7月12日(月)エピローグ

文字数 5,250文字

 日曜日を挟んで、今日はテスト一日目。
 数学A・生物・現代文・保健体育と四教科の考査を終えて、ユウはぐったりと机に突っ伏した。

(数学はまあまあ、かな。生物は結構いい線いってると思う……トワ先輩に感謝だね。現文もそれなり、問題は保健かあ……)

 本日の成果を振り返って、ユウはため息と共により深く机に沈んだ。これがあと二日、あさってまで続くのだ。

「疲れた……」
「初っ(ぱな)から数学ってイジメだよな」

 誰にともなく呟いた言葉に、前の席に座る男子生徒が振り返って応えてくれた。お互い、顔に苦笑いを浮かべている。

「そういえば朝倉、『滝沢生物』は大丈夫だった?」
「ああ、うん。部活の先輩が勉強見てくれてさ、そのときに教えてくれた」

 トワの言っていた『滝沢大先生』の生物は、実際の数値を使わずに文字式を答えさせるという厄介なものだった。
 小数点以下の細かい計算がいらないという意味では歓迎できるが、そのぶん文字式自体の複雑さがハイレベル。できれば二度とお目にかかりたくないが、今年一年は覚悟しておくべきだろう。

 明日の教科を確認して、苦手な物理があることにげんなりする。古典もあまり得意ではないが、コウイチに色々助言を受けたので、どうにかなると思いたい。

(あ、英語は確か、三浦が得意だって言ってたっけ? 古典も長谷川さんがいたら教えてもらえるかな……)

 元より、この後は図書室で勉強するつもりだった。残りの一教科は数学Ⅰだったが、それもなんとかなるだろう。数学は苦手なわけではない。

 ……そんなことを考えていると、ガラリと車輪が回る音が耳に入った。たった今教室に入ってきたのだろう担任が、教卓に向かって歩いていく姿が見えて、机に伏せていた上体を起こした。

「よっこらせ、と。……さて、試験はうまくいったかね」
「無理でーす!」

 教卓に一番近い席の女子が、元気よく残念なことを言う。今年で定年だという担任は、特に発言を咎めるでもなく「そうかそうか」と笑って、事務的な連絡事項を告げていく。
 程なくして、ホームルームは終了した。


 ◇


 一年B組の教室。ユウを含むほとんどの生徒が出て行った空間に、一人だけ自分の席から離れていない者がいた。

 窓際の席で、少年が両耳にイヤホンを付けて目を閉じている。その姿はまるで、瞑想しているかのようだ。机に伏しているわけでもなく、ただ前を向いて目を閉じている。その顔には、何の表情も乗っていない。

 そこに、少女が一人、入ってきた。肩の上で揃えた硬質なストレートヘアが、歩くたびにさらりと揺れる。
 自分に気付いている様子のない少年に訳もなく苛立つのをこらえて、彼女は少年のいる窓際の席へ歩いていく。少年は微動だにしない。

「高崎」

 少女が、少年を呼んだ。
 けして大きな声ではなかった。しかし教室が無人に近いせいか、それともいつもに比べてワントーン低いためか。その声は容易くイヤホンを通り抜けて、高崎カオルの鼓膜を揺らした。
 カオルがゆっくりと瞼を上げる。同時に、口の端が上へ上っていく。いつもの笑みだ。

「何か用?」

 芯の冷えた、声。それを聞いた途端、ただの笑顔だと思っていた表情が刃先のように鋭く酷薄なものに見えてくる。
 少女はわずかな怯えを胸に押さえ込んで、できるだけ冷たい表情を作るように努力した。

「最近、よくこっち見るよね。何?」
「別に、吉野を見てるわけじゃない」

 しれっと吐かれた明らかな嘘に、少女――吉野ナギサはその表情を険しくする。

「明らかに私見て笑ってるじゃない! そういうの、気分悪いんだけど」
「自意識過剰。いや、被害妄想かな?」

 いつの間にか、カオルの表情は昨日と同じ冷笑に変わっていた。もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。
 カオルはイヤホンを外してスラックスのポケットに押し込み、立ち上がって帰り支度をしながら口を開く。

「最近、朝倉と話さないでしょ。ちなみに当人は、吉野が怒ってる理由が分からないから放置することにしたみたいだね」
「高崎には関係ないでしょ」
「ああ、関係ないね。だから、勝手に怒って相手にハテナ顔で放置されてる吉野を見てると、面白くてしょうがない」
「……ッ」

 あまりの言い草に、ナギサの顔にさっと朱が上る。
 怒りの感情そのまま、彼の机に手のひらを叩きつけた。

「アンタが何を知ってるっての?!」
「知るわけないだろ、俺には関係ないって言ったのは自分じゃないか」

 俺の言いたいこと、分からない?
 カオルはナギサを馬鹿にしきった表情で言う。既に、帰り支度は済んでいた。

「吉野の怒りは空回り。はたから見れば的外れ。あいつが転校してきて、まだ半月くらいだぞ? お前、なんか勘違いしてないか? まあ勘違いでお前が恥かくのはどうでもいいけど、朝倉のせいにするなよな」

 そう言って、カオルはすたすたと教室の出口へ歩いていく。

「外野だからこそ見えることって、結構あるんだよね。お前が何に怒ってるのか、なんとなく察しはつくけど、俺は朝倉の友達になるつもりだから――」

 ――これ以上あいつに迷惑かけるなら、友達として黙っていない。

 冷え冷えとした声で言い捨てて、カオルは廊下に消えてしまう。
 その足音が遠ざかって聞こえなくなるまで、ナギサは動けなかった。


 ◇


「やっほー」

 図書室の戸が開く音と同時。のんきな声が聞こえてきて、アツシは手元の本から顔を上げた。
 先週の金曜に、ユウから預かった小説の続編だ。あの後ミキを待っている間に読んでみたらなかなか面白く、今日の放課後すぐに続編を探した。

 のんきな声の主はミキだった。先程トイレに行くと言って、アツシに委員の仕事を一時的に押し付けていた。別にこれに関しては、アツシもミキに押し付けることがままあるのでお互い様だ。滅多に人なんか来ないし。

「何がやっほーなの」
「ただいまって言うのもありきたりじゃない?」
「リアクションは取りやすい」
「それはそう」

 それだけ話して小説を読むのを再開しようとするアツシの前に、ミキはトンと四角い直方体を置いた。薄緑色のそれが視界を横切るのに気付いて、アツシは再び顔を上げる。
 紙パックの緑茶だった。

「なにこれ」

 意図がつかめずアツシが問うと、ミキはもう片方の手に持っていたリンゴジュースを示した。こちらも紙パック入りだ。

「自販機にルーレットついてるじゃん、当たったの。飲め」
「命令形……ま、ありがたく頂きます」

 飲食禁止という規則があるので、ここで飲むのはなしだ。本が汚れなければいいじゃないか、と思いはするが、それを大人に訴えるのも面倒くさい。

 ミキはそのままアツシの前にある机に腰かけた。

「行儀悪いよ」
「見られたくない人に見つかんなきゃいいのよ」

 ちなみに見られたくない人ナンバーワンの司書は、大抵は書庫に(こも)っている。図書室には滅多に顔を出さないから、見られる心配はほとんどなかった。
 冷えて表面に水滴のついたリンゴジュースのパックを片手に、ミキは足をプラプラと揺らしながら、時折窓の外を見る。ふられたし諦めたとはいえ、未練が全くないといえば嘘になった。

 屋上に、コウイチの姿が現れる。その傍らに、あの日見た女子の姿を見つけて、心中でお幸せに、と呟いた。
 きっと、自分の推測は間違っていない。

 カタン、と音を立ててアツシが立ち上がった。

「コンタクト外してくる」
「行ってらっしゃい」

 ミキは屋上からアツシへ視線を戻すと、ひらひらと手を振って、彼を送り出した。
 アツシが居なくなった図書室で、どうにも手持ち無沙汰になる。ふと彼が読んでいた小説本が目に入り、何とはなしにそれを手にとった。

 殺人事件を追うミステリーホラーだ。推理を楽しんで読める性質ではないので、冒頭に軽く目を通すとすぐに最終章のページを開く。

 片想いに苦しむ女が、想い人を殺してしまったという話だった。
 女は想い人に一目惚れをして、見ているだけで満足で、話しかけるなんてとんでもなくて。夢の中では想い人に愛されて幸せで、ふと現実を見れば、想い人は別の女と結ばれていた。妄想と現実のギャップが負の方向に働いて、やがて現実を否定するように想い人を殺してしまう、そんな話。

 ――ありきたりだな、と思った。
 途中までは最近の自分と同じだ。どこから違うのかと言われれば、自分はもっと現実的で逞しい人間だったというところか。相手に受け入れられる以前に、想いを口に出してもいないくせに、想いが通じなかったことを嘆くほど勝手な女ではなかった。

『わかっていたの。私は何もしなかった。何もしないで、見つめているだけで気付いてもらえる訳がないのに。でも、それでも耐えられなかったのよ――』

 本の中の犯人はそう言って、隠し持っていたナイフで自分の心臓を貫いて死んだ。ああ、この女は勝手な女ではなかった。ただ、ひどく(もろ)かっただけなのだ。軽蔑したくなるほどに。
 そのとき、音を立てて扉が開いた。ミキが振り返ると、ひょこ、と知った顔が扉の隙間から出てくる。

「……あれ、今日は長谷川さんだけ?」
「三浦はトイレ。朝倉くんは今日も勉強?」
「まあね、でもその前にお昼かな。廊下で食べていい?」

 ユウはそれ以上図書室に入らず、手にしたビニール袋だけこちらに見せてきた。コンビニで何か買ってきたらしい。

「ここで食べてく?」

 ミキが悪戯っぽく訊くと、ユウは目を丸くした。

「飲食ダメじゃないの?」
「まあここはダメなんだけどね、司書室は大丈夫。司書さんは滅多に書庫から出てこないし」

 司書室には電気ケトルもティーバッグもある。ミキとアツシも、一度だけあの部屋でクッキーをご馳走になったことがあった。

「私と三浦も司書室で食べるからさ」
「クーラーもきいてるしね」

 唐突に割り込んできた声に驚いた顔をして、ユウが後ろを振り向いた。彼のすぐ後ろに、眼鏡をかけたアツシが立っている。

「さっき書庫見てきたら、紀浦(きのうら)さん今日休みだってさ」
「なら朝倉くん入れても大丈夫ね」

 紀浦さん、というのは司書の名前だ。姿が見えないのはいつものことなので気にしていなかったが、今日は本当にいなかったらしい。
 もう一度ユウを誘うと、彼もそれなら、と首を縦に振った。


 ◇


 自分以外誰もいない教室で、ナギサはかれこれ四十分ほど悩んでいた。
 ユウに対して感じた苛立ちは、カオルの冷水のような言葉である程度吹っ切れている。
 ……別に感謝してるわけではないし、なんならいつか決着をつけなければと思っているが、それはそれだ。

 とにかく、ユウがこの状況で何も感じていないのであれば、これ以上意地を張っても状況は悪くなる一方。

 そういうわけで、関係を修復しようと思いはするものの、具体的にどうしたらいいのか分からない。
 カオルの言葉によれば、ユウは先日の件を特に気にすることなく、ナギサは放っておかれているだけらしい。なら、こちらから行動を起こせば、関係はきっと元に戻るのだろう。

 ……それでも、気まずいものは気まずい。
 更に二十分ほど悩んだ挙句、彼女は携帯電話を取り出して、ユウに宛ててメッセージを作成し始めた。

『もうすぐ宗方部長の誕生日。度肝抜きたいからアイデアよこせー!』

(今回だけダシにさせてください、部長)

 内心でシュウジに謝って、ナギサは送信ボタンを押した。


 ◇


 図書室のカウンターより奥にある、小ぢんまりとした司書室。
 その中央に置かれたテーブルの上に、アツシとミキの弁当と、ユウがコンビニで買ってきた冷やしラーメンが置かれている。

 ミキは食事用にと水筒に入れてきた麦茶を飲みながら、アツシは弁当のご飯に混ぜ込まれたグリンピースを除けながら、ユウはずぞーっとラーメンを(すす)りながら、テストの出来やら共通して知っている教師談義やらに花を咲かせていた。

「文理選択、そろそろって聞いたよ」

 ぽつりとアツシが言った。彼は根っから文系らしく、理数系はあまり得意ではないのだと言った。
 ユウとミキはどちらもそこそこに出来るので、来年の進路希望を文系で出そうか理系で出そうかで迷っている。

「私どうしよっかなあ。理系に進むと古典ががなくなるって聞いたんだけど」
「あ、うん。なくなるってシュウ先輩……あ、部活の先輩なんだけど、その人が言ってた」
「朝倉、文系に進むと何がなくなるの?」
「ええっと……。なくなるっていうか、数学がほとんど二年までの範囲の復習になるんだってさ」

 コウイチやトワ、シュウジから聞いたことをそのまま口にする。
 それを聞いて、ミキは少し考え込むそぶりを見せた。初めから文系クラスに進むつもりのアツシは、再確認するようにこくりと頷いただけだ。

 ――そのとき、隣の椅子の上に置いていたユウのバッグから、低い音が鳴り出した。持ち主が反応する前に音は鳴り止む。

「メッセか」

 呟いて、ユウはバッグに手をかける。ディスプレイに表示された名前を見て、ほっと息をついた。

 窓の外では、相変わらずノイズのような蝉の鳴き声が響いている。
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