目を瞑る。彼が目を開くと、肩で揃えた髪がかき回されたナギサは大あわてで髪型をまとめなおしていた。シュウジは元々硬質な髪を短く刈ってあるせいか、髪型はほとんど乱れていない。ただ、風の涼しさに目を細めていた。

「じゃあ俺は先に行くな。遅刻すんなよお前ら」
「はーい」
「お疲れでしたー!」

 ユウの張り上げた大声に三度苦笑して、シュウジは二人の前から歩き去った。



 ホームルームの時間が迫っていることもあり、ユウとナギサが一年B組の教室に着いたときには、既にほとんどのクラスメイトが室内にいた。まだ来ていないのは遅刻確定か、もしくは二人と同じように朝練がある人間くらいだろう。
 時計を見ると、既に予鈴は鳴った後らしい。急いで自分の席に座ったユウの机に、ふっと淡い影が落ちた。

「朝倉」

 呼ばれて顔を上げると、転校初日に真っ先に声をかけてきたクラスメイト、高崎カオルの顔があった。片手に一枚のCDを手にしている。

「おはよ。ギリギリだな」
「うん。朝練の後で、吉野が急に暴れだしてね」

 つい先ほどの出来事を少々誇張して話してみれば、カオルは薄茶色の髪を揺らして笑い、そっと離れた席に座るナギサを見た。彼女は彼女でクラスメイトと話しており、こちらの状況などは気付いてもいない。
 彼はユウの机の上に、手にしていたCDをそっと置いた。

「これ、この間話したバンドの。返すのはいつでもいいから聴いてみろよ」
「うん。今度俺も何か貸すよ」
「期待してる」

 この学校でユウが頻繁に話すのは、ナギサとこのカオルだった。
 カオルは髪を染めている所為か、一見すると軽薄な人間に見える。しかし実際に接してみて、とても穏やかな性格だとわかった。見目もよく音楽活動でもやっていそうな外見だが、意外なことに音楽は聞くほう専門だという。不思議と趣味が合うことも手伝って、ユウとカオルはひと月も経たないうちに昼食まで共にする仲になっていた。

「あ、やべ」

 黒板の方を見て、カオルが慌ててユウの席を離れていく。ユウが前を見ると、担任の老教師が教壇に登っているところだった。


 ◇


 六時間の授業と帰りのホームルームを終えて、さあ部活に行こうと席を立ったところでユウは違和感を感じた。いつもならこのタイミングで、ナギサが声を掛けてくるはずなのだ。
 思わず彼女の席に視線を向けたが、当のナギサはいない。そこで世話好きな彼女がクラス委員だということを思い出し、何か用事があるのだろうかとも思った。しかしそれなら前もって、ユウに部活に遅れる旨を伝言するように頼んでくるはずだ。
 ――と、思考を一回転させて。

(今日から、テスト期間じゃん)

 期末考査の一週間前……つまり、今日から部活動禁止期間に入ったことに気がついた。
 朝練があったから忘れていた。こちらは三日前まで許可されている。
 内心で自分の間抜けさにため息をつきながら、ユウがバッグを肩に掛けようとしたとき、担任の老教師が教室に入ってきた。

「おお、朝倉君。ちょうど良かった」

 朗らかに笑った初老の男性の手元を見て、ユウは嫌な予感に襲われた。教師の手と教卓の間に、分厚い辞書が六冊ほど積まれている。

「この本を図書室に返しておいてくれんか。なに、図書委員に渡してくれればいい」

 そして、その予感は二秒で現実のものとなった。


 ◇


 図書室に入ってすぐ横手にある貸し出しカウンターは、何故か無人だった。
 普通図書委員はここに居るものではないか、とユウは首をかしげる。
(もしかして棚の整理でもしてるのかな)
 カウンターに運んできた辞書を置きながら、彼は図書室をぐるりと見渡した。それにしても人がいない。
 どうしたものかと考えていると、おとなしそうな男子生徒がこちらへ近づいてきた。この学校は学年で上履きの色が違うらしく、彼の履いているそれはユウと同じカラーリングだった。つまり、同じ一年生だ。見たことのない顔をしているから、別のクラスだろう。

「……それ、返すの?」

 その男子生徒は、抑揚の無い声で静かに問うてきた。

「うん、そう頼まれたんだけど……。ここに置いていって平気かな? 俺、よく知らないんだけど」
「禁帯出だから……これは確認しなきゃダメ。ちょっと待ってて」

 辞書の背表紙を確認すると、そう言って彼は窓際に歩いていった。
 彼の動きにつられてユウがそちらに目を向けると、手に開かれた本を持った髪の長い女子生徒がひとり外を見ている。こちらも一年生のようだ。
 彼女は本を手にしていながら全く読んでいる様子がない。それをユウは不思議に思った。

「長谷川、仕事」

 彼が端的に告げると、長谷川と呼ばれた彼女は面倒そうに彼のほうを振り向いた。吊り目だからか、少々きつい印象を受ける顔立ちだ。しかし彼女はユウの姿を目にすると、その場に本を置いて慌ててカウンターに歩いてきた。

「気づかなくてごめんなさいね。……っていうか、三浦。あんたがやってくれてもいいじゃない」

 彼女は申し訳なさそうにユウにそう言って、それから男子生徒をジト目で睨む。

「今日の当番は長谷川じゃないか」

 大して三浦というらしい彼は、呆れたように半眼になって彼女を見た。どうやらこの二人は、両方とも図書委員らしい。
 長谷川のほうはカウンターに入り、なにやら書類を取り出してあちこちに記入している。
 三浦のほうは勝手知ったるなんとやらといった様子で、おそらくは貸し出しの手続きをこなしている。ユウが彼の手元を見れば、数冊の文庫本があった。

「……はい。ここにクラスと名前を書いてくれる?」
「あ、うん」

 長谷川の指先の示すスペースにユウがクラスと名前を記入すると、彼女は目をパチリとさせてこちらを見た。

「B組の朝倉くん……って、もしかして転校生の人?」
「ああ、うん。そうだけど」

 ユウが答えると、彼女はすこし声を弾ませた。

「弓道部に入ったんでしょ? 日高先輩、って知らない?」
「ひだか……」

 おうむ返しに呟いて、ユウは沈黙する。
 長谷川が先輩と呼ぶからには、二年生か三年生だろう。ユウ自身、部員の顔と名前は出来るだけ急いで頭に叩き込んだが、日高という苗字の上級生は記憶にない。

「ひょっとして、今三年生かな。俺は引退した後に入ったから……」
「……そっか、もう引退しちゃったのか」

 三年生なら、ユウも面識がないので分からない。予想通り、その日高先輩とやらは三年生だったらしく、長谷川は少しだけ残念そうな顔をした。
 手続きを終えた三浦が、ボールペンをペン立てに放り込みながら口を開く。

「君、二言目にはそれだよね」
「うっさい三浦。あ、私C組の長谷川ミキっていうの。よろしくね」

 長谷川ミキは、ユウに向けてにっこりと笑った。腰まである長い髪が、彼女の顔の動きに合わせて揺れた。

「俺は朝倉ユウ。じゃあね、長谷川さん」

 ユウも笑い返して、ちょうど荷物をまとめ終えていた三浦と共に図書室を出た。



「まったく……」

 仕方ないな、と呟きながら、三浦は今しがた閉めた戸を見やった。

「……弓道部の日高先輩が好きなんだそうだよ、彼女。いきなり君に自己紹介したのは、ちょっとでも関わりたいファン心理ってやつだね」

 彼もこれから帰りだというので、二人で廊下を並んで歩く。
 三浦は声にも表情にも抑揚がなく、無口そうだとユウは思っていたが、なかなかよく喋るようだ。
「ついでに僕も自己紹介しておこうか。C組の三浦アツシ。体育は合同だろうし、よろしく」
「うん、よろしく」

 ついででも何でも、知り合いが増えるのは心強い。
 思ったよりもとっつき易そうなアツシに、実は少しだけ緊張していたユウは、内心で安堵しながら頷いた。
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