7月9日(金)雨の中の聖域
文字数 5,140文字
――放課後、四階にある一年B組の教室にて。
ぽつりぽつりと地面に染みをつくる水滴に、最初に気付いたのはカオルだった。彼の席が窓際だったからだ。
「降水確率ゼロ、ってのはどこにいったんだか……」
「それ、昨日の予報でしょ。今朝は降るって言ってたよ」
窓の外を眺めつつ嫌そうな顔をしてぼやくカオルに、ユウが近づいて言った。
確かに昨日の天気予報では『一日中快晴、降水確率ゼロ%』と告げていたが、今朝のニュースでは真逆のことを報じていたのだ。この友人は、昨日の時点で安心しきっていたらしい。
「今から走って帰れば、ダメージ少ないんじゃない?」
「うー……」
窓枠に顎を乗せて、カオルは自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。湿気で毛先が広がってしまい、うまくまとまらない。ユウの髪も、いつもよりふわふわと落ち着きがなかった。
「帰りに本屋寄りたかったんだけどなあ」
「言ってる間に本降りになるよ。どうするの?」
ユウは朝のニュースを見ていたため、バッグに折り畳み傘を入れてある。気付かれないようにナギサのほうを見れば、彼女もバッグから折り畳み傘を取り出していた。それを確認して、ユウはすぐに視線を戻す。いつの間にか、カオルがユウの顔をじっと見上げていた。
「なに、まだ冷戦状態なん?」
「俺のほうは別に国交断ってないよ」
会話が彼女の耳に入らないように、ユウはカオルの背後から左隣に移動した。昨日の朝から、ナギサとは話していない。朝練もないため、話す機会もなかった。
話している間にも、雨はどんどんその勢いを増していく。見下ろしたコンクリートは、既に灰から黒へ色を変えていた。
「一応、傘を借りるあて はあるんだけどね。あんまり頼りたくないっていうか」
「じゃ、本屋は諦めたほうがいいんじゃない? 結構強い雨になるって言ってたし」
「んー……」
はっきりしないカオルをさて置いて、ユウは窓から下――昇降口を見下ろした。校門に向かう生徒たちは、傘を差して帰る者と、荷物を庇いながら走って帰る者が半々、といったところだ。
「朝倉は帰らねーの?」
「今は廊下も昇降口も混んでるよ。もう少し人が減ってからにする」
それにユウは、昨日の昼休みに本を借りていた。昨夜、寝る前に読み終わったので、忘れないうちに返しておこうと思っている。確か、今日はミキが当番のはずだ。
「はあ。不本意ながら、頼りにいきますかねー」
カオルが憂鬱そうに身体を起こした。ショルダーバッグを肩に掛ける彼を見て、ユウも自分のスポーツバッグを手にとる。
並んで教室を出るときに、ナギサがこちらを見たような気がするが、その膨れっ面はトワの言う『仲直りしたそう』な様子ではなかった。ゆえに、気付かなかったふりをする。
「じゃあな」
「うん」
短く挨拶して、彼らは廊下で別れた。
◇
雨がだんだんと激しくなっていく中。
長谷川ミキはトートバッグを肩から提 げて、一階の廊下を歩いていた。
彼女の手には、『図書室』と油性マジックで書かれた白いプレートが握られている。プレートの先には鍵がぶら下がっており、彼女が歩くのに合わせて、プラプラと揺れていた。
ちょうど、一階にある職員室から、図書室の鍵を回収したところである。
一年生の教室は四階にあり、図書室もまた四階に位置している。教室から図書室に直行してしまえればよかったが、この鍵があるせいで、それは叶わなかった。
(降りるだけでもダルいな……汗かいちゃったかも)
図書室に行く前にトイレに寄ろう、と考えながら、彼女は昇降口を通りかかった。
――ちくり。
「……?」
何か、刺すような気配を感じて、ミキは立ち止まって後ろを振り返った。何だろう、今、誰かに睨まれたような。
しかし彼女の振り向いた先には、こちらに視線を送ってくる人間はいなかった。目をそらすような動きをした者もいない。そもそも、知っている人間の姿がなかった。
(あ、あの子って確か……)
いや、一人だけ。
後ろ姿なので確証は持てないが、妙な気配を感じる直前にすれ違った女子は、確かユウのクラスのクラス委員ではなかったか。話したこともなければ興味もなかったが、よくユウと一緒に登校してくるので、きっと仲がいいのだろうと最近は印象に残っていた。
(まさかね)
あの子ではないだろう。名前すら知らない人間に恨まれる心当たりはない。
気のせいだったと結論づけて、ミキは前に向き直る。歩きだそうとして、今度こそ知っている顔を見つけた。
「……あ」
思わず、小さな声を上げてしまう。幸いなことに、その声は周囲のざわめきがかき消してくれた。
すっと伸びた背筋に、短く切りそろえた硬めの黒髪。白のワイシャツと黒のスラックスをきっちりと着て、黒のスポーツバッグを肩から提げた出で立ち。少しだけ日に焼けた肌。
堂々とこちらに向かって歩いてくる彼の姿に、ミキの瞳は一瞬でピントを合わせた。
コウイチだ。彼はミキなど気にも留めずに、そのまま彼女の数センチメートル左を静かに通り過ぎる。
――やっぱり格好いい。見てるだけで幸せになれる。
思わぬ接近に幸せを感じながら、ミキはもう一度振り返ってコウイチの後ろ姿を見た。彼のバッグを持っていないほうの手には、黒の折り畳み傘が握られている。抜け目がない。
今日は帰ってしまうのか、と少しばかり残念に思いながら、彼女は廊下の壁際に移動した。今日も図書室が開くのを待っているだろうアツシには悪いけれど、彼が帰るのをこっそり見ていたいと思ってしまったのだ。
(……少しだけ、だから)
湿気で濡れている白い壁に、ミキは躊躇 いながらも背をつけた。
◇
ユウが図書室の前にたどり着くと、アツシが立ったまま眼鏡のレンズを拭いていた。
気配に気づいて顔を上げ、「やあ」とこちらへ声をかけてくる。
「今日は長谷川さんが当番だったよね?」
「うん。今、鍵を取りに行ってるよ」
コンタクトは外しているのか、アツシは眼鏡拭きをケースにしまいこむと、手にしていた眼鏡をかけた。
レンズ越し、ほんの少し小さく見える瞳がこちらへ向く。
「朝倉は今日も勉強?」
「いや、本を返しに来ただけ。一日くらい息抜きしてもいいかなと思って」
「ああ、そのくらいなら僕がやっておこうか?」
「いいの?」
「まあ、図書室仲間のよしみだとでも思って」
そう言うアツシに礼を言いつつ、ユウはバッグからハードカバーの本を取り出して彼に手渡した。
タイトルに興味をひかれて借りた本だ。二、三日くらいかけてゆっくり読もうと思っていたのに、一晩で一気読みしてしまった。面白かったので、続編があれば借りてみたいと思う。
そうアツシに言うと、彼は小さく笑って「探しとくよ」と言ってくれた。
「じゃ、またね」
そう言って、ユウは図書室の前を去った。
◇
一方、ミキは動くに動けなかった。
現在彼女は、影ながらコウイチを見送ろうと思い、彼から数メートルほど離れた壁際に立っている。
すぐに靴を履き替えて家路につくだろうと思っていたその人は、靴を履いてはいるものの、昇降口から立ち去ろうとしない。片手に折り畳み傘を持っているのだから、雨で帰れないというわけでもあるまいに。
(あ、先輩ってスニーカーなんだ。革靴 履いてるイメージだったんだけどな)
ミキの周囲には傘を持っておらずに立ち往生している生徒が何人もいるので、視線にさえ気付かれなければ怪しまれることはない。これ幸いと、彼女は憧れの先輩を存分に観察していた。
……と、不意にコウイチがポケットに右手を突っ込んだ。シルバーの携帯電話を取り出して、耳に当てる。通話らしい。
離れているので、内容は聞き取れない。何を話しているのだろう。数分もしないうちに彼は耳から電話を離して、再びポケットにしまいこんだ。
それから、五分くらい経っただろうか。
すい、と一人の女子生徒がミキの前を通り過ぎ、コウイチの背中に向かって歩いていく。
同じクラスの人かな、とミキが思ったと同時、その女子は片手を上げて、後ろから軽くコウイチの肩を叩いた。その刺激で彼も振り返る。
彼女の顔を見た途端、コウイチは半眼になって彼女を軽く睨んだ。
「遅い」
恨みが少しだけこもっていそうな低い声が、ざわめきのわずかな隙間を縫ってミキの耳に届いた。コウイチの声だ、と彼の唇の動きで分かる。
遅いと断じられたその女子は、彼の肩を叩いた手をひらひらと振っている。その動きはまるで、たった今コウイチに言われた文句をかき消すようだ。こちらに背を向けているから、彼女の表情は見えない。
戻ってきたざわめきに、二人の会話はかき消されてしまう。
不満そうに唇を尖らせたり、呆れたようにため息をついたり、困ったような顔で笑ったり。そんな、くるくると変わるコウイチの表情だけしか見えず、ミキは心中で歯噛みした。
いつもミキが見ているコウイチは、もっと硬質な気高さがあった。同級生に柔らかく微笑む瞬間でさえ、どこか芯の通った力強いものがあったし、そんなところに憧れていた。
今、彼は肩の力を抜いている。それどころか、表情筋まで緩 めているような気さえした。
いや、力を抜かせてしまうのだろう。
――あの人が。
コウイチはしばらくその女子と話したあと、折り畳み傘を持った手を肩まで持ち上げる。何かを示すように傘を軽く振り、取っ手を引っ張って伸ばした。
女子が靴を履き替えて、コウイチに並ぶ。するとコウイチは自然な動作で肩のスポーツバッグを彼女に押し付け、自分は折り畳み傘をばさりと広げた。彼女も当然のようにバッグを受け取り、彼の隣に立っている。
――知らない。ミキの見てきたコウイチは、他人をこんなふうにぞんざいに使わない。
コウイチが傘を広げると女子はスポーツバッグを彼に返し、彼も受け取ったそれを肩に掛けなおした。彼女とは反対側の肩に。
女子はすっとコウイチに寄り添って、二人は一つの傘で雨の中に歩み出ていった。
黒い防水布に遮られ、ミキからは並んで歩く二人の足だけしか見えない。
やがて、それすらも雨に紛れて見えなくなってしまった。
「……なんでよ」
ミキは、俯いて唇をかみ締めた。肩にかかるトートバッグの取っ手を、両手でぎゅっと握る。
どうして、自分はここにいるんだろう。あそこじゃなくて、ここに。
中学時代。この高校の校章をつけたコウイチに、ミキは一目惚れをした。
それから、ずっと彼を見ていた。
入学する前は登下校を。入学してからは、部活の風景と図書室から教室を。
だから、わかる。わかってしまう。
あの傘の中は、聖域だ。自分が立ち入ることは許されない。
あの二人の距離は、彼にとって一番の、宝物のようなものなのだ。彼が柔らかくなれる唯一の空間。
二年と、先程の数センチメートル。それがミキの近づける、一番短い距離だった。
――遠くから見ているだけで幸せなんて、そんなわけない。
「馬鹿じゃないの、私」
年齢、立ち位置、安っぽい幸福感。自分の全てが、惨めで仕方なかった。
自分の気持ちすら見誤っていたことが、何よりも悔しい。
……ヴヴッ。
ギュッと目を瞑って涙が出るのを堪えていると、低い唸るような音が、かすかな振動と共にミキの耳に届いた。
少しでも油断すると緩んでしまいそうな涙腺を叱咤して、ミキは音の出所である携帯電話をトートバッグから取り出す。アツシからメッセージが届いていた。
『遅いけど、何してるの?』
絵文字のない、クエスチョンマークがあるだけ彼にしては手の込んだ本文。ディスプレイの右上の時刻を見れば、教室を出てから三十分以上が経過していた。
「あ、ヤバ」
ミキが図書委員会に入ったのは、入学してから何となく寄った図書室から、三年の教室がよく見えたからだった。図書室や一、二年の教室は新館と呼ばれる新しいほうの校舎だが、三年の教室だけは本館と呼ばれる古いほうの校舎にある。
それに、図書委員に立候補するような物好きは、自分がよく見知った三浦アツシくらいだろう。それなら変に気を使う必要もなくて気楽だというのも、彼女が図書委員になることを躊躇わなかった理由である。
そんな不純な動機で引き受けた仕事ではあるけれど、自分から志願した以上、『仕事をしない』というのは彼女のプライドが許さなかった。そんな体たらくでは、アツシだって彼女を軽蔑するだろう。
(……冗談じゃない)
中学時代から、アツシに馬鹿にされるのが、ミキは何よりも嫌いだった。他の誰に何を言われても笑って流せるが、彼に好き勝手言われるのだけは腹が立つ。
――ここで泣きそうになっている場合ではない。
携帯電話をバッグにしまいこんで、彼女は図書室に向かうべく廊下を走り去った。
ぽつりぽつりと地面に染みをつくる水滴に、最初に気付いたのはカオルだった。彼の席が窓際だったからだ。
「降水確率ゼロ、ってのはどこにいったんだか……」
「それ、昨日の予報でしょ。今朝は降るって言ってたよ」
窓の外を眺めつつ嫌そうな顔をしてぼやくカオルに、ユウが近づいて言った。
確かに昨日の天気予報では『一日中快晴、降水確率ゼロ%』と告げていたが、今朝のニュースでは真逆のことを報じていたのだ。この友人は、昨日の時点で安心しきっていたらしい。
「今から走って帰れば、ダメージ少ないんじゃない?」
「うー……」
窓枠に顎を乗せて、カオルは自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。湿気で毛先が広がってしまい、うまくまとまらない。ユウの髪も、いつもよりふわふわと落ち着きがなかった。
「帰りに本屋寄りたかったんだけどなあ」
「言ってる間に本降りになるよ。どうするの?」
ユウは朝のニュースを見ていたため、バッグに折り畳み傘を入れてある。気付かれないようにナギサのほうを見れば、彼女もバッグから折り畳み傘を取り出していた。それを確認して、ユウはすぐに視線を戻す。いつの間にか、カオルがユウの顔をじっと見上げていた。
「なに、まだ冷戦状態なん?」
「俺のほうは別に国交断ってないよ」
会話が彼女の耳に入らないように、ユウはカオルの背後から左隣に移動した。昨日の朝から、ナギサとは話していない。朝練もないため、話す機会もなかった。
話している間にも、雨はどんどんその勢いを増していく。見下ろしたコンクリートは、既に灰から黒へ色を変えていた。
「一応、傘を借りる
「じゃ、本屋は諦めたほうがいいんじゃない? 結構強い雨になるって言ってたし」
「んー……」
はっきりしないカオルをさて置いて、ユウは窓から下――昇降口を見下ろした。校門に向かう生徒たちは、傘を差して帰る者と、荷物を庇いながら走って帰る者が半々、といったところだ。
「朝倉は帰らねーの?」
「今は廊下も昇降口も混んでるよ。もう少し人が減ってからにする」
それにユウは、昨日の昼休みに本を借りていた。昨夜、寝る前に読み終わったので、忘れないうちに返しておこうと思っている。確か、今日はミキが当番のはずだ。
「はあ。不本意ながら、頼りにいきますかねー」
カオルが憂鬱そうに身体を起こした。ショルダーバッグを肩に掛ける彼を見て、ユウも自分のスポーツバッグを手にとる。
並んで教室を出るときに、ナギサがこちらを見たような気がするが、その膨れっ面はトワの言う『仲直りしたそう』な様子ではなかった。ゆえに、気付かなかったふりをする。
「じゃあな」
「うん」
短く挨拶して、彼らは廊下で別れた。
◇
雨がだんだんと激しくなっていく中。
長谷川ミキはトートバッグを肩から
彼女の手には、『図書室』と油性マジックで書かれた白いプレートが握られている。プレートの先には鍵がぶら下がっており、彼女が歩くのに合わせて、プラプラと揺れていた。
ちょうど、一階にある職員室から、図書室の鍵を回収したところである。
一年生の教室は四階にあり、図書室もまた四階に位置している。教室から図書室に直行してしまえればよかったが、この鍵があるせいで、それは叶わなかった。
(降りるだけでもダルいな……汗かいちゃったかも)
図書室に行く前にトイレに寄ろう、と考えながら、彼女は昇降口を通りかかった。
――ちくり。
「……?」
何か、刺すような気配を感じて、ミキは立ち止まって後ろを振り返った。何だろう、今、誰かに睨まれたような。
しかし彼女の振り向いた先には、こちらに視線を送ってくる人間はいなかった。目をそらすような動きをした者もいない。そもそも、知っている人間の姿がなかった。
(あ、あの子って確か……)
いや、一人だけ。
後ろ姿なので確証は持てないが、妙な気配を感じる直前にすれ違った女子は、確かユウのクラスのクラス委員ではなかったか。話したこともなければ興味もなかったが、よくユウと一緒に登校してくるので、きっと仲がいいのだろうと最近は印象に残っていた。
(まさかね)
あの子ではないだろう。名前すら知らない人間に恨まれる心当たりはない。
気のせいだったと結論づけて、ミキは前に向き直る。歩きだそうとして、今度こそ知っている顔を見つけた。
「……あ」
思わず、小さな声を上げてしまう。幸いなことに、その声は周囲のざわめきがかき消してくれた。
すっと伸びた背筋に、短く切りそろえた硬めの黒髪。白のワイシャツと黒のスラックスをきっちりと着て、黒のスポーツバッグを肩から提げた出で立ち。少しだけ日に焼けた肌。
堂々とこちらに向かって歩いてくる彼の姿に、ミキの瞳は一瞬でピントを合わせた。
コウイチだ。彼はミキなど気にも留めずに、そのまま彼女の数センチメートル左を静かに通り過ぎる。
――やっぱり格好いい。見てるだけで幸せになれる。
思わぬ接近に幸せを感じながら、ミキはもう一度振り返ってコウイチの後ろ姿を見た。彼のバッグを持っていないほうの手には、黒の折り畳み傘が握られている。抜け目がない。
今日は帰ってしまうのか、と少しばかり残念に思いながら、彼女は廊下の壁際に移動した。今日も図書室が開くのを待っているだろうアツシには悪いけれど、彼が帰るのをこっそり見ていたいと思ってしまったのだ。
(……少しだけ、だから)
湿気で濡れている白い壁に、ミキは
◇
ユウが図書室の前にたどり着くと、アツシが立ったまま眼鏡のレンズを拭いていた。
気配に気づいて顔を上げ、「やあ」とこちらへ声をかけてくる。
「今日は長谷川さんが当番だったよね?」
「うん。今、鍵を取りに行ってるよ」
コンタクトは外しているのか、アツシは眼鏡拭きをケースにしまいこむと、手にしていた眼鏡をかけた。
レンズ越し、ほんの少し小さく見える瞳がこちらへ向く。
「朝倉は今日も勉強?」
「いや、本を返しに来ただけ。一日くらい息抜きしてもいいかなと思って」
「ああ、そのくらいなら僕がやっておこうか?」
「いいの?」
「まあ、図書室仲間のよしみだとでも思って」
そう言うアツシに礼を言いつつ、ユウはバッグからハードカバーの本を取り出して彼に手渡した。
タイトルに興味をひかれて借りた本だ。二、三日くらいかけてゆっくり読もうと思っていたのに、一晩で一気読みしてしまった。面白かったので、続編があれば借りてみたいと思う。
そうアツシに言うと、彼は小さく笑って「探しとくよ」と言ってくれた。
「じゃ、またね」
そう言って、ユウは図書室の前を去った。
◇
一方、ミキは動くに動けなかった。
現在彼女は、影ながらコウイチを見送ろうと思い、彼から数メートルほど離れた壁際に立っている。
すぐに靴を履き替えて家路につくだろうと思っていたその人は、靴を履いてはいるものの、昇降口から立ち去ろうとしない。片手に折り畳み傘を持っているのだから、雨で帰れないというわけでもあるまいに。
(あ、先輩ってスニーカーなんだ。
ミキの周囲には傘を持っておらずに立ち往生している生徒が何人もいるので、視線にさえ気付かれなければ怪しまれることはない。これ幸いと、彼女は憧れの先輩を存分に観察していた。
……と、不意にコウイチがポケットに右手を突っ込んだ。シルバーの携帯電話を取り出して、耳に当てる。通話らしい。
離れているので、内容は聞き取れない。何を話しているのだろう。数分もしないうちに彼は耳から電話を離して、再びポケットにしまいこんだ。
それから、五分くらい経っただろうか。
すい、と一人の女子生徒がミキの前を通り過ぎ、コウイチの背中に向かって歩いていく。
同じクラスの人かな、とミキが思ったと同時、その女子は片手を上げて、後ろから軽くコウイチの肩を叩いた。その刺激で彼も振り返る。
彼女の顔を見た途端、コウイチは半眼になって彼女を軽く睨んだ。
「遅い」
恨みが少しだけこもっていそうな低い声が、ざわめきのわずかな隙間を縫ってミキの耳に届いた。コウイチの声だ、と彼の唇の動きで分かる。
遅いと断じられたその女子は、彼の肩を叩いた手をひらひらと振っている。その動きはまるで、たった今コウイチに言われた文句をかき消すようだ。こちらに背を向けているから、彼女の表情は見えない。
戻ってきたざわめきに、二人の会話はかき消されてしまう。
不満そうに唇を尖らせたり、呆れたようにため息をついたり、困ったような顔で笑ったり。そんな、くるくると変わるコウイチの表情だけしか見えず、ミキは心中で歯噛みした。
いつもミキが見ているコウイチは、もっと硬質な気高さがあった。同級生に柔らかく微笑む瞬間でさえ、どこか芯の通った力強いものがあったし、そんなところに憧れていた。
今、彼は肩の力を抜いている。それどころか、表情筋まで
いや、力を抜かせてしまうのだろう。
――あの人が。
コウイチはしばらくその女子と話したあと、折り畳み傘を持った手を肩まで持ち上げる。何かを示すように傘を軽く振り、取っ手を引っ張って伸ばした。
女子が靴を履き替えて、コウイチに並ぶ。するとコウイチは自然な動作で肩のスポーツバッグを彼女に押し付け、自分は折り畳み傘をばさりと広げた。彼女も当然のようにバッグを受け取り、彼の隣に立っている。
――知らない。ミキの見てきたコウイチは、他人をこんなふうにぞんざいに使わない。
コウイチが傘を広げると女子はスポーツバッグを彼に返し、彼も受け取ったそれを肩に掛けなおした。彼女とは反対側の肩に。
女子はすっとコウイチに寄り添って、二人は一つの傘で雨の中に歩み出ていった。
黒い防水布に遮られ、ミキからは並んで歩く二人の足だけしか見えない。
やがて、それすらも雨に紛れて見えなくなってしまった。
「……なんでよ」
ミキは、俯いて唇をかみ締めた。肩にかかるトートバッグの取っ手を、両手でぎゅっと握る。
どうして、自分はここにいるんだろう。あそこじゃなくて、ここに。
中学時代。この高校の校章をつけたコウイチに、ミキは一目惚れをした。
それから、ずっと彼を見ていた。
入学する前は登下校を。入学してからは、部活の風景と図書室から教室を。
だから、わかる。わかってしまう。
あの傘の中は、聖域だ。自分が立ち入ることは許されない。
あの二人の距離は、彼にとって一番の、宝物のようなものなのだ。彼が柔らかくなれる唯一の空間。
二年と、先程の数センチメートル。それがミキの近づける、一番短い距離だった。
――遠くから見ているだけで幸せなんて、そんなわけない。
「馬鹿じゃないの、私」
年齢、立ち位置、安っぽい幸福感。自分の全てが、惨めで仕方なかった。
自分の気持ちすら見誤っていたことが、何よりも悔しい。
……ヴヴッ。
ギュッと目を瞑って涙が出るのを堪えていると、低い唸るような音が、かすかな振動と共にミキの耳に届いた。
少しでも油断すると緩んでしまいそうな涙腺を叱咤して、ミキは音の出所である携帯電話をトートバッグから取り出す。アツシからメッセージが届いていた。
『遅いけど、何してるの?』
絵文字のない、クエスチョンマークがあるだけ彼にしては手の込んだ本文。ディスプレイの右上の時刻を見れば、教室を出てから三十分以上が経過していた。
「あ、ヤバ」
ミキが図書委員会に入ったのは、入学してから何となく寄った図書室から、三年の教室がよく見えたからだった。図書室や一、二年の教室は新館と呼ばれる新しいほうの校舎だが、三年の教室だけは本館と呼ばれる古いほうの校舎にある。
それに、図書委員に立候補するような物好きは、自分がよく見知った三浦アツシくらいだろう。それなら変に気を使う必要もなくて気楽だというのも、彼女が図書委員になることを躊躇わなかった理由である。
そんな不純な動機で引き受けた仕事ではあるけれど、自分から志願した以上、『仕事をしない』というのは彼女のプライドが許さなかった。そんな体たらくでは、アツシだって彼女を軽蔑するだろう。
(……冗談じゃない)
中学時代から、アツシに馬鹿にされるのが、ミキは何よりも嫌いだった。他の誰に何を言われても笑って流せるが、彼に好き勝手言われるのだけは腹が立つ。
――ここで泣きそうになっている場合ではない。
携帯電話をバッグにしまいこんで、彼女は図書室に向かうべく廊下を走り去った。