7月8日(木)突発する低気圧
文字数 5,073文字
いつものように朝練を終えて、ユウとナギサは弓道場から校舎へ歩いていた。始業時間の十分前だからか、昇降口の辺りは少し混んでいる。朝練のない生徒が、遅刻ギリギリに来るためだ。
「朝練も今日までか……。身体なまりそう」
ナギサがぼやくように言った。
試験三日前となるので、明日からは朝練も禁止になる。トレーニングだけは続けておかないと痛い目を見るぞ、とユウはシュウジに脅かされていた。
「太ったら指差して笑ってやるよ」
「太りませんっ、勝つまでは!」
「何に勝つんだよ」
いつも通りのやり取りをしながら、どうにか下駄箱へたどり着く。予鈴はまだ鳴っていない。
靴を履き替えて教室へ行こうとすると、目の前を見覚えのある色素の薄い髪が通りすぎた。
「あれ、長谷川さん」
「あ、おはよう。朝練?」
ミキもこちらを振り向いて、にこりと微笑んだ。ユウも頷いて挨拶を返す。
「いつもこの時間?」
「ううん、今日はちょっと寄り道しちゃって。あ、そうだ」
苦笑いを浮かべたミキは、何かを思いついたらしく肩のトートバッグをごそごそと漁る。目的のものはすぐに見つかったらしく、すぐに手を引き抜いた。
色白で華奢な指に、板ガムが二枚摘まれている。
「はい、差し入れ代わり。眠気覚ましにでもどうぞ」
「あはは、ありがとう」
二枚あるのは、恐らく隣にいるナギサの分だろう。ありがたく受け取っておく。
ミキは「じゃあね」と軽く手を振って、小走りに廊下を先に進んで行った。ユウもガムを持っていないほうの手を軽く振り返し、それからガムを両手に一枚ずつ持つ。
「……今の子、誰?」
いつの間にか静かになっていたナギサが、これまた抑揚のない口調でユウに問う。その微妙な変化には気付かずに、ユウはガムを彼女に差し出しながら答えた。
「C組の図書委員さん。はいおすそ分け」
「いらない」
差し出して即座に突き返され、流石にユウもびっくりする。
「え、大丈夫だって。いくら糖分の塊でもガム一枚で太ったりは」
「いらないって言ってるでしょ!」
怒鳴りつけるように言い放つと、ナギサはユウを置いてスタスタと早歩きで去ってしまった。心なしか、歩調が荒れている。
ユウは腹が立つよりも驚きが先に来て、しばらくぽかんとしていたが、鳴り始めた予鈴に気がつくと、慌てて教室に走り出したのだった。
「おはよ、朝倉」
ユウが教室に入ると、早足でカオルが近づいてきた。どうやら担任は遅れているらしい。
彼は横目でナギサをチラリと見て、ユウの耳に口元を近づける。
「いきなりだけどさ、吉野はどうしたんだ?」
「さあ……。さっき、俺もいきなりキレられてさ」
「そりゃまた、リアクションに困るね」
カオルは肩をすくめて、それ以上問いかけることはしなかった。
「まあ、心当たりがないんなら何もできないな。いつも通りにしてればいいんじゃないか?」
「そんなもの?」
「虫の居所でも悪かったんだろうよ、じゃなけりゃ月イチのアレかもな」
男が言うには微妙なネタを織り込んで、カオルは気にするなとユウに告げた。担任がようやく入ってきたのを認めて、二人は急ぎ席に着く。
カオルが、机に頬杖をついて膨れっ面をしているナギサをもう一度見た。
その眼がひどく冷えていることに、ユウは気付かない。
◇
――放課後。ユウは昨日シュウジと約束したとおり、屋上へ足を運んでいた。
空は快晴、暑さもピークは過ぎている。風が少しだけ強い気がするけれど、許容範囲だろう。
しゃがんで足元に手をつくと、ずっと日光に当てられていたコンクリートは熱を溜め込んでいる。ぐるりと校舎――屋上に突き出た校舎の一部の裏に回りこみ、日陰に入った。空気がそこだけ、ひんやりと冷たい。
「やあ、朝倉くん」
「こんにちは、トワ先輩」
日陰にはトワが座っていた。相変わらず下はスカート、上だけジャージを着て袖まくりをしている。よくよく見れば、中に着ているのはTシャツだけで、制服のワイシャツは着ていないようだ。
どうやら、コウイチとシュウジはまだ来ていないらしい。レジャーシートはトワが持ってきていたらしく、既に敷かれていた。
「この間から気になっていたんですけど、ジャージ着てて暑くないんですか?」
「んー、ワイシャツは通気性が悪いからね。それに白は汚れが目立つ。なかなか動きやすいし快適だよ」
トワはそう言って、校舎の壁に背を預けた。ユウも荷物を足元に置いて靴を脱ぎ、彼女の正面にあぐらをかいて座る。シート越しのコンクリートは、思った通りひんやりしていて気持ちよかった。
「……シュウはともかく、コウは遅いな」
ぼそりとトワが言った。
「シュウは今日の分の買出しに行ってるから分かるんだけど」
「トワ先輩は早かったですね」
「まあ、うちの担任はわりと大雑把だから」
「やっぱりホームルームが長引いてるんですかね、コウ先輩」
しばらく世間話をしていたが、四時を過ぎた辺りでトワがため息をついた。
「先に始めてようか。理数系なら見てあげられるよ」
それから十分経って、コンビニ袋を手にしたシュウジが加わった。更に五分後、ようやくコウイチが姿を見せる。
「遅かったね、コウ」
「アルバム委員がなかなか決まらなくて。そっちは決まったのか?」
「ああ、平居と三島が立候補してたよ」
シュウジがユウの左隣、コウイチがシュウジの正面に座る。
ユウはトワとの間に広げていた数学のノートをその場からどかした。先程、きりのいいところまで教えてもらったところだ。ノートのあった場所に、シュウジが買ってきた菓子を広げていく。
「そうだ、シュウ先輩。少し出します」
「いいよ、朝倉。このくらいは俺とトワで出してやる」
慌てて財布を取り出すユウを、コウイチが止めた。受験生ゆえにバイトはできないが、下手に遊ぶこともできないので小遣いも使い道がないのだそうだ。それを聞いて、ユウはありがたく馳走になることにする。
「さて、朝倉くんはこっちおいで。滝沢大先生の生物は、出題方式がちょっと特殊なんだ」
トワに手招きされて、ユウはシュウジと位置を代わった。これで、トワの右側にユウ、シュウジ、コウイチと円形に座ることになる。シュウジはコウイチに地理を見てもらうようだ。
正直な所、生物はユウの得意科目なので、別に教えてもらわなくても大丈夫だと思っていた。しかしテストを作成するのはユウのクラスを担当する教師ではなく、もっとベテランの教師――トワ曰く『滝沢大先生』で、適当な付け焼刃の勉強では太刀打ちできないような出題をするのだとカオルに脅かされて不安になったのだ。
「お前、本初子午線くらい覚えとけ! 中学生レベルじゃないか」
シュウジがコウイチに怒鳴られているのを横目に、ユウはトワに言われるまま、教科書にアンダーラインを引いていた。
五時を過ぎたあたりで、勉強会は自然消滅していた。シュウジに地理を叩き込んでいたコウイチが力尽きたためだ。
三年生は自分の勉強をしているのかとユウは心配になったが、この時期になると三年の授業は今までのまとめのようなもので、それ自体がテスト勉強みたいなものだと当の二人に言われた。
三年二人が率先してだらけ始めたので、ユウもノートを閉じて菓子に手を伸ばす。
「そういえば、今朝のことなんですけど……」
溶けかけのチョコ菓子を食べながら、ユウは今朝のナギサについて三人に話してみた。
自分が何か怒らせたとは思えないし、どうしていいか分からない。太るぞと言ったことに関しても、言った直後はいつも通りだったわけで、あの発言が原因ではないだろう。
あれから、ナギサとは話すどころか、顔を合わせてもいない。
「んー、じゃあ朝倉。吉野が怒る直前は何してたんだ?」
「隣のクラスの子にガムもらいましたけど……」
シュウジの問いに答えると、彼は何か納得したようにうんうんと頷いた。
「それ、女の子だろ。もしかして結構可愛いほうだったり?」
何で女の子だってわかるんだろう。内心で首を傾げつつ、ユウは今朝会ったミキの姿を思い浮かべた。
「女の子は正解です。可愛いってより、美人さんの部類に入ると思いますけど」
「や、そのへんは問題じゃないから」
ユウとシュウジの会話から、三年の二人も大体の事情を察したらしい。ユウだけが、頭にクエスチョンマークを浮かべている。
「ナギちゃんがねえ……」
トワが意味ありげに言った。その横で、ふっと真剣な顔になったコウイチが、ユウの目を覗き込んでくる。
「朝倉。吉野のこと、どう思ってる?」
「え。……元気が過ぎてやかましい、にぎやか担当だと」
「あー、分かった。この件でお前に出来ることは何もない」
ユウの回答を途中で遮り、コウイチは呆れたように言い切った。シュウジも苦笑いしている。
今度はトワが「朝倉くん」と静かにユウを呼んだ。いつも通り、彼女はゆったりと微笑んでいる。
「今回のことは、言ってみればナギちゃんのワガママみたいなものだよ。ナギちゃんが自分の気持ちにけりがついて、仲直りしたそうだったら……、そのときに、ちょっときっかけを作ってあげな」
「そんなことで、いいんですか?」
「それ以上は逆効果。いつも通りにしてな」
ユウは少し思案してから、こくりと頷いた。
「わかりました」
「よし」
ユウに出来ることはないという点では、虫の居所が悪かったのだろうというカオルの言は、それなりに当たっていたのかもしれない。
そう考えて、先輩三人の状況把握の早さやカオルの洞察力の深さに、ユウは内心で感心した。自分にはナギサが何を考えているのかなんて、皆目見当もつかない。
「――さて」
トワが立ち上がって伸びをした。ざあ、と風が吹いて、彼女のふわふわした髪と紺のスカートが揺れる。空のペットボトルが音をたてて転がっていくのを、シュウジの手が阻止した。コウイチが制服のポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイを見る。
「五時半か。そろそろ片付けよう」
そう言って、コウイチは率先してゴミを片付け始めた。トワは辞書や参考書を、自分やコウイチのバッグに詰めていく。シュウジがコウイチを手伝っている横で、ユウは慌てて自分の荷物をまとめた。
「シュウ先輩、荷物まとめて置いておきますよ」
「ああ、悪い」
シュウジは返事をしながら、バサバサと音を立ててシートを畳み、ビニール袋に入れて自分のバッグに詰めた。その向こう側に広がる空はまだ青い色をしており、ユウは思わず、自分の携帯電話で時刻を確認してしまった。先程コウイチが口にした通り、五時半を少し過ぎたあたりだった。
「大体六時過ぎるか。一時間も居られないんじゃないか?」
「だよねえ。今日は帰る?」
コウイチとトワが、何事か相談している。しかし、何の話をしているのかわからない。
「どこか行くんですか?」
思い切って尋ねてみると、コウイチが困ったように笑って口を開く。
「予備校の自習室に行くつもりだったんだけど……実際この時間になってみると行く気なくすというか」
彼の傍らで、トワも肩をすくめていた。
「……予備校、行ったほうがいいですか?」
学校の勉強だけでは足りないかと、ユウが少し不安になりながら質問すると、トワが顔の前で、ひらひらと手を振った。否定だ。
「二年までは必要ないよ。私らも三年になって、自習室使いたくて入ったようなもんだし」
苦手な科目を一つしか受講していない、と彼らは話した。その答えに、ユウは少しばかり安堵する。
「それより、部活を頑張りな。大会もあるでしょ?」
続けて何気なくトワが言った言葉に、ユウは自身の状況を思い出して凍りついた。コウイチが彼の変化に気付いて声をかける。
「どうした?」
「……俺、まだ弓矢持ったことないんです」
「ああ、高校から始めたのか。でも、そろそろ持たせると思うから、トレーニングはしといたほうがいい……朝倉?」
ユウの様子がおかしいことにトワも気付き、何か問題があるのかとシュウジを見る。自分の荷物をまとめ終えて傍観していたシュウジは、姉の視線だけの問いかけに対して首を横に振った。
「何か問題でもあるのか?」
シュウジがぽつりと疑問を零すと、ユウは勢いよく彼の顔を見た。
「残り一ヶ月で弓矢使えるようになれと?!」
「大丈夫、大会は八月の終わりだろ? 正味一ヶ月半はある」
「無理です! お願いですから見学と手伝いにしてくださいよ」
「え、やだ」
「やだじゃなくて!」
悲鳴に近い声で抗議するユウに、軽く受け流すシュウジ。そんな二人を見ていた三年生たちは、ふと顔を見合わせると、ほぼ同時に吹き出した。
「朝練も今日までか……。身体なまりそう」
ナギサがぼやくように言った。
試験三日前となるので、明日からは朝練も禁止になる。トレーニングだけは続けておかないと痛い目を見るぞ、とユウはシュウジに脅かされていた。
「太ったら指差して笑ってやるよ」
「太りませんっ、勝つまでは!」
「何に勝つんだよ」
いつも通りのやり取りをしながら、どうにか下駄箱へたどり着く。予鈴はまだ鳴っていない。
靴を履き替えて教室へ行こうとすると、目の前を見覚えのある色素の薄い髪が通りすぎた。
「あれ、長谷川さん」
「あ、おはよう。朝練?」
ミキもこちらを振り向いて、にこりと微笑んだ。ユウも頷いて挨拶を返す。
「いつもこの時間?」
「ううん、今日はちょっと寄り道しちゃって。あ、そうだ」
苦笑いを浮かべたミキは、何かを思いついたらしく肩のトートバッグをごそごそと漁る。目的のものはすぐに見つかったらしく、すぐに手を引き抜いた。
色白で華奢な指に、板ガムが二枚摘まれている。
「はい、差し入れ代わり。眠気覚ましにでもどうぞ」
「あはは、ありがとう」
二枚あるのは、恐らく隣にいるナギサの分だろう。ありがたく受け取っておく。
ミキは「じゃあね」と軽く手を振って、小走りに廊下を先に進んで行った。ユウもガムを持っていないほうの手を軽く振り返し、それからガムを両手に一枚ずつ持つ。
「……今の子、誰?」
いつの間にか静かになっていたナギサが、これまた抑揚のない口調でユウに問う。その微妙な変化には気付かずに、ユウはガムを彼女に差し出しながら答えた。
「C組の図書委員さん。はいおすそ分け」
「いらない」
差し出して即座に突き返され、流石にユウもびっくりする。
「え、大丈夫だって。いくら糖分の塊でもガム一枚で太ったりは」
「いらないって言ってるでしょ!」
怒鳴りつけるように言い放つと、ナギサはユウを置いてスタスタと早歩きで去ってしまった。心なしか、歩調が荒れている。
ユウは腹が立つよりも驚きが先に来て、しばらくぽかんとしていたが、鳴り始めた予鈴に気がつくと、慌てて教室に走り出したのだった。
「おはよ、朝倉」
ユウが教室に入ると、早足でカオルが近づいてきた。どうやら担任は遅れているらしい。
彼は横目でナギサをチラリと見て、ユウの耳に口元を近づける。
「いきなりだけどさ、吉野はどうしたんだ?」
「さあ……。さっき、俺もいきなりキレられてさ」
「そりゃまた、リアクションに困るね」
カオルは肩をすくめて、それ以上問いかけることはしなかった。
「まあ、心当たりがないんなら何もできないな。いつも通りにしてればいいんじゃないか?」
「そんなもの?」
「虫の居所でも悪かったんだろうよ、じゃなけりゃ月イチのアレかもな」
男が言うには微妙なネタを織り込んで、カオルは気にするなとユウに告げた。担任がようやく入ってきたのを認めて、二人は急ぎ席に着く。
カオルが、机に頬杖をついて膨れっ面をしているナギサをもう一度見た。
その眼がひどく冷えていることに、ユウは気付かない。
◇
――放課後。ユウは昨日シュウジと約束したとおり、屋上へ足を運んでいた。
空は快晴、暑さもピークは過ぎている。風が少しだけ強い気がするけれど、許容範囲だろう。
しゃがんで足元に手をつくと、ずっと日光に当てられていたコンクリートは熱を溜め込んでいる。ぐるりと校舎――屋上に突き出た校舎の一部の裏に回りこみ、日陰に入った。空気がそこだけ、ひんやりと冷たい。
「やあ、朝倉くん」
「こんにちは、トワ先輩」
日陰にはトワが座っていた。相変わらず下はスカート、上だけジャージを着て袖まくりをしている。よくよく見れば、中に着ているのはTシャツだけで、制服のワイシャツは着ていないようだ。
どうやら、コウイチとシュウジはまだ来ていないらしい。レジャーシートはトワが持ってきていたらしく、既に敷かれていた。
「この間から気になっていたんですけど、ジャージ着てて暑くないんですか?」
「んー、ワイシャツは通気性が悪いからね。それに白は汚れが目立つ。なかなか動きやすいし快適だよ」
トワはそう言って、校舎の壁に背を預けた。ユウも荷物を足元に置いて靴を脱ぎ、彼女の正面にあぐらをかいて座る。シート越しのコンクリートは、思った通りひんやりしていて気持ちよかった。
「……シュウはともかく、コウは遅いな」
ぼそりとトワが言った。
「シュウは今日の分の買出しに行ってるから分かるんだけど」
「トワ先輩は早かったですね」
「まあ、うちの担任はわりと大雑把だから」
「やっぱりホームルームが長引いてるんですかね、コウ先輩」
しばらく世間話をしていたが、四時を過ぎた辺りでトワがため息をついた。
「先に始めてようか。理数系なら見てあげられるよ」
それから十分経って、コンビニ袋を手にしたシュウジが加わった。更に五分後、ようやくコウイチが姿を見せる。
「遅かったね、コウ」
「アルバム委員がなかなか決まらなくて。そっちは決まったのか?」
「ああ、平居と三島が立候補してたよ」
シュウジがユウの左隣、コウイチがシュウジの正面に座る。
ユウはトワとの間に広げていた数学のノートをその場からどかした。先程、きりのいいところまで教えてもらったところだ。ノートのあった場所に、シュウジが買ってきた菓子を広げていく。
「そうだ、シュウ先輩。少し出します」
「いいよ、朝倉。このくらいは俺とトワで出してやる」
慌てて財布を取り出すユウを、コウイチが止めた。受験生ゆえにバイトはできないが、下手に遊ぶこともできないので小遣いも使い道がないのだそうだ。それを聞いて、ユウはありがたく馳走になることにする。
「さて、朝倉くんはこっちおいで。滝沢大先生の生物は、出題方式がちょっと特殊なんだ」
トワに手招きされて、ユウはシュウジと位置を代わった。これで、トワの右側にユウ、シュウジ、コウイチと円形に座ることになる。シュウジはコウイチに地理を見てもらうようだ。
正直な所、生物はユウの得意科目なので、別に教えてもらわなくても大丈夫だと思っていた。しかしテストを作成するのはユウのクラスを担当する教師ではなく、もっとベテランの教師――トワ曰く『滝沢大先生』で、適当な付け焼刃の勉強では太刀打ちできないような出題をするのだとカオルに脅かされて不安になったのだ。
「お前、本初子午線くらい覚えとけ! 中学生レベルじゃないか」
シュウジがコウイチに怒鳴られているのを横目に、ユウはトワに言われるまま、教科書にアンダーラインを引いていた。
五時を過ぎたあたりで、勉強会は自然消滅していた。シュウジに地理を叩き込んでいたコウイチが力尽きたためだ。
三年生は自分の勉強をしているのかとユウは心配になったが、この時期になると三年の授業は今までのまとめのようなもので、それ自体がテスト勉強みたいなものだと当の二人に言われた。
三年二人が率先してだらけ始めたので、ユウもノートを閉じて菓子に手を伸ばす。
「そういえば、今朝のことなんですけど……」
溶けかけのチョコ菓子を食べながら、ユウは今朝のナギサについて三人に話してみた。
自分が何か怒らせたとは思えないし、どうしていいか分からない。太るぞと言ったことに関しても、言った直後はいつも通りだったわけで、あの発言が原因ではないだろう。
あれから、ナギサとは話すどころか、顔を合わせてもいない。
「んー、じゃあ朝倉。吉野が怒る直前は何してたんだ?」
「隣のクラスの子にガムもらいましたけど……」
シュウジの問いに答えると、彼は何か納得したようにうんうんと頷いた。
「それ、女の子だろ。もしかして結構可愛いほうだったり?」
何で女の子だってわかるんだろう。内心で首を傾げつつ、ユウは今朝会ったミキの姿を思い浮かべた。
「女の子は正解です。可愛いってより、美人さんの部類に入ると思いますけど」
「や、そのへんは問題じゃないから」
ユウとシュウジの会話から、三年の二人も大体の事情を察したらしい。ユウだけが、頭にクエスチョンマークを浮かべている。
「ナギちゃんがねえ……」
トワが意味ありげに言った。その横で、ふっと真剣な顔になったコウイチが、ユウの目を覗き込んでくる。
「朝倉。吉野のこと、どう思ってる?」
「え。……元気が過ぎてやかましい、にぎやか担当だと」
「あー、分かった。この件でお前に出来ることは何もない」
ユウの回答を途中で遮り、コウイチは呆れたように言い切った。シュウジも苦笑いしている。
今度はトワが「朝倉くん」と静かにユウを呼んだ。いつも通り、彼女はゆったりと微笑んでいる。
「今回のことは、言ってみればナギちゃんのワガママみたいなものだよ。ナギちゃんが自分の気持ちにけりがついて、仲直りしたそうだったら……、そのときに、ちょっときっかけを作ってあげな」
「そんなことで、いいんですか?」
「それ以上は逆効果。いつも通りにしてな」
ユウは少し思案してから、こくりと頷いた。
「わかりました」
「よし」
ユウに出来ることはないという点では、虫の居所が悪かったのだろうというカオルの言は、それなりに当たっていたのかもしれない。
そう考えて、先輩三人の状況把握の早さやカオルの洞察力の深さに、ユウは内心で感心した。自分にはナギサが何を考えているのかなんて、皆目見当もつかない。
「――さて」
トワが立ち上がって伸びをした。ざあ、と風が吹いて、彼女のふわふわした髪と紺のスカートが揺れる。空のペットボトルが音をたてて転がっていくのを、シュウジの手が阻止した。コウイチが制服のポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイを見る。
「五時半か。そろそろ片付けよう」
そう言って、コウイチは率先してゴミを片付け始めた。トワは辞書や参考書を、自分やコウイチのバッグに詰めていく。シュウジがコウイチを手伝っている横で、ユウは慌てて自分の荷物をまとめた。
「シュウ先輩、荷物まとめて置いておきますよ」
「ああ、悪い」
シュウジは返事をしながら、バサバサと音を立ててシートを畳み、ビニール袋に入れて自分のバッグに詰めた。その向こう側に広がる空はまだ青い色をしており、ユウは思わず、自分の携帯電話で時刻を確認してしまった。先程コウイチが口にした通り、五時半を少し過ぎたあたりだった。
「大体六時過ぎるか。一時間も居られないんじゃないか?」
「だよねえ。今日は帰る?」
コウイチとトワが、何事か相談している。しかし、何の話をしているのかわからない。
「どこか行くんですか?」
思い切って尋ねてみると、コウイチが困ったように笑って口を開く。
「予備校の自習室に行くつもりだったんだけど……実際この時間になってみると行く気なくすというか」
彼の傍らで、トワも肩をすくめていた。
「……予備校、行ったほうがいいですか?」
学校の勉強だけでは足りないかと、ユウが少し不安になりながら質問すると、トワが顔の前で、ひらひらと手を振った。否定だ。
「二年までは必要ないよ。私らも三年になって、自習室使いたくて入ったようなもんだし」
苦手な科目を一つしか受講していない、と彼らは話した。その答えに、ユウは少しばかり安堵する。
「それより、部活を頑張りな。大会もあるでしょ?」
続けて何気なくトワが言った言葉に、ユウは自身の状況を思い出して凍りついた。コウイチが彼の変化に気付いて声をかける。
「どうした?」
「……俺、まだ弓矢持ったことないんです」
「ああ、高校から始めたのか。でも、そろそろ持たせると思うから、トレーニングはしといたほうがいい……朝倉?」
ユウの様子がおかしいことにトワも気付き、何か問題があるのかとシュウジを見る。自分の荷物をまとめ終えて傍観していたシュウジは、姉の視線だけの問いかけに対して首を横に振った。
「何か問題でもあるのか?」
シュウジがぽつりと疑問を零すと、ユウは勢いよく彼の顔を見た。
「残り一ヶ月で弓矢使えるようになれと?!」
「大丈夫、大会は八月の終わりだろ? 正味一ヶ月半はある」
「無理です! お願いですから見学と手伝いにしてくださいよ」
「え、やだ」
「やだじゃなくて!」
悲鳴に近い声で抗議するユウに、軽く受け流すシュウジ。そんな二人を見ていた三年生たちは、ふと顔を見合わせると、ほぼ同時に吹き出した。