第16話

文字数 9,355文字


「由紀子さんの考えでよく似た地形のこの場所に同じ家を再現しました。ここはわたしとスリムにとっても良い思い出が詰まった心の休まる場所です。そして今はもう見る事が出来なくなってしまったあの地球の景色が見られる唯一の場所になりました」そう言ってシニアは下を向いた。

「さあ、住み慣れた自宅へ行きましょう!」ガッカリしているシニアを見たスリムが再び元気良く言い、先を歩き始めた。

 シニアと栗原は互いの顔を見合わせて微笑むと急いでその後を追った。

「窯や作業小屋もそのまま再現されていますので、陶芸も続けられますよ」スリムが追いついた2人へ振り返り、嬉しそうに言う。

 そうして3人で下る登山道も、そっくりそのままではなかったが雰囲気はあの島そのもので地球を離れて1週間しか経っていなかったが懐かしく感じた。

 自宅の近くまで行くと敷地の裏手から見たその景色に栗原は驚き、
「ここには海もあるんですね」そう呟いて立ち止まる。

 その自宅の敷地に「横井農園」と荷台に文字がある軽トラックまで再現されているのを見た栗原は、自分が地球でしていたように由紀子がここで自分を待っていたのだと知った。

「由紀子は、由起子はどこにいるんですか?」振り返って栗原が訊くと2人は少し気まずそうな表情になる。

「何故、ここにいないのですか? 僕を迎えに来ないのですか?」再び訊ねてみるとシニアが
「由紀子さんはここに来てから、地球からの攻撃を防御するシステムの構築に尽力してくれました。わたし達の科学技術を使ってできる最高のものを構築できるように指導してくれたんです。地球が滅亡した今、もう必要なくなりましたが…」と何故か話を逸らそうとした。

 訊いた事の答えになっていないと思い、
「それで、由起子はどこにいるんですか?」栗原がもう一度同じことを訊くと、
「自宅のリビングにあるタブレットでお話し出来るようになっています」シニアは答えにくいのか、それだけ言うと下を向いてしまった。

 これ以上、訊いても無駄だと思った栗原が自宅へ走り、縁側からリビングに入るとソファのテーブルの上に1台のタブレット型コンピューターが置かれていた。
 画面をタッチするとすぐに明るくなり、テレビ電話を繋ぐ為のアイコンが3つ現れる。

 それぞれのアイコンに『由紀子』『シニア』『スリム』と書かれているのを見て、その名前の人に繋がるようになっているのだと判った栗原はすぐに 『由紀子』と文字のあるアイコンをタッチする。
 元の画面がグレーの枠付きになって小さくなり、右上の角に収まるとそこに自分の上半身が映し出され、同時にプルプルプルプル…と呼び出し音が鳴り響く。
 緊張で口に溜まった唾液を栗原がゴクッと音を立てて飲んだ時、画面に由紀子の顔とその上半身が映った。

 一瞬、何を言ったらよいのか栗原が迷っていると由紀子が先に口を開いた。

「無事で良かった…。また会えて良かった…」由紀子は小さい声で震えるように言う。

 栗原は久しぶりに見た由紀子が何故か別人のように思え、
「由紀子…」ただ呟く事しか出来なかった。

すると由紀子は
「お願いだから私に会おうとはしないで…。私に会う事は諦めて…」と言い、「テレビ電話は何時でも繋がるから、私がいつも側にいると思ってその家で暮らして…」申し訳なさそうに言った。

 栗原はその意味がわからず、
「どうしてそんなことを言うんだ。僕は君に会えると思ったからこうして地球を脱出してきたんだ。会えないなら地球で死ぬのと同じだ」声を大きくして言うと、
「私には違うの。もう会えないと思っていたから…、こうして話せるだけでも幸せよ。もし、話せば会わずにいられなくなると言うのならテレビ電話はやめることになるわ。私を困らせないで…」
 泣きそうになっている画面の由紀子を見て栗原はそれ以上何も言えなくなった。

黙っている栗原に由紀子が
「今日は疲れているだろうからゆっくり休んでね…。何時でも電話してくれれば話せるから、今日はこれで切るわね」そう言うと画面が暗くなった。

 頭の中が混乱していた栗原はどうしてこうなったのか、シニアとスリムに訊こうとしたがその困り切った顔を見て、答えはしないだろうと諦める事にした。

 考えてみれば由紀子が地球を離れた後の1年間は会えないどころか会話すら出来なかったからそれが画面越しだとしても、姿を見ながら話せるのは栗原にとっても大違いだった。
 由紀子が心変わりしていつか会ってくれるかも知れないと思い、栗原は会いたいと言うのをやめてしばらく様子を見る事にした。

 再会した時に由紀子が言っていた通り、テレビ電話を繋げばいつでもその姿を見せて会話をしてくれた。

 地球にいた時は忙しくてなかなか出てくれなかったテレビ電話だったが、ここでは何時でもすぐに繋がり、由紀子の姿を見られて話せたから栗原は事ある毎に呼び出して些細な事でも伝えた。
 食事を摂る時はいつも食卓にタブレットを置き、由紀子と会話を交わしながら食べたし、寝る前におやすみを言うだけの為に呼び出しても嫌な顔一つせず、いつも嬉しそうに「おやすみなさい」と言ってくれるから、画面の中の由紀子と話すだけでも十分に幸せを感じる事が出来たのだった。

 栗原は以前、単身赴任で離れ離れに暮らす夫婦がそれでも幸せだと言うのを信じられない思いで聞いていたが今はそれが良くわかるようになっていた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 陶芸をしながら、由起子とテレビ電話で話すだけの別居生活みたいなものを続けているとあっという間に10年経っていたが栗原が寂しさを感じる事はなかった。
 用事がなくても時々、シニアとスリムが訪ねて来て話し相手になってくれるし、困った時はテレビ電話で2人に相談すればすぐにやって来て解決してくれるので不自由な事もなかった。
 陶芸をしない時は1人で色々な所へ探検に出掛けてみたりもしたが家の周りは豊かな森ばかりで人がいる気配はなく、他のジュシス人に会う事もなかった。

 ある日、栗原が海沿いの道路をずっと歩いてみると1周して元に戻れることがわかり、初めてそこが小さな島になっていることを知った。
 栗原がこれまで経験し、知り得た状況からは島自体が自宅の敷地になっていて、そこに住んでいる他のジュシス人は誰もいないようだった。

 そのことについて由紀子に訊ねると、
「あら、最初に話さなかったっけ?」当たり前のように言って笑っただけだった。

 地球にいる時は島に住んでいたにもかかわらず海と接する機会を持たなかったが、ジュシスに来てからは朝でも夕焼けのような色をしている海の景色が不思議で、栗原はよく海岸に出掛けるようになっていた。
 岩場で海中を覗けば知っている魚に混じり、見た事のない魚が沢山泳いでいるのを知っていた栗原はそれを捕獲しようと今日はタモ網を持参していた。

「よーし、今晩のおかずはどれだ…」そう独り言を言って岩場から海中を覗き込むと、思った通り知らない魚が沢山泳いでいた。
 タモ網の柄を持って勢いよく追いかけるが、見たことのない魚や蟹におっかなびっくりやるので皆、簡単に岩の隙間に逃げてしまう。
 場所を移動しながら同じ事をを繰り返していると、岩場と岩場の間にある小さな砂浜で陸から続く川のような流れがあるのを見つけた。

「どこかに川があるんだ…」その流れを目で辿りそう呟くと今日の目的を川の源流探しに切り替え、栗原は海岸を離れて歩き出した。

 海岸から道路を超えて森の中に入っても流れは続いていて、さらに歩いて行くと山の傾斜を登り始める。
その後、川の流れは20メーター位登ったところで太い排水管のようなものに辿り着き、それ以上は遡る事が出来なくなった。
 排水管からジャバジャバと音を立てながら流れ出ている水の量を見た栗原はそれが山から染み出しているにしては多すぎると感じ、何かの施設から流れ出ているのかも知れないと源流探しは諦める事にした。

 結局、晩飯用のおかずは何も捕まえられず、自宅でそばを茹で始めた栗原はいつものようにテレビ電話を由紀子に繋いだ。

「魚も蟹も捕まえられなかったから、今日もそばを茹でているよ」茹で加減を確認しながら鍋の前で話すと、
「そば以外だって、食べたいものがあれば何でも支給されるわよ。どうしても魚を捕まえて食べたいなら釣り上げる方が簡単かもね。でも、夢中になって海に落ちないでよ」といつものように冗談を言って笑った。

 他愛無い話で散々笑った2人だったが源流探しのことを思い出した栗原は、
「そう言えば海に注ぐ川を見つけたと思って辿ってみたら、排水管に行き当たったんだ。何かの施設がこの山の地下にあるのかなぁ」何気なく訊いてみる。

「えっ、」由紀子が一瞬、動揺したような小さな声を出した。

 そして、
「地下には…公共の施設があちこちにあるから…」何故か由起子は言葉を濁し、「危険だから…そういうものには…、近づかない方がいいわ…」動揺を隠そうとしてなのか歯切れ悪く話す。

 その後はどんな冗談を言っても本気で笑う事はなく、テレビ電話を終えた栗原は何故、その排水管が動揺を誘ったのか気になりだした。

 次の日、再び排水管を訪れた栗原がその水を手に取ると生ぬるかった。

 どんなものが含まれているのかわからないから不安だったが、手に付いたしずくを舐めてみると塩分があるのか少しだけしょっぱい味がした。
 山の伏流水なら塩分が含まれる筈はなく、由起子が話したように何かの施設が海水を汲み上げて利用した後、排水しているのかも知れないと思った栗原はその施設の手掛かりを探そうと森の中をあちこち歩き回ってみたが、それらしいものは何も見つける事が出来なかった。


 敷地の裏手から自宅に戻るとシニアとスリムが縁側の所に立っていた。
 先日、砂浜でキャンプする為の荷物を運ぶのに軽トラックを動かしたいと相談しておいたから、その事でやってきたのだと思った栗原は笑顔で2人に手を振る。

 歩きながら2人の足元に何かあるのに気付き、それがジュニアの遺体を送るのに使ったカプセルだと判って慌てるとその様子を見ていたシニアが
「荷物を運ぶのに使えるから持ってきただけです。驚かせてすみません」と遠くから大きな声で言う。

「どういう事ですか?」2人の元まで来た栗原が訊くと、
「軽トラは忠実に再現したので動力がエンジンなんです。ガソリンの代わりになるものは用意出来ますがそれでは環境によくありませんので、代わりにこれを使ってもらおうと思って持ってきたんです」スリムがそう説明してカプセルを指差し、使い方の説明を始めた。

 その動力は宇宙船のものと同じでその小型版らしいが使い方はもっと簡単でカプセル内に荷物を入れたらふたを閉め、運びたい場所の座標をボディーに付いているボタンで入力するだけだった。
 その座標はインターネット上の地図に表示されているもので自宅にあるタブレットでも調べられるのだと、そのやり方も併せて教えてくれた。
 また、スリムが自宅の座標をメモリーに追加してくれたらしく、一番左側のボタンを押せばカプセルが自動的に家の庭まで荷物を運んでくれるという事だった。

 説明を終えたスリムがカプセルのふたを閉じるとジュニアを送った時の光景が3人の頭の中に蘇りしばらくの間、無言になってしまう。

 栗原が話題を変えようと森の中で見つけた排水管の事を持ち出してで訊いてみる。
「海岸近くの森の中で何かの施設の排水管を見つけたんですよ。地下には何があるんですか?」

「えっ、施設ですか…」シニアが一瞬の動揺を見せてそう答えた。

 スリムの顔を見ると明らかに動揺しているので、
「何か見てはいけないものでもあるんですか?」再び栗原が訊くと、
「……………」2人は動揺を隠せず、下を向いて黙ってしまった。

 シニアとスリムは動揺などの複雑な感情を持つまでになっていたが地球人のようにそれを隠す術はまだないらしく、それが手に取るようにわかった。

 栗原はこれまで10年間、ずっと持ち続けてきた疑問を正直にぶつけてみることにした。

「由紀子の事で僕には教えられない重大な秘密があると感じていましたが、その施設が関係していると思えてなりません。しかし、その辛そうな顔を見ていると打ち明けてくれとも言えないので、自分で手掛かりを探します」2人の目を見ながらそう言った後、
「もし、由起子が既に亡くなっているのならそう言ってください。テレビ電話で生きているように装っていたのなら探しても意味がないですから…」と訊ねてみたが2人はそれにも答えられなかった。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 シニアとスリムへ由紀子の秘密について訊ねて以来、来る日も来る日も地下にある施設を探して森の中を歩き回ったが何の手掛かりも見つけられずに5年が過ぎ、栗原は52歳になっていた。

 いつものように朝から森の中を探索していた栗原は山の斜面の風景に違和感を持った。

 目を凝らして観察すると苔むした大きな岩の隣に自然に溶け込んで見える人工的な直線を見つけ、詳しく調べる為に登っていく。
 直線に見えている部分の苔を手袋の手を使ってそぎ落とすようにすると、
「これがずっと探していたものかも知れない…」と呟き、そこに残る苔や周りに絡みついた蔦を急いで払いのけていった。

 大まかな部分が露になった時点で一旦斜面を降り、少し離れた所から眺めてみると一辺が3メートル程ある立方体がその半分を山の斜面に埋めるように設置されていた。
 それを見た栗原はスリムが自分の家だと言って見せた、粘土の四角いブロックを思い出した。

 再びそこへ戻り、正面の泥を払い除けていくとドアのような長方形の筋が見て取れるようになった。
 鍵穴のようなものが見当たらないのでとりあえず押してみたがビクともせず、引いて開けるのだと思ったが手掛かりがなくてどうにもならない。
 おそらく地下にある施設の非常口か何かで内側からしか使わないようになっているのだと考えた栗原は、持ち歩いているタブレットを取り出してその場所をマークすると来た道を戻り始めた。

 自宅に戻った栗原はすぐにロープやスコップ、バールやライトなど、探索に必要なものをアトリエから取り出してカプセルに積み込み、先程マークしておいた座標を入力して送ると自分も再びその場所を目指す。

 50分後、立方体を発見した場所まで行くと既に到着していた荷物運搬用のカプセルからバールを取り出し、ドアの隙間に差し込んで軽くこじってみる。

 すると、ガクッと音がして5センチ程の隙間が出来たので一旦バールを置き、両手を差し込んで引いてみるとそこからは滑らかにドアが開いた。

 苔が生えて土にまみれた外観とは反対にドアの中は真っ白くツルツルした壁がずっと奥まで続き、そっと足を踏み入れた栗原はそこが神聖な空気で満たされているように感じた。
 ドアをそのままにしておくかどうか悩んだが見たところ内側からは簡単に開けられそうだし、動物が侵入して探索の邪魔をされても困るから取っ手を引いて閉めることにした。
 暗闇になると思い、栗原は首から下げたライトのスイッチに手をやったがその白い壁はほのかに発光していて、ドアを閉めてもまっすぐな廊下がずっと続いているのが見える。

 その廊下は進んで行くと思っていたより長く、5分程歩いてようやく真っ暗でその先が何も見えない大きな空間の入り口に辿り着いた。
 その暗い空間には川があるのか水の流れる音があちこちから聞こえ、ドアから入った時に感じた神聖な空気はそこから出ているようだった。

「あの水はここから、流れ出ていたのか…」
 栗原の頭の中に森で見つけた排水管が蘇り、思わずそう呟く。

 遂に、長年探し続けた由紀子の秘密に辿り着いたと思いながらも見れば全てが終わってしまいそうな気がして、首から下げたライトのスイッチに手を掛けたまま栗原は迷っていた。

 しばらくの間、暗い空間の前で何も出来ずにいると突然、暗い空間の間接照明がほのかに点灯し始め、真っ白い洞窟のような内部を栗原の目に映し出した。

 教会くらいの広さがあるその空間は円形で白いアイスクリームが至る所で溶けて垂れたみたいなでこぼこした壁で囲われ、鍾乳洞のような景観を見せていた。
 あちこちから染み出た水がそのでこぼこした壁を伝って上の方から流れ落ち、10メートル位の高さの天井は教会のドームのような形をしている。
 白い床は中央の部分で扇状のステージとなっていてその縁に沿うように川があり、ここへ入る前に聞いた水音はその川が流れる音だと判った。

 ステージ上には教会にある聖卓のような台が置かれ、その後ろに天井まで届きそうな葉の茂った天然の木が1本、異彩を放って立っている。
 その樹木を中心にして放射状に真っ白い石で出来たテーブルのような台が4つ置かれ、一番左の台上にはジュシスの人が星へ遺体を送る時に使うカプセルが置かれていた。

 栗原はそれを見て驚き、
「まさか…」かすれた声で呟いてその場に立ち尽くした。

 栗原の目には4つのテーブルが棺を置く台で、1本の樹木はその墓標として映った。
 もし、ここが由紀子の重大な秘密と関係のある場所であるなら、そこに置かれているカプセルはその棺だという事になる。

 やはり由紀子は亡くなっていたのだ。

「由紀子!」栗原はそう叫んでカプセルに走り寄る。

「辰則…、私はここよ…」どこからか静かな由紀子の声が聞えた。

 それがどこから響いて来たのかわからず栗原が見回すと、聖卓のように見えていた台の一部がスクリーンになっていたらしく、そこに由紀子の姿が映し出されていた。

「由紀子…、君はもう…」
 台上に置かれたカプセルとスクリーンに映る由紀子を交互に見ながらそこまで言うと、
「カプセルの中は私じゃなくて、ジュニアちゃんよ。遺体をここに呼び戻したの」
 スクリーンの中の由紀子が寂しそうに言った。

「じゃあ、君は?」すぐに栗原が訊くと、
「私は…、生きているわ…」由紀子はためらいながら消え入るような声で言った。

「それならどうして会いに来てくれなかったんだ?」栗原がずっと募っていた思いをぶつけると、
「すべてを話すから聞いて…」由紀子が静かに応えた。

 少しの沈黙の後、再び話し出した。

「私はここへ来てから、ジュシスの皆を地球の攻撃から守るために生きようと決めたの。戦う事を知らないジュシスの人に代わって私がここを守る事にしたのよ。そして、地球が滅亡する前に辰則を救出しここで一緒に暮らそうと…」そう言うと画面の由紀子が下を向いた。

 そして再び口を開くと、
「…地球がいつまで続くのか分からないから、私は出来るだけ長く生きなくてはと考え…、決断したの………」そこで話が途切れた。

「………………」

 栗原はその先を聞くのが怖くて黙っていたが長い沈黙の後、何か言わないと由紀子が話せないのだと悟り、
「…何を決断したというんだ」勇気を出して訊ねると由紀子は
「…身体を、……捨てること、…」やっと聞こえる位の声で途切れ途切れに答えた。

「えっ、」
 栗原は声にならない声で言う。

 何故だか分からないが、その瞬間から由紀子が手の届かない所に行ってしまったように感じた栗原は何も言えずにいた。

 しばらくして、
「捨てる…って、どういうことだ?」栗原がすがるように訊くと、
「目の前にある木の上の方を見て…」由紀子の小さな声が震えていた。

 聖卓の後ろにある太い幹を辿りながら視線を上げると3メートル位の高さで2つに枝分かれするその場所に何か淡いピンク色をしたものがあるのが分かった。

 それが由起子が示そうとしているものかは分からなかったが、栗原は見てはいけないものを見てしまったように感じてすぐにその物体から目を逸らす。
 ドキドキと自分の鼓動がとてつもなく大きく聞こえ、それに合わせてめまいのように頭がクラクラして徐々に身体中の感覚が遠のいていった。

 どれだけそれが続いたのか栗原にはわからなかったがやがて、
「…見なくてもいいわ…。私の事を忘れてくれるなら…」スクリーンの由紀子がその長い沈黙を破って静かに言った。

 栗原はそう言われて自分が見たものが由起子が見せたいものだと気づき、
「何故だ! 何故、君を忘れなければならないんだ!」そう叫ぶと木の前にある4つの台の1つに登り、その物体を間近で見る。

「これは何…」そう言おうとしてその背筋を冷たいものが走る。
 栗原は由起子が言ったその言葉の意味をたった今、理解したのだった。

 全身の力が抜けていく感じがして、
「由紀子…、どうして…」力なく呟くと台の上で膝をついた。

 栗原の目からは涙が溢れ始めた。
 膝をついたまま木の幹に額を押し当て、両方の拳でその太い幹を叩いて泣き続けた。

 泣きながら栗原の頭の中では由紀子との様々な思い出が映像となって蘇り、その思い出ごとに大粒の涙が溢れていく。
 どのくらい泣いていたのかわからなかったが、流した涙が少しずつ栗原を正気に戻した。

 涙を拭いて立ち上がった栗原は再びその物体を見る。

 それは淡いピンク色をした人間の脳そのものだった。

 下の方からは細い管のようなものが無数に出て枝分かれしながら太い幹の上を這うように降り、木の根と同化して消えていた。
 そうやって人間の脳は完全に1本の樹木と一体化して見えた。

 由紀子が言った「身体を捨てる」とはこの事だったのだ。

 栗原が木の幹にしがみ付くようにして見詰めていると、
「わかってくれるとは思わないけど…。私はこれで長く生きられるの。長い間、ジュシスの人達を守れるの…」と声を震わせながら、「私はこの木を通じて島の木々や全ての生き物とコミュニケーション出来るの。そして辰則が島の何処で、何をしているのかを感じることが出来るの…」泣き声で由紀子が話す。

「どれだけ長く生きられるかわからないけど、シニアとスリムそして辰則を看取ってここに葬り、この鎮魂の曲と共に私がずっと守り続けるつもりよ…」
 その言葉を最後にスクリーンの由紀子は姿を消した。

 どこからかリコーダーの演奏が流れてくる。
 それはジュニアがおばあさんの鎮魂の為に島の広場で奏でた曲だった。

 栗原は由起子が消えたスクリーンを見つめて、もう2度とタブレットの画面の中で会って話す事も出来ないだろうと思っていた。

 肩を落としながら栗原がカプセルに歩み寄ると、地球のアトリエでジュニアが由紀子と2人で創った粘土のガーベラがそこに置かれ、古いアルバムにある写真を見た時のように懐かしくて空しいような感覚を栗原の胸に蘇らせた。
 そして、カプセルの中には送った時のままのジュニアが当時のまま鮮やかなオレンジ色をした4つのガーベラと共にいた。


 栗原は生きる為のエネルギーを全て抜かれて重くなった身体を引きずるようにして長い廊下を戻りながら、地球の島で由紀子と過ごした平和な日々を思い出していた。
 故郷の地球だけでなく、とうとう由起子まで失ってしまった栗原はそれらが自分にとってどれだけ大切なものだったのか初めて知ると同時に、当たり前だと思っている事の脆さは失ってみるまで決して気付かないものだと思った。
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