第12話

文字数 9,667文字


「我々が武力を持たない理由を理解して頂けましたか」ずっと黙っていた大臣が口を開いた。

 栗原は話を聞いている内にこれからやろうとしている事がとても無駄に思え始めた。

 いくら地球が彼らの故郷だとしても、ここまで発展した平和主義のジュシスが滅亡してしまう危険を冒してまで地球の環境汚染を食い止める必要があるのだろうか。
 戦う事を知らず自然環境を大切にする、そんな人達が住む自然豊かな星と50年も持たない程に環境破壊が進んでしまった星を比べたら後者を切り捨て、前者の発展に専念するのが当然ではないのだろうか。
 地球に住む自分は彼らの力を借り、この星を救いたいと思うがその代償がジュシスの滅亡だとしたら余りに大きすぎるし、そこまでして地球で生き残りたいわけではないと栗原は思った。

 自分はどうしたら良いのかわからなくなり、黙り込んでしまった栗原に大臣が
「なぜそんなに地球にこだわるのかとお考えかも知れませんが、祖先が地球で発生したことが判った今、我々は地球に暮らすのが自然なのです。今、住んでいる星は私達がいるべき所ではなく、あくまで借りている場所なのです。出来る限り早く元の環境に戻して我々は立ち去るべきで、それが宇宙全体の自然な姿を保つ事に繋がると考えているからこだわるのです。広大な宇宙にとってはごく小さな事に思えますが、そういった小さなものの集まりで宇宙は出来ており、その影響は限定的なものでは済まされません。常に自然に任せた変化を超えるようなものを我々がもたらしてしまうことの無いよう、注意していないと元には戻せなくなってしまうのです。地球の環境もそれと同じで、劇的に変化すればその影響が宇宙に存在する沢山の小さなものに及び、太陽系の惑星配置を変えてしまう結果に繋がるかも知れません。そうなればもう元に戻すことは出来なくなってしまうのです。太陽系の環境変化は連鎖的に宇宙全体に及んでいきその結果、何が起こるのかは私達にもわかりません」その理由を詳しく話した。

 栗原はその話を聞いて初めて、地球やジュシスといった星のことだけを考えれば済むわけではない宇宙全体の問題だと理解した。
 彼らのような正しい論理に基づいて宇宙という大きなスケールの環境を考えれば、地球のことだといって放っておける問題ではないのだ。
 ようやく実行しないという選択が無いことを理解した栗原はそれをやる以上、危険を避けることは出来ないと悟った。

「どういう方法で実行するにしてもこの計画には危険が伴いますが、どうお考えですか?」念のため大臣に確認すると、
「どんな危険が伴うのかわかりませんが、仕方ありません」と答え、栗原が思った通り覚悟は出来ているようだった。

「わかりました。では、出来るだけ安全に進められるように計画を考えましょう」栗原も覚悟してそう伝え、今日まで練り上げた自分の計画について説明を始めた。

 それは、日本の北海道で1週間に渡って開催される国際会議を地球人との出会いの舞台とし、そこで環境破壊を食い止める為の協力を全世界に訴えるという計画だった。

 その国際会議は経済問題を話し合う為のもので環境問題とは関係なかったが世界の首脳が集まる場なら様々な危険を避けられ、世界中から集まるメディアを使って地球の危機について全人類へ伝える事が可能だと栗原は考えた。

 演説内容については人々の感動を呼び起こせるものを考える事とし、平和的で友好的に見えるような演出を由起子が提案することにした。
 その演説の場所は会議が行われるホテルの前庭とし、そこに着陸させた宇宙船の横で行うようにして非常事態の際、すぐに船内に避難出来るよう安全を考慮したものだった。

 計画の概要を全て話し終えた栗原が時計を見ると10時を過ぎていた。

「今日はこの辺までにして、8日後の計画実行日までに登場の仕方や演説内容、緊急事態が起きた際の対応などについて詳細を詰めることにしましょう。演説の内容はジュシス人のあなた達の考えを尊重し先程、話して頂いたものを基に僕が原稿を書き上げます」栗原は大臣に向かって言った後、
「3人には演説の際の仕草や表情についてプレゼンテーションが得意な由紀子の指導の下で練習してもらいますが良いですか?」シニア、スリム、ジュニアを順番に見て言うとすぐにジュニアが
「僕、明日から頑張るよ!」由紀子を見て嬉しそうに言うと、
「わたしも頑張ります」
「わたくしも頑張ります」続いて他の2人も答えた。

 次の日から栗原は演説の内容をまとめ、夕方に売店から帰宅した由紀子がその日出来上がった原稿に合わせて3人に演技を指導した。
 毎日、夜遅くまで細かい部分に及ぶ演技指導が続いたがシニア、スリム、ジュニアの3人は由紀子に言われるまま様々な表情を作り、演説の内容に気持ちを込められるよう懸命に練習した。

 7日目の夕方、3人が最終練習をするためにやってきた。

 由紀子はガーベラのアートフラワーを取り出した。
それは明日の演説を平和的に見せるために由紀子が昨夜、手作りしたものでウエットスーツのような黒い服の上でオレンジ色が鮮やかに映えた。

 それぞれの胸にガーベラを貼り付けながら、
「シニアはジュシス人も同じ人間だと地球人に解ってもらえるように話してね!」と声を掛け、
「スリムは冷静で知的なジュシス人の代表として人々に訴えかけてね!」とスリムを励ます。

 最後に日々の練習のせいか疲れた感じのジュニアを見て、
「ジュニアは純粋な心のジュシス人を見てもらうのよ。 あと少しだから頑張ってね!」由起子が頭を撫でると
「僕、由起子さんの為に頑張るよ!」ジュニアは笑顔を見せた。

 全員の胸にガーベラを付け終わると由起子が皆をそこに並ばせて眺め、
「みんな華やかになって見違えたわ! とてもいいわよ!」そう言って感動すると、その余りの喜びように3人は立ったまま照れ臭そうしていた。

 それぞれの微妙な表情と立ち姿を見た栗原は今日までどれだけ真剣に取り組んできたのかを実感し、3人がとても誇らしく思えた。

「3人共、明日から頑張ってね! きっと上手くいくわ!」最終確認を終えた由紀子が励ますように言って、「ジュニアちゃん、くれぐれも気を付けてね!」ジュニアの頭を再び撫でる。

 由起子の隣に並んだ栗原はその3人に向かって、
「みんな今日までよく頑張ってくれました。成功するよう祈りながら、無事に戻ってくるのを山の広場で待っています」と言い、1人ずつ固い握手をした。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 翌日、午前10時。

 国際会議が行われる、大雪山インターナショナル・リゾートホテルの前にアフリカの首脳が乗った最後のリムジンが到着した。
 4つのドア全てが開いてスーツ姿のボディガードが降り、続いて後部座席から民族衣装を着た首相が出てくると突然、リムジンを大きな影が包んだ。
 ボディガードの3人が異変を感じて見上げるとその上空に、銀色に輝く楕円形の宇宙船が浮いているのに気付く。

 3人が顔を見合わせて何やら叫び始めると、シニアの落ち着いた声で、
「私達は別の銀河から来ました。地球の危機について皆さんに伝えたいことがあります。5日後の午前8時、再びここへ来て危機について説明しますので科学者を集めて下さい」と宇宙船からメッセージが響いてきた。

 メッセージが繰り返される頃には、警備を担当している制服の警察官や耳にイヤホンを着けたスーツ姿のSPがあちこちから駆け付けていた。

 警察官の1人が上空に向けたメガホンに口に当てて何か言おうとした時、銀色の宇宙船は上昇を始めてみるみる小さくなり、雲に紛れて見えなくなった。

 その2分に満たない出来事によって国際会議の会場は大騒ぎとなり、議題を変更して5日後にやってくる宇宙人への対応を首脳同士で話し合わねばならなくなった。
 首脳に付き添っていた次官達は自国の科学者を招集する為の連絡やその調整に追われて右往左往し、それに混じって各国のメディア関係者が取材に駆け回っていたからホテルの廊下やロビーはごった返していた。

 会議場は関係者以外は入れないように警備されていた為、整然としていたが各首脳は自分の席には着かずにあちこちで数人毎のグループを作り、興奮した様子で何やら話し合っていた。
 会議の議長を務める日本の首相が全員に着席を求めたが誰も席に戻る気配がなく、やむなくその場の挙手にて議題の変更の賛否を問うと全会一致で可決した。


 会議場があるホテルの上空で高度を上げ続けた宇宙船は大気圏外へ出ると月を目指して進み、その裏側に着陸した。
 栗原の計画では5日後に再び会議場へ現れるまで、月の裏側に着陸したまま待つことになっていたのだ。

 各国の軍隊はレーダーで宇宙船を必死に追尾したが途中で見失ってしまった為、「UFOは電波の届かない月の影を利用して遠くの銀河へ飛び去ったのだろう」と発表していた。

 テレビのニュースでアナウンサーがそう告げると、栗原はホッと胸を撫でおろした。

 電波が届かない月の裏側を地球から正確に攻撃することは不可能だとは思っていたが、そこに着陸している事を知れば何を仕掛けてくるかわからず、どこかへ飛び去ったとされたのは都合が良かった。

「思った通り、レーダーに追尾されずに済んだな…」栗原が思わず呟くと、
「5日後もきっと、上手くいくわね!」由紀子が元気よく答えた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 5日後の午前6時、ホテルにある8つの大きな宴会場は世界中から来た科学者とメディア関係者で溢れ返っていた。
 一方の会議場では急遽、演説用のステージが作られ、すでに集まった各国の首脳達が再びやってくる宇宙人を迎えようと緊張の面持ちで待っている。

 そのホテルの周辺では世界中から見物に来た大勢の人々や様々な団体が集まり、それ以上近づけない様に規制線を敷いた機動隊と小競り合いをするなど、その興奮が高まっていた。

 時計の針が8時を指した頃、ホテルの車寄せに小さな楕円形の影が現れ、徐々にその大きさを増していく。
 空から銀色の宇宙船が音もなく降下してくるとその底面に一瞬、キラリと眩しい朝日を反射した後、大雪山の雪景色を移しながらゆっくり大きくなって上空30メートルで止まる。

 5日前とは違い、既に待機していた警備の警察官やスーツ姿のSPが見上げる中、上空の宇宙船からシニアの声が響く。
「ホテルの前庭に宇宙船を着陸させ、その横で地球の危機についてお話しいたします。中継用のテレビカメラとマイクだけをセットして全員ホテルの中で聞いてください。科学的な事実を根拠にしている事がご理解頂けるよう、皆さんがお持ちの画面全てに調査資料を配信します」

 それを聞いたテレビ局のディレクターはすぐに指示を出し、三脚付のテレビカメラとマイクを5台ずつ芝生の上に据えると宇宙船に両腕で丸を作って準備完了を告げ、ホテルの中へ下がっていった。
 周辺に集まった人々は初めて見る宇宙船に大きな歓声を上げていたが、カメラの準備が終わるとシニアが配信すると告げた資料を見ようと手持ちの画面にくぎ付けになった。

 5分程すると宇宙船は前庭の中央へ向かって移動し始め、その後垂直にゆっくり降下して4つの脚を出すと芝生の上に音もなく着陸した。
 銀色のボディーのどこにそれがあるのかわからない部分から音もなくエレベーターが降下し、スロープが伸びて地面と繋がる。

 開口部を塞いでいる白いゴム毬が並んだ壁から3人の宇宙人がプニュッ、プニュッと押し出されるように出てきて、スロープを下りるとカメラの前に並んで立った。
 その頃、ホテルの中や周辺にいる人々が持つデバイスの画面にはすでにジュシス人のルーツを示す動画が配信されていた。

 それが終わるのを待っていたシニアがマイクの前に立つ。
「それでは先ず、わたし達についてお話し致します」穏やかな声で静かに言い、
「ご覧になっている動画の通り、わたし達は3000年前に地球を脱出して別の銀河のジュシスという星へ移り住んだ人類です。ここへ来た目的は故郷である地球への帰還について話し合う為なのですが、その前に先ず環境破壊を食い止めなければなりません。なぜなら、このまま環境破壊が進めば50年後には人の住めない星になってしまうと判明したからです。数百年に渡って環境保全に取り組んできましたがそれを凌ぐスピードで環境破壊は進み、わたし達の手に負えない状況となってしまいました。地球の環境を元に戻すには皆さんと共に取り組む必要があり、その為の協力をお願いしに参りました」と話した後、続けて地球上に古代からある高度な建築物は自分達の祖先が造ったものだと説明し、地球上に伝染病が流行り出したため自分たちがここを脱出しなくてはならなくなった事を話して終えた。

 シニアの説明に合わせて、画面付きのデバイスには地球が破滅するシミュレーションとそれを証明する様々な資料が映し出されていた。

 続いてスリムが地球の環境破壊と宇宙について話し始める。
「宇宙は皆さんが想像するとおり広大です。その広大さから見れば地球の環境破壊はごく小さな事のように思えますが、実はそういった小さなものが集まって宇宙は出来ているのです。その小さなものは互いに密接な関係を持っていて地球からも常に影響を受けています。その影響はやがて宇宙に存在する沢山の小さなものを変化させ、その小さな変化はやがて惑星配置を変えるような大きな影響を太陽系にもたらし、その影響が連鎖的に宇宙全体に及んでいく事は間違いありません。そして、その結果何が起こるのかはわたくし達にもわからないのです」話し終えたスリムは同時に配信されているデータについての説明を始めたがホテルの宴会場に集まったほとんどの科学者達にとっては意味不明なものばかりであった。

 数名の優秀な科学者はその説明の一部を何とか理解して、
「我々にとっては未知の物質をすでに沢山知っているようだ」などと言い、
「全ての学問のエキスパートが集まってもこれを理解するのに100年以上は掛かるだろう」と感嘆の声を上げた。
 また、ノーベル物理学賞を受賞した有名な学者は
「彼らが地球の宇宙物理学を一気に500年は進めてくれるだろう」とその科学レベルの高さに期待した。

 会議場の首脳たちは宇宙人のその容姿や日本語を流暢に話すことに驚いたり感心したりしている一方で宴会場の科学者達は示された超難解なデータをなんとか理解しようと様々な資料を睨みながら四苦八苦している。

 2人は由起子が指導した通りに演じて話し、シニアはジュシス人が同じ人間であることを感じさせ、スリムはジュシス人の冷静さと知的さを人々に感じさせた。

 スリムの科学的データの説明が終わると次にジュニアがマイクの前に立った。
「僕の星は地球と同じ環境で3000年前に創られました。環境汚染に気を付けてきたから動物が沢山いて植物の種類もここより多いです。地球ではもう見られなくなった花やもう会えない動物が平和に暮らしています。僕はここのみんなと協力して地球の環境を元に戻したいと思っています」ジュニアは子供の純粋さを感じさせるように話し、以前の地球がどれほど美しかったかを感情を交えて話した。
「みんなと一緒に地球を救いたいと思っています。よろしくお願いします」ジュニアが最後にそう言って頭を下げ、シニアとスリムも頭を下げたその時、広場の端から1人の男が走り出た。

 厳重な警備をかいくぐって現れたその男は
「嘘をつくなー!、俺は騙されないぞー!」と大声を上げながらもの凄い速さで近づいて来た。

 3人はすぐに頭を上げ、宇宙船に戻ろうと動いた。
 栗原の計画では宇宙船の周囲に誰か1人でも目撃したら緊急事態として直ちに宇宙船内へ戻り、そのまま地球の大気圏外へ避難するとしていたのだ。

 シニアとスリムが宇宙船から伸びたスロープを上がり始めた時、ジュニアがマイクから伸びたコードに足を取られて転んでしまった。
「うぐっ、」と、うつ伏せに倒れたジュニアが両手をついて立ち上がろうとした時、男が倒れていたマイクスタンドを手に取った。

 マイクが付いた部分だけが高さ調整用の繋ぎ目から抜け、それをジュニアの頭を目掛けて振り下ろすと同時に駆け付けた3人のSPが男に飛び掛かった。
 腕を抑えられると振り下ろしたパイプが男の手から離れてどこかへ飛び、ジュニアはすんでの所で助けられた。
 立ち上がったジュニアは頭を振ると少しフラフラしながらスロープを上がり、シニアとスリムに引っ張られるようにして内部へ消えた。

 あっという間にスロープが縮んでエレベータが収納されると宇宙船は垂直に浮き上がって勢いを増し、青い空の中で小さな点になって見えなくなった。

 テレビを見ていた由紀子は
「ジュニアちゃん!」悲鳴のように叫び、
「なんで! どうしてそこに人がいるのよ!」と画面に向けて怒りをぶつける。
「何故そんな事をするんだ!」栗原も憤慨して怒鳴った。

 宇宙船が戻ってくる山の広場へ向かって自宅から飛び出した由紀子を追い、栗原も登山道を走っていた。
 由起子は手に救急箱を持ち、時々つまずいて転びそうになりながらも、
「なんで! どうして! どうしてなの!」前を走りながらずっと叫んでいる。

 どこにそんな体力があったのかと思う程、休まずに走り続ける由紀子を必死で追いかけながら栗原もジュニアの無事を祈った。

 目撃されず、レーダーにも追跡されないようにと超低空を飛び、太平洋の3000キロ沖合を廻って帰る予定だったので広場に戻るのに10分は掛かる筈だ。
 普段、歩いて登れば30分掛かるところを走り続けた為15分で到着し、藪を掻き分けながら進む由紀子に続いて広場へ出ると既に宇宙船が着陸していた。
 静まり返った広場で「ジュニアちゃん!」と叫びながら駆け寄る由紀子の姿を再び追って宇宙船の近くまで行くと音もなくエレベーターが降下し、スロープが伸びてきた。

 開口部を塞ぐ白いゴム毬が並ぶ壁からプニュッ、プニュッとシニアとスリムが順番に出てきたのを見てすぐに由紀子が訊く。
「ジュニアは? ジュニアちゃんは?」手に持った救急箱を差し出しながら代わる代わる2人の顔を見て答えを求める由紀子に
「ジュニアは意識を喪失しています…」スリムが告げて下を向いた。

 2人がかなり落ち込んでいるように見えた栗原はジュニアが襲われた場面を思い返した。
 テレビ越しだが暴漢は殴る寸前に取り押さえられたように見えたし、その前にマイクのコードに躓いて転んではいるが柔らかい芝生の上ではいくら肉体的に弱い彼らでも深刻な傷は負っていないと思えた。
 それにもし、打ち所が悪くて致命的な傷を負ったとしても彼らの科学技術による高度な医療で何の問題もなく回復出来る筈だと思っていた栗原はその落胆ぶりが理解出来なかった。

 すると、宇宙船の白いゴム毬の壁からジュニアを乗せた白くて四角いベッドのようなものが出てきて、スロープを滑り下りてきた。
 ベッドの上に横たわっているジュニアは意識がないのか大きな目を瞑っったまま動かないでいる。

「ジュニアちゃん! 大丈夫?」由紀子が近くに行って声を掛けても全く反応がない。
「ジュニア!」栗原も声を掛けてみるがやはりピクリともしない。

「殴られてはいない筈なのに、どうしてこんなことに?」ジュニアを見て栗原が呟くと、
「数日前から何かの病気に感染していたようです。避難する際に転んでしまったのも、めまいが起きたからのようです…」シニアが答える。

「病院! 病院に連れて行って!」由紀子は必死な形相でシニアとスリムに迫ったが
「わたし達の星に病気を治療する病院はないのです」シニアが残念そうに言った。

「病院が無いってどういうこと? ジュニアちゃんはどうなるの?」わからない顔で再び由紀子が訊くと、
「ジュシスでは怪我の治療はしますが病気は自然の一部と考えられており、その為の医療は無いのです」シニアの、その信じられない答えに2人は驚いた。

「じゃあ、ジュニアを治療できないんですか?」栗原が訊くと、
「はい。自己回復を待つしかないのですが地球の環境汚染によって生み出されたわたし達が耐性を持たない感染症だった場合、それも難しいかも知れません」シニアが辛そうに言い、「その為にこの防護服を着ているのですが…」と着ているウエットスーツを示す。

「じゃ、地球のどこかの病院で治療すればいいわ。早く連れて行って!」由紀子がシニアの腕を取って急かしたが、
「ここの環境で治療すればさらに他の細菌やウイルスなどに侵され、命を失うのは確実です」辛そうにしているシニアに変わってスリムが答えた。

「病院の手術室なら無菌だわ!」由紀子が反論するように言うと、
「それはあくまで地球の人類にとっての無菌ということです。この環境汚染によって生まれた、わたくし達が耐性を持たない多くの細菌やウイルスが存在する殺人的な環境である事に変わりありません…」スリムが再び答えた。

「何とかして! …何もしてあげられないなんて、ジュニアちゃんが可哀想だわ!」ついに由紀子は泣き出してしまった。

「消毒とか、何か出来ることは無いのですか?」どうにかならないかと、栗原も思い付いたことを言った。

「自然の一部である細菌やウイルスを薬で死滅させたりはしません。消毒などの行為は薬に耐性を持ったより強力な菌を生み出し、自然界で手に負えないものにしてしまう可能性があるのです。また、それらを絶滅させてしまうことになればそれも宇宙の環境破壊に繋がってしまうのです」スリムがそう答えた。

「だからといって、病気を治療しないなんて…」栗原がそう呟くと、
「わたくし達の祖先が地球を旅立った時、本来は伝染病で絶滅するのが自然だったかもしれないんです。わたくし達が絶滅していればジュシスを創る必要もなく、あの星は宇宙にあったそのままの姿でいられました。わたくし達がジュシスに住むこと自体、環境破壊以外の何物でもないのです。そういった反省からわたくし達は病気を治療するという発想を捨てたのです」とスリムが話した。

「スリムもわたしも感情が芽生え、地球人に近い感覚を持っているのでジュニアがどうなるのかとても心配ですが、ジュシスに住む人々はこういった状況も自然な事として受け入れるだけです。死ぬことも枯れ葉が散るのと同じで誰も悲しんだりはしません」と納得のいかない表情のままの由紀子にシニアが言う。

 それを聞いた由起子は何か言おうとして開きかけていた口を閉じ、ベッドの横で祈るようにしてただジュニアを見詰めていた。

 誰も何も言わなくなった沈黙の中で栗原は彼らにとって殺人的な環境のこの地で勉強だと言って草取りをさせてしまった事や陶芸の粘土を触らせたりした事、国際会議での訴えをもっと安全な計画にしなかった事を後悔していた。
 彼らの寿命が200年程と聞いた時から、当然高度な医療に支えられているのだと勝手に思い込んでいた事を今更ながら反省していた。

 彼らが来ているウエットスーツみたいなものについても機能性を追求した結果の形で、それが地球の細菌などから生命を守る為の唯一の手段だとは思ってもみなかった。
 確かにウエットスーツから出ている顔と手の部分も透明な人工皮膚のようなもので覆われ、かなり厳重に身体を包んでいるからそれが防護服と言われれば良く理解できる。

 始めて会った時からその違いを感じていながら見た目の違いに触れることが自分と彼らの間に壁を造ってしまうように思え、栗原はそれについて触れることを避けていた。
 もし、心から彼らの事を心配していたら素直に訊ねられただろうし、そうしていたら今回の事態は避けられたかもしれないと思い、愛情や友情といった感情を与えると彼らに言っておきながら、自分は何の愛情も持たずに接していたように思えて情けなかった。
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