7月10日(土)目を醒ますための儀式

文字数 5,457文字

 週休二日制はどこに行った、とユウは数学の授業を受けながら内心で愚痴った。

 私立ならまだ納得がいくが、ここは公立高校のはずだ。土曜日は休みではなかったか。そんなユウの抗議に、カオルは「公開授業だってさ」と遠い目をして言った。

 公開授業。地域や父兄の皆様に、自由に授業風景を見てもらうという、授業参観の発展のようなイベントだ。ただ、いくら土曜日とはいえ大人達だって暇ではない。現に今現在、ユウたちの授業を見学している部外者など一人もいなかった。
 幸いなのは、授業があるのが午前だけということだ。まあ、授業がある時点で幸いもなにもあったものではないのだが。

(……今日も勉強なしでいいや)

 休みが潰されたショックは大きい。こんな気分で、自主勉強なんかする気にはなれなかった。


 ◇


「朝倉」

 帰りのホームルームが終わった直後。カオルがユウの席に近づいてきた。

「なに?」

 教室は座席から解放された生徒たちの愚痴やら談笑やらでざわめいている。ユウは自分の声がそれらにかき消されずにカオルに届くよう、加減して声を張り上げた。
 声はカオルにきちんと届いたらしく、彼はニッと笑ってユウの机に片手をつく。

「この後ヒマ? 昼飯ついでに駅前で遊ぼうかと思ってるんだけど」
「あ、いいね。この辺まだ詳しくないんだ、いつもは部活で遅くなって寄り道どころじゃないし」
「よしよし、案内してやろうじゃないか」

 自席に残した荷物を取りに、カオルが離れていく。ユウも急いで荷物をまとめ、スポーツバッグを肩に掛けた。
 その背をナギサが物言いたげに見つめていたのだが、ユウはそれに気付かずに、ショルダーバッグを肩に掛けて戻ってきたカオルを迎える。

「先に昼飯がいいなあ」
「ファミレスでいいなら、クーポンあるぞ」
「いくらくらいになる?」
「ドリンクバーつきのセットで五百五十円ってとこかな」

 カオルがバッグの中から財布を取り出し、チラシを切り取ったような紙切れをユウに見せてきた。実際、チラシについていたクーポン券なのだろう。
 ユウはバッグから財布を取り出し、中身を確認する。

「……うん、大丈夫。予算範囲内」
「よし」

 昼食後どうするかは食べながら決めようということにして、二人は教室を出る。
 先に廊下に出たカオルが、一瞬だけユウの後方に目をやった。ニヤリと冷笑に近い笑みをそちらに投げかけて、すぐに前を向いてしまう。

「高崎? どうしたの?」

 不思議に思ったユウが問いかけると、カオルは瞬時にいつもの気さくな笑顔を向けてきた。

「いーや、何にも?」
「でも、何か今……」
「いや俺ってちょっと見えちゃいけないモンが見える性質(タチ)でね」
「って何が居るんだよ?!」

 彼はサラリと、顔色ひとつ変えずにとんでもないことを言う。わずかに顔を青くして、ユウは逃げるように早足で廊下を歩いていった。苦笑いしながらその背を追うカオル。

 二人が出て行ったあとの教室では、冷笑を向けられたナギサが凍りついたように固まっていた。



 ユウがカオルを置き去りにして階段まで歩いていくと、見知った人物が上ってくるのに気がついた。

「あ、今日は三浦の日なんだ」
「人を勝手に記念日にしないでくれるかな」

 階段の手前で立ち止まり、上ってきたアツシに話しかける。本日の当番らしい彼の手には、図書室の鍵が握られていた。
 うっかり置いてきてしまったカオルがバタバタと音を立てて追いついてくるのを耳で確かめながら、ユウはアツシの抗議を軽く笑って受け流し、その横を抜ける。

「ごくろうさま」
「部活始まっても、たまには遊びにおいで」
「うん」

 実際に部活が始まるのは、試験最終日である来週の水曜からだとユウは記憶していた。階段を慎重に下りながら、首だけ階上のアツシに向けて口を開く。

「月曜辺りに、もう一回顔出すと思う」
「そう」

 アツシも薄く笑って、二人はお互いに背を向けた。
 ユウが三階の床を踏んだと同時、カオルが追いつき隣に並ぶ。

「部活仲間?」
「ううん、C組の図書委員さん。の片割れ」
「へー」

 カオルの質問に答えて、ユウは階段の三段目から踊り場の床に飛び降りた。


 ◇


 本館、三階。
 三年の教室が並ぶ廊下で、コウイチは困ったようにため息をついた。

 その手には、シンプルな白の封筒がひとつ。すべすべとした表面に、十代の女の子特有の丸っこい文字で自分への宛名が書かれている。今朝、登校してきたときに、下駄箱に入っていたものだ。

『突然のお手紙、失礼いたします』という慎ましい挨拶から始まる文面には、大きく分けて三つ――送り主が自分に好意を持っていること、自分にその気があれば付き合いたいということ、もしその気がないのであれば、この手紙は無視していいこと――が書かれていた。ちなみに、その気があるなら放課後に図書室に来てほしい、とも書かれている。

(まあ、人目につかないといえばつかないけどな……)

 この学校では図書室は人気がない。部活動が活発なせいで、昼休みはともかく放課後に図書室を利用する人間など皆無に等しいのだ。
 そういえば火曜日に顔を合わせた一年生は図書室で勉強することがあったな、と思い出して、逸れた思考を引き戻す。

 手紙を見る限り、嫌悪感はない。コウイチはいわゆるギャル文字などの『乱れた日本語』が大嫌いな人種だった。ある程度崩れてしまうのは世の中の流れだと納得できるが、余り乱れた言葉を目にしたり耳に入れたりすると不愉快になる。その点、少々丸みを帯びているものの、きちんと楷書でしたためられた手紙は好印象だ。

 ……だが。

(だから、そこは問題じゃないんだ、俺……)

 セルフでツッコミを入れて、コウイチはぐったりと窓枠にもたれた。朝からこの手紙に対してどういう対応をすべきか考えているものの、やたらと思考が本題から逸れる。彼が自分の悪い癖だと自認しているところだ。

 もし別の問題で悩んでいるのなら、彼はトワかシュウジを頼っただろう。相談というかたちで話していれば、思考が逸れたときは彼らがすぐに気付いて修正してくれる。だが、これは他人に頼る問題ではないような気がする。
 結局は、自分の気持ち次第なのだ。
 手紙の主と付き合うかどうか、ではない。それはお断りする方向で決まっていた。ただ、その気がないから無視する、というのはいささか不誠実に感じられた。ならば直接出向いて断ればいいのだろうが、あいにくコウイチにそこまでの度胸も行動力もない。
 そういう意味では、手紙で告白してくれてありがたい――と、送り主に感謝しかけて。
 はた、と独り歩きしがちな思考を停止させる。

「……そうだ、手紙」

 何かを思いついたコウイチは、出てきたばかりの教室に引き返していった。


 ◇


 ――そして、図書室。

「手紙が来てるよ」

 ミキが図書室に入ると、既にカウンターに座っていたアツシから声をかけられた。

「手紙?」
「はい」

 おうむ返しに聞き返すミキには答えずに、彼はすいと水色の封筒を彼女に差し出した。宛名を書くべきところには何も書いていない。
 ミキが封筒を受け取って中を見てみると、白い紙が一枚、きれいに折りたたまれて入っていた。広げてみると、それが白地にグレーの罫線が入った便箋だとわかる。
 右下に、黒のボールペンで『日高コウイチ』とサインがあった。

「……三浦」
「なに?」

 ミキは手紙から目を離さずにアツシを呼んだ。アツシもまたミキのほうを見ようともせずに、ケースから取り出した眼鏡をかけながら返事をする。

「これ、どうしたの?」
「なんか、三年の先輩が置いてった。女の子が来たら渡してくれってさ」

 一体何をしたんだ、と言いたげに、アツシは初めてミキを見る。ミキは手紙を読みながら口を開いた。

「……どんな感じの人?」
「真面目そう……いや、誠実そうな人、かな。男の先輩だったよ」
「そう……」

 それだけ会話して、しばらく沈黙が続く。
 やがて手紙を読み終えると、ミキは便箋を元通りに折りたたみ封筒に戻した。いつもの定位置である窓際には向かわずに、カウンターに入ってきてアツシの隣に座る。

「なに、どうしたの?」

 予想していない行動だったのか、アツシが戸惑った顔をする。
 そんな彼の様子に、ミキは小さく笑った。



 ――好きになってくれてありがとう。好きになれなくてごめん。

 手紙に書かれていたのは、要約するとそういうことだった。ミキがコウイチに宛てて書いた、告白の手紙の返事だ。
 断られることは、手紙を書く前から覚悟していた。ふられるのが前提の告白だった。
 そもそも、直接会いもしないで交際を申し込むなど、小学生じみた悪戯と取られてもおかしくない方法だ。分かっていて、それでも断られた後でコウイチと顔を合わせる可能性を思うと、怖くてこんなやり方しか選べなかった。
 まず来ないだろうコウイチを待ちながら、今日は図書室でアツシ相手に愚痴でもこぼしていようと、そう考えていたのだ。

 これは、儀式だった。自分の心に失恋したことをはっきりと理解させて、前へ進むための儀式。受験生のコウイチを巻き込むのは申し訳なかったが、時間を置いたら駄目な気がした。



(誠実そう、か。三浦もなかなか鋭いというか……)

 アツシは、ミキの片思いの相手など興味がなかったのだろう。『三年の弓道部部長の日高先輩』というだけの、ミキから一方的に与えられた情報しか持たず、コウイチの顔も声も知らなかったようだ。
 しかし、彼は無意識に、コウイチを誠実な人間だと感じ取った。
 それは当たっているとミキは思う。無視してくれと書いたにもかかわらず、コウイチはわざわざ返事をくれた。

「……本気でどうしたの」
「今日くらいは、私も勉強しようかなと思ってね」
「『日高先輩』は?」
「もういいの。いつまでも夢見てらんないしね」
「ふうん……で、次はどんな人?」
「次って何よ、好きな人がいなくなったってこと!」

 アツシは一瞬眉をひそめ、それから何か恐ろしいものでも見たようにミキから数センチ身を引いた。その反応に、ミキの頬がひくりと引きつる。

「熱ないから。雨も雪も槍も降らないから。ニセモンでもないから」
「分不相応な片想いが人生のメインテーマなのに?」
「勝手に人の人生のテーマを決めんな半端メガネ」

 英語の教科書を眺めるミキのつま先が、バッグから数学のノートを取り出しているアツシの(すね)にめり込んだ。痛い、と声を上げて、アツシはバッグを探る手を止める。

「だってそうじゃないか。昔から他校の生徒やら駅で見かける専門学校生やら、無駄に望みの薄い片想いが絶えなかったくせに」

 蹴られた脛を手でさすりながら、アツシはどこか不満そうに唇を尖らせる。そんなクラスメイトを、ミキは半眼で睨みつけた。

「無駄にって何よ。好きになるのに望みも何も関係ないでしょ」
「はたから見てると滑稽(こっけい)なんだけどね。もう趣味だろ」
「何が」
「失恋。履歴書に書けるんじゃない?」
「もう一発蹴られたいのアンタは」

 言い合っているときりがないような気がして、アツシが再び口を開く前に、わざと大きくため息をついた。

「朝倉くん、今日は来ないのかなー」
「来ないと思うよ、友達と一緒に帰るみたいだった」

 なんだ、とつまらなそうにカウンターに突っ伏すミキ。

「そりゃあね、折角の土曜だってのに公開授業なんてそれこそ無駄だもんね。誰も見に来てないし」
「まあ、勉強する気なんか失せるだろうね」

 澄まし顔でアツシが言葉を返す。机に(あご)を乗せたまま、ミキは目だけを彼のほうへ向けた。

「……で、何でアンタは当番なんか引き受けたの?」
「他になり手がいなかったから」

 本来土曜日は休みなので、図書委員のカウンター当番も割り当てられていなかった。月の初めの集まりで、担当の司書から臨時の当番が募集されたのだ。
 名乗りを上げたのはアツシだけだったので、自動的に彼が当番となった。

「何、僕が当番だと都合が悪かった?」
「別にそんなことは言ってないでしょうが」

 クーラーが寒いな、とミキは腕を動かした。手のひらで二の腕をさすると、心なしか温かい。触れた皮膚は冷たかった。

「消そうか?」

 そんなミキの様子を見て、アツシが近くの棚からクーラーのリモコンを取り出した。利用者なんか誰もいないから、ミキとアツシの都合だけで空調を変えても問題はない。
 ミキが何となくリモコンの液晶を覗き込むと、二十五℃と表示されている。

「うっわ低すぎ! 寒いわけだって」
「じゃ、一度上げとこうか」
「何言ってんの。二十八度、それ以上低いのは身体に悪いんだから」
「はいはい」

 ――なんだ、思ったよりも平気じゃないの。

 アツシとくだらない会話を続けながら、ミキは涙すら出ない自分に内心で驚いていた。

 コウイチにふられたら、覚悟していたとはいえ、絶対に泣くと思っていたのだ。
 だから、手紙を出すのは今日にした。あの雨の日から一番近くて、図書室で泣いても問題のない日。
 アツシは何年も前から、ミキが失恋して泣く光景など見慣れている。だから、自分かアツシのどちらかが当番の日なら、どちらでもよかった。

(まあ、泣かないで済んだんだけどね)

 もしかしたら、それはコウイチが手紙を残してくれたからかもしれないけれど――。

 ミキの要望どおりに、リモコンのボタンを押してクーラーの設定温度を上げているアツシをチラリと見る。

 この先、片想いと失恋を何度繰り返しても。
 きっとコイツだけは変わらずに、自分の横で澄ました顔をしているのだろうな――と考えて、ミキはこっそり苦笑した。
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