7月6日(火)前を往く背中
文字数 5,031文字
あー、今日もムカつくほどにいい天気だこと。
ユウは声に出さず嘆息した。
梅雨の時期は雨が鬱陶しかったのに、こうも日照りが続くとたまには雨でもいいよと空に諭したくなってくる。
いつものように、彼は早朝ゆえに人の少ない通学路を歩いていた。今日は一段と暑い。元々汗っかきなほうではないのだが、それでも額からつーっと水滴が流れ落ちてきた。
――水分補給をするべきだ。
いつもなら飲み物は学校で購入するのだが、この暑さの前で無茶はいけない。これから朝練もあることだし、と自身を納得させて、ちょうど通りかかったコンビニの自動ドアの前に立った。
静かにスライドする硝子の板。噴き出してくる冷気に、ユウはほっと息をついた。
「いらっしゃいませー」
レジにいる店員の間延びした声を背に受けながら、ドリンクのコーナーに向かい、迷わずスポーツドリンクを手にとった。
五百ミリリットルのペットボトル。フタのすぐ下に小さな袋がついており、中には紺色のマスコットが入っていた。形からしてペンギンのようだが、こちらに背を向けているので、どういうキャラクターなのかは分からない。
飲み物そのものは食事のお供にはいささか甘過ぎるが、昼食の時は学校で別の飲み物を買いなおすつもりだから別にいい。それに、恐らく午前中でこのドリンクは飲み干してしまうだろう。
「百四十七円になります。袋にお入れいたしますか?」
「いえ」
「かしこまりました」
出来ることならずっとこの涼しい空間にいたいものだが、だからといって朝練に遅れる気はないので、ユウはさっさと会計を済ませてしまう。
自動ドアのほうへ向かいながら深呼吸して、名残を惜しむように冷気を肺いっぱいに吸い込んだ。足が自動ドアの前で止まる。
「ありがとうございましたー」
店員の声を再び背に受けながら、ユウは襲い来るだろう熱気の壁を睨みつけて、コンビニの外へ一歩踏み出した。
むわ、と全身にぶつかってくる熱気。予想通りだ。直射日光が弱いだけ真昼よりましだ――無意味な比較をして自身を励ましながら、彼は通学路へ戻る。
歩きながらマスコットの入った袋を外し、ペットボトルの蓋を開けて、一口飲む。舌が痺れるような甘みとわずかな塩気に、これは甘すぎたと顔をしかめた。
「あ、朝倉」
いつもより少し遅く、ナギサがユウに追いついてきた。彼の手にある汗をかいたペットボトルに気付き、声を上げる。
「ずるい!」
「何が!」
理不尽な文句に言い返しながら、そういえばとユウは制服のポケットに放り込んだマスコットのことを思い出した。
いつの間にかペットボトルがナギサの手に移動しているが、それは見なかったことにしておく。
マスコットの入っている袋は透明なビニールで出来ており、開封せずとも中を見て取ることができた。
「……なにこれ」
そう零したのは、横から手元を覗き込んできたナギサだった。
「吉野、ドリンク返せ」
「ん、ゴチになりました」
「許可してない……」
勝手に飲んだらしく、ペットボトルの中身は目減りしていた。お互い間接キスなどと騒ぐほど子供でも乙女でもなかったので、ユウは純粋に数円分のスポーツドリンクを失ったことにため息をつく。別にケチなわけではないが、損は損だ。しかも、自分が許容どころか想定すらしていなかった類の。
それはともかく、マスコットだ。丸々とした紺色のペンギンは、ユウから見れば不細工なことこの上なかった。
「で、なにこれ」
「知らね。これ買ったらくっついてた」
再度聞いてくるナギサに、彼女から取り返したペットボトルを示してそう答える。それからふと思いついて、マスコットを袋ごとナギサに投げ渡した。
「やる」
「わーい」
ちっとも喜んでなさそうに棒読みで言って、ナギサはマスコットを開封した。
「携帯につけよ。よく見れば愛嬌があって可愛いかも?」
「疑問形……」
いつもと同じそんなやり取りをしながら、彼らは今日も朝練をしに学校へ向かう。
◇
「高崎。これ、昨日のおかえし」
朝練を終えて教室に着くと、ユウはカバンから一枚の音楽CDを取り出してカオルの席へ歩いていった。
こちらへ転校してきてから、カオルには本やらCDやらを借りてばかりだったのだ。それはそれで申し訳なかった。
幸いなことに、ユウと彼の音楽の趣味は不思議なほどに一致している。音楽CDならハズレは無いだろう。
「ん。……あ、このバンド知ってる! この辺の店だと置いてなかったんだよ」
ユウの予想通り、カオルの反応は悪くないものだった。それどころか、思ったよりも喜んでもらえたようだ。ユウの顔も、自然と笑みを作る。
「前の学校行ってた時に買ったんだ」
「うわーありがとう! 一度聞いてみたかったんだけど、レンタルも見つかんなかったんだよ。ネット通販は親が許さないしさ」
カオルが喜々としてCDをバッグに仕舞いこんだ直後、本鈴が鳴った。
◇
放課後になり、ユウは荷物を持って図書室に向かっていた。試験に向けて勉強するためだ。
ユウにとっては、この学校に来てから初めての定期試験。授業のペースもまだ身についたとはいえない。少し意識して勉強しておいた方がいいだろうと思ったのだ。
自宅は勉強には向かない。母親もパートで働いていて不在だが、近所の子供の遊ぶ声というものは思ったよりも気になるし、掛かってくる妙な勧誘の電話や訪問客のインターホンもうざったい。休憩とばかりに音楽でもかけてしまったが最後、その日はきっと二度とノートなんか開かないだろう。
近所の図書館に寄ろうか、と考えたところで、ユウは昨日見たほとんど無人の図書室を思い出したのだ。
……しかし、彼の予定は図書室の前で変更を余儀なくされた。
「でさあ、……えー!」
戸を開けるまでもなく聞こえる話し声。聞き覚えのない、女子生徒の声だ。相手の声が聞こえてこないことから予想するに、携帯電話で話しこんでいるのだろう。
(昨日はあんなに静かだったのに……)
ミキやアツシと違い、今日の当番はお喋りな人間のようだ。これなら自宅のほうがまだ静かだな、とユウはきびすを返した。
廊下を歩きながら、今日のところは教室で問題集でも解いていようかと考える。
階段を下りようとして、上ってきた生徒と目が合った。
「お、朝倉。どうしたんだ、こんなところで」
「先輩」
シュウジだった。買出しにでも行ってきたのか、両手に菓子やジュースの入ったビニール袋をひとつずつ手にしている。
ユウが図書室での勉強を断念したと話すと、シュウジは「ちょうどいい」と階段の更に上の階――屋上を手で示した。
「なんだったら、俺たちと一緒にやるか? どうせあの二人にはお前を紹介するつもりだったし」
「え?」
話が見えずユウが混乱していると、それを察したのかシュウジがすまなそうにはにかんだ。
「俺もこれからテスト勉強。屋上の日陰で菓子でもつまみながら」
「さっき俺たち って言ってましたよね?」
「おう。分からないとこ、遠慮なく質問できるぞ。三年の成績上位が二人もいるからな」
ユウは窓の外を見た。雨が降る様子はないし、風もそんなに強くなさそうだ。
「あ……じゃあ、お邪魔します」
紹介するつもりだった、という言葉に引っかかりを感じながら、ユウはありがたく勉強会に参加させてもらうことにした。
二人で階段を駆け上がり、両手が塞がっているシュウジの代わりにユウが屋上への扉を押し開ける。
「こっち」
シュウジはユウを先導して、校舎の日陰になっている場所へ回り込んだ。
そこには何故か大きめのレジャーシートが敷かれており、四隅を風で飛ばされないように分厚い辞書で押さえられていた。
その上に、ひと組の男女が座っている。シートの外に揃えて置かれているのは、三年生を示す色をした二足の上履き。
「お帰り、シュウ。その子は?」
大人びた印象の男子生徒のほうが、シュウジからビニール袋を受け取りながらユウに目を向けた。
「この間話した新入部員。勉強する場所がないって言うから連れて来た」
二年生であるはずのシュウジが、三年生であるはずの彼に気安く声をかける。
それを疑問に思いながらも、ユウは慌てて頭を下げ、名を名乗った。
その男子生徒は、優しく微笑んで口を開く。
「俺は、この前まで弓道部の部長やってた日高コウイチ。こっちは元・副部長の……」
男子生徒――コウイチが隣の女子生徒へ視線を投げる。のんびりした印象の彼女は、上にだけ学校のジャージを着て、袖まくりをしていた。下は制服のスカートだ。
女子生徒は、発言の前にシュウジを指差した。
「それの姉で宗方トワ。うちの阿呆に言い寄られてない?」
「言い寄るかっ!! しかもそれ呼ばわりかよ?!」
にっこり微笑んでひでえことをのたまうトワに、買ってきたものを袋から出していたシュウジが怒鳴った。
この姉弟をどう呼び分けようかとユウが戸惑っていると、トワはそれを見透かしたように付け足した。
「シュウと紛らわしいだろうから、私のことはトワでいいよ」
つかみどころのない先輩だ、とユウはトワの言葉に頷きながら思った。
シュウジが買ってきた菓子を分けてもらいながら、ユウはコウイチに間違えた問題を見てもらっていた。どこを間違えたのか分からなかったのだ。
物理の計算過程を静かに目で追う彼の横顔を見つめながら、昨日の図書室での出来事を思い出す。
――ミキの言っていた『日高先輩』というのは、恐らく彼のことだろう。
アツシの言によれば、彼女はコウイチが好きなのだそうだ。なるほど、落ち着いた雰囲気といい整った顔立ちといい、年下の人間が男女問わず憧れそうな人種のようだ。更に元弓道部部長で成績も学年上位とくれば文武両道、ほぼ完璧な人間だろう。そりゃ好きにもなるな、と内心でミキに同意した。
「トワ」
コウイチはすっとユウのノートから顔を上げ、トワを呼んだ。彼女はシュウジの数学を見ている。
「ん?」
「ここってさ」
彼はトワにノートを見せ、ある一点を指差した。特に説明を求めるでもなく、彼女は軽く頷く。
「ああ、落下だからそれでいいの」
「だよな、悪い」
ただの確認だったのか、それだけ話してコウイチはユウを呼んだ。
「これは単なる計算ミス。符号を二乗し忘れてる」
「え、うわほんとだ!」
あれだけ悩んで結果がそれか、とユウが頭を抱えているのを見て、コウイチは苦笑した。
「俺もどっちかといえば文系だから、そういうミスもたまにやるよ」
「そういえば、宗方先輩は理系って聞きましたけどトワ先輩は?」
「私も理系だよ、化学は嫌いなんだけどね」
トワがユウのほうを見て答えると、シュウジが恨めしげに顔を上げた。
「朝倉ー。姉貴はトワ先輩で、俺は宗方先輩なのか?」
「何言ってんの。シュウと区別するためにそう呼んでもらってるんだから、あんたが苗字で呼ばれないと意味無いじゃない」
「俺への嫌がらせを兼ねてんのかよ! やだやだ俺もシュウ先輩って呼ばれたいっ!」
「よしシュウ先輩、うるさいからそこの柵乗り越えて旅立ってくれ」
「どこに?!」
そんなやりとりを目の当たりにして、ユウはひとつ、結論を出した。
(……先輩ってヤラレキャラなんだ)
本人にはとても言えない結論であった。
「えっと、毎回こんなふうにテスト勉強してるんですか? 宗……シュウ先輩も成績いいって聞きますし」
そろそろ話題を変えないと若干一名が可哀想だと思ったユウは、途中でシュウジに目で訴えられて呼称を改めながら疑問を投げかけた。
ユウの疑問に対し、トワはこの上ない笑顔を見せる。
「ああ。それは試験前に私とコウで試験範囲を、全部、力の限り叩き込むから」
「叩き込むんですか、力の限り……」
「へへー。今日は朝倉も道連れだからな」
「嬉しそうですね先輩」
ユウの中のシュウジ像がここ数十分で大きく変わっていくのに、ユウ自身も気付いていた。
頼りがいのある兄貴肌の先輩から、年上に逆らえないヤラレキャラへ。それはもう、滞りなく移行していく。
その間、無言でユウの古典の出来具合を見ていたコウイチが、そこで口を開いた。
「朝倉は……基礎はしっかりできてるな。しいて言うなら、ここは二重敬語ってのを押さえておいたほうがいい。他に解けない問題があったら声を掛けてくれ、基本的には二人でシュウを鍛えてるから」
そう言うと、コウイチはシュウジの現文のテキストを手にとってそちらへ向き直った。
「……あ、シュウ先輩が死んだ」
ユウは声に出さず嘆息した。
梅雨の時期は雨が鬱陶しかったのに、こうも日照りが続くとたまには雨でもいいよと空に諭したくなってくる。
いつものように、彼は早朝ゆえに人の少ない通学路を歩いていた。今日は一段と暑い。元々汗っかきなほうではないのだが、それでも額からつーっと水滴が流れ落ちてきた。
――水分補給をするべきだ。
いつもなら飲み物は学校で購入するのだが、この暑さの前で無茶はいけない。これから朝練もあることだし、と自身を納得させて、ちょうど通りかかったコンビニの自動ドアの前に立った。
静かにスライドする硝子の板。噴き出してくる冷気に、ユウはほっと息をついた。
「いらっしゃいませー」
レジにいる店員の間延びした声を背に受けながら、ドリンクのコーナーに向かい、迷わずスポーツドリンクを手にとった。
五百ミリリットルのペットボトル。フタのすぐ下に小さな袋がついており、中には紺色のマスコットが入っていた。形からしてペンギンのようだが、こちらに背を向けているので、どういうキャラクターなのかは分からない。
飲み物そのものは食事のお供にはいささか甘過ぎるが、昼食の時は学校で別の飲み物を買いなおすつもりだから別にいい。それに、恐らく午前中でこのドリンクは飲み干してしまうだろう。
「百四十七円になります。袋にお入れいたしますか?」
「いえ」
「かしこまりました」
出来ることならずっとこの涼しい空間にいたいものだが、だからといって朝練に遅れる気はないので、ユウはさっさと会計を済ませてしまう。
自動ドアのほうへ向かいながら深呼吸して、名残を惜しむように冷気を肺いっぱいに吸い込んだ。足が自動ドアの前で止まる。
「ありがとうございましたー」
店員の声を再び背に受けながら、ユウは襲い来るだろう熱気の壁を睨みつけて、コンビニの外へ一歩踏み出した。
むわ、と全身にぶつかってくる熱気。予想通りだ。直射日光が弱いだけ真昼よりましだ――無意味な比較をして自身を励ましながら、彼は通学路へ戻る。
歩きながらマスコットの入った袋を外し、ペットボトルの蓋を開けて、一口飲む。舌が痺れるような甘みとわずかな塩気に、これは甘すぎたと顔をしかめた。
「あ、朝倉」
いつもより少し遅く、ナギサがユウに追いついてきた。彼の手にある汗をかいたペットボトルに気付き、声を上げる。
「ずるい!」
「何が!」
理不尽な文句に言い返しながら、そういえばとユウは制服のポケットに放り込んだマスコットのことを思い出した。
いつの間にかペットボトルがナギサの手に移動しているが、それは見なかったことにしておく。
マスコットの入っている袋は透明なビニールで出来ており、開封せずとも中を見て取ることができた。
「……なにこれ」
そう零したのは、横から手元を覗き込んできたナギサだった。
「吉野、ドリンク返せ」
「ん、ゴチになりました」
「許可してない……」
勝手に飲んだらしく、ペットボトルの中身は目減りしていた。お互い間接キスなどと騒ぐほど子供でも乙女でもなかったので、ユウは純粋に数円分のスポーツドリンクを失ったことにため息をつく。別にケチなわけではないが、損は損だ。しかも、自分が許容どころか想定すらしていなかった類の。
それはともかく、マスコットだ。丸々とした紺色のペンギンは、ユウから見れば不細工なことこの上なかった。
「で、なにこれ」
「知らね。これ買ったらくっついてた」
再度聞いてくるナギサに、彼女から取り返したペットボトルを示してそう答える。それからふと思いついて、マスコットを袋ごとナギサに投げ渡した。
「やる」
「わーい」
ちっとも喜んでなさそうに棒読みで言って、ナギサはマスコットを開封した。
「携帯につけよ。よく見れば愛嬌があって可愛いかも?」
「疑問形……」
いつもと同じそんなやり取りをしながら、彼らは今日も朝練をしに学校へ向かう。
◇
「高崎。これ、昨日のおかえし」
朝練を終えて教室に着くと、ユウはカバンから一枚の音楽CDを取り出してカオルの席へ歩いていった。
こちらへ転校してきてから、カオルには本やらCDやらを借りてばかりだったのだ。それはそれで申し訳なかった。
幸いなことに、ユウと彼の音楽の趣味は不思議なほどに一致している。音楽CDならハズレは無いだろう。
「ん。……あ、このバンド知ってる! この辺の店だと置いてなかったんだよ」
ユウの予想通り、カオルの反応は悪くないものだった。それどころか、思ったよりも喜んでもらえたようだ。ユウの顔も、自然と笑みを作る。
「前の学校行ってた時に買ったんだ」
「うわーありがとう! 一度聞いてみたかったんだけど、レンタルも見つかんなかったんだよ。ネット通販は親が許さないしさ」
カオルが喜々としてCDをバッグに仕舞いこんだ直後、本鈴が鳴った。
◇
放課後になり、ユウは荷物を持って図書室に向かっていた。試験に向けて勉強するためだ。
ユウにとっては、この学校に来てから初めての定期試験。授業のペースもまだ身についたとはいえない。少し意識して勉強しておいた方がいいだろうと思ったのだ。
自宅は勉強には向かない。母親もパートで働いていて不在だが、近所の子供の遊ぶ声というものは思ったよりも気になるし、掛かってくる妙な勧誘の電話や訪問客のインターホンもうざったい。休憩とばかりに音楽でもかけてしまったが最後、その日はきっと二度とノートなんか開かないだろう。
近所の図書館に寄ろうか、と考えたところで、ユウは昨日見たほとんど無人の図書室を思い出したのだ。
……しかし、彼の予定は図書室の前で変更を余儀なくされた。
「でさあ、……えー!」
戸を開けるまでもなく聞こえる話し声。聞き覚えのない、女子生徒の声だ。相手の声が聞こえてこないことから予想するに、携帯電話で話しこんでいるのだろう。
(昨日はあんなに静かだったのに……)
ミキやアツシと違い、今日の当番はお喋りな人間のようだ。これなら自宅のほうがまだ静かだな、とユウはきびすを返した。
廊下を歩きながら、今日のところは教室で問題集でも解いていようかと考える。
階段を下りようとして、上ってきた生徒と目が合った。
「お、朝倉。どうしたんだ、こんなところで」
「先輩」
シュウジだった。買出しにでも行ってきたのか、両手に菓子やジュースの入ったビニール袋をひとつずつ手にしている。
ユウが図書室での勉強を断念したと話すと、シュウジは「ちょうどいい」と階段の更に上の階――屋上を手で示した。
「なんだったら、俺たちと一緒にやるか? どうせあの二人にはお前を紹介するつもりだったし」
「え?」
話が見えずユウが混乱していると、それを察したのかシュウジがすまなそうにはにかんだ。
「俺もこれからテスト勉強。屋上の日陰で菓子でもつまみながら」
「さっき俺
「おう。分からないとこ、遠慮なく質問できるぞ。三年の成績上位が二人もいるからな」
ユウは窓の外を見た。雨が降る様子はないし、風もそんなに強くなさそうだ。
「あ……じゃあ、お邪魔します」
紹介するつもりだった、という言葉に引っかかりを感じながら、ユウはありがたく勉強会に参加させてもらうことにした。
二人で階段を駆け上がり、両手が塞がっているシュウジの代わりにユウが屋上への扉を押し開ける。
「こっち」
シュウジはユウを先導して、校舎の日陰になっている場所へ回り込んだ。
そこには何故か大きめのレジャーシートが敷かれており、四隅を風で飛ばされないように分厚い辞書で押さえられていた。
その上に、ひと組の男女が座っている。シートの外に揃えて置かれているのは、三年生を示す色をした二足の上履き。
「お帰り、シュウ。その子は?」
大人びた印象の男子生徒のほうが、シュウジからビニール袋を受け取りながらユウに目を向けた。
「この間話した新入部員。勉強する場所がないって言うから連れて来た」
二年生であるはずのシュウジが、三年生であるはずの彼に気安く声をかける。
それを疑問に思いながらも、ユウは慌てて頭を下げ、名を名乗った。
その男子生徒は、優しく微笑んで口を開く。
「俺は、この前まで弓道部の部長やってた日高コウイチ。こっちは元・副部長の……」
男子生徒――コウイチが隣の女子生徒へ視線を投げる。のんびりした印象の彼女は、上にだけ学校のジャージを着て、袖まくりをしていた。下は制服のスカートだ。
女子生徒は、発言の前にシュウジを指差した。
「それの姉で宗方トワ。うちの阿呆に言い寄られてない?」
「言い寄るかっ!! しかもそれ呼ばわりかよ?!」
にっこり微笑んでひでえことをのたまうトワに、買ってきたものを袋から出していたシュウジが怒鳴った。
この姉弟をどう呼び分けようかとユウが戸惑っていると、トワはそれを見透かしたように付け足した。
「シュウと紛らわしいだろうから、私のことはトワでいいよ」
つかみどころのない先輩だ、とユウはトワの言葉に頷きながら思った。
シュウジが買ってきた菓子を分けてもらいながら、ユウはコウイチに間違えた問題を見てもらっていた。どこを間違えたのか分からなかったのだ。
物理の計算過程を静かに目で追う彼の横顔を見つめながら、昨日の図書室での出来事を思い出す。
――ミキの言っていた『日高先輩』というのは、恐らく彼のことだろう。
アツシの言によれば、彼女はコウイチが好きなのだそうだ。なるほど、落ち着いた雰囲気といい整った顔立ちといい、年下の人間が男女問わず憧れそうな人種のようだ。更に元弓道部部長で成績も学年上位とくれば文武両道、ほぼ完璧な人間だろう。そりゃ好きにもなるな、と内心でミキに同意した。
「トワ」
コウイチはすっとユウのノートから顔を上げ、トワを呼んだ。彼女はシュウジの数学を見ている。
「ん?」
「ここってさ」
彼はトワにノートを見せ、ある一点を指差した。特に説明を求めるでもなく、彼女は軽く頷く。
「ああ、落下だからそれでいいの」
「だよな、悪い」
ただの確認だったのか、それだけ話してコウイチはユウを呼んだ。
「これは単なる計算ミス。符号を二乗し忘れてる」
「え、うわほんとだ!」
あれだけ悩んで結果がそれか、とユウが頭を抱えているのを見て、コウイチは苦笑した。
「俺もどっちかといえば文系だから、そういうミスもたまにやるよ」
「そういえば、宗方先輩は理系って聞きましたけどトワ先輩は?」
「私も理系だよ、化学は嫌いなんだけどね」
トワがユウのほうを見て答えると、シュウジが恨めしげに顔を上げた。
「朝倉ー。姉貴はトワ先輩で、俺は宗方先輩なのか?」
「何言ってんの。シュウと区別するためにそう呼んでもらってるんだから、あんたが苗字で呼ばれないと意味無いじゃない」
「俺への嫌がらせを兼ねてんのかよ! やだやだ俺もシュウ先輩って呼ばれたいっ!」
「よしシュウ先輩、うるさいからそこの柵乗り越えて旅立ってくれ」
「どこに?!」
そんなやりとりを目の当たりにして、ユウはひとつ、結論を出した。
(……先輩ってヤラレキャラなんだ)
本人にはとても言えない結論であった。
「えっと、毎回こんなふうにテスト勉強してるんですか? 宗……シュウ先輩も成績いいって聞きますし」
そろそろ話題を変えないと若干一名が可哀想だと思ったユウは、途中でシュウジに目で訴えられて呼称を改めながら疑問を投げかけた。
ユウの疑問に対し、トワはこの上ない笑顔を見せる。
「ああ。それは試験前に私とコウで試験範囲を、全部、力の限り叩き込むから」
「叩き込むんですか、力の限り……」
「へへー。今日は朝倉も道連れだからな」
「嬉しそうですね先輩」
ユウの中のシュウジ像がここ数十分で大きく変わっていくのに、ユウ自身も気付いていた。
頼りがいのある兄貴肌の先輩から、年上に逆らえないヤラレキャラへ。それはもう、滞りなく移行していく。
その間、無言でユウの古典の出来具合を見ていたコウイチが、そこで口を開いた。
「朝倉は……基礎はしっかりできてるな。しいて言うなら、ここは二重敬語ってのを押さえておいたほうがいい。他に解けない問題があったら声を掛けてくれ、基本的には二人でシュウを鍛えてるから」
そう言うと、コウイチはシュウジの現文のテキストを手にとってそちらへ向き直った。
「……あ、シュウ先輩が死んだ」