ボーイ遊び:Ⅲ

文字数 18,166文字

 明け方になって少し眠り、起床時刻になったとき、アキラ少年は疲れ果てていた。こんなに疲れたことは、彼ははじめて機関室で命がけの肉体労働をした翌日以来だったので、その疲れはいっそう重くのしかかった。
 それでも仕事はいつもどおりこなそうと彼は自分を奮い立たした。幸いマダムの朝は大抵遅く、こと酒を飲んだ翌朝となると特にそうで、そうなるとブランチも女給に運ばせてベッドで、という場合が多いので、昼近くまで彼は自分を落ち着かせる猶予を得られそうだった。
 とはいえ、一般乗客への食堂での朝食の給仕を忙しく終えたあとで、アキラ少年は居心地の悪い足もとをすぼめ、いつになくどぎまぎしていた。視線は何度となくデッキへ向かったり、テラスへ向かったりしていた。
 あのふたりの少年たちがどこかにいる。そして彼らはこちらを見張っているのではないか? ……今まさに、物陰から見ているかもしれない……と思うと、彼らが気になるのだった。海藻頭の少年が去り際に言った、「またつかまえに来る」というメッセージもその念を強くした。詳しい話はそのとき明かされるものとアキラ少年は思っているが、それを知るのが怖い、という一抹のためらいもあった。
 しかし朝食のあいだ、いくら注意を払ってみてもふたりの少年の姿はどこにも見えなかった。アキラ少年は始終どぎまぎしていたが、いないものはいないのでほかにどうしようもなく、ただ気をもむばかりの疲労はいよいよつのった。このままマダムの前へ出ていっても、つまらない粗相をするだけのように思った。
 そこで彼は、悩んだすえあることを決めた。今の自分がもっとも落ち着ける場所を求めて、彼は昼食までの空き時間を利用しいったん自分のケビンへ戻ると白いセーラーを着かえた。油じみやすすや手垢でよごれたぼろぼろの作業服姿になると、廊下を駆けてフロアを抜け、乗客たちの過ごす空間からどんどん船内を下へ下へと暗がりへ、重い鉄扉をいくつかあけ、やがて鉄梯子をくだって機関室へとやってきた。
 しばらくぶりの灼熱だった。すぐさま彼はここではたらいていたときの自分へ帰って、船乗りとしての初心を思い返しつつそこの匂いを鼻いっぱい吸いこんだ。ここへはあの少年たちであっても、さすがにやってはこられないだろう。ましてマダムの気配などみじんもない。
 ここにいると、アキラ少年は現在の自身にまつわるいろいろの日常を忘却できた。同じ船でも、上と下とでは雲泥の差があり世界がちがった。この灼熱地獄があるから船が動いていることを、しかし大勢の乗客たちはほとんど知らずに上でのんびり過ごしている。……そんなところに、言うに言われぬものすさまじさを感じとって、かえってそれはアキラ少年を落ち着かせた。だから彼は、日常に疲れたり嫌なことがあったりすると、休憩と思ってよくここへ下りてくる。すると大概、かつての男たちは彼を横暴に、邪険に、そしてこころよく迎えてくれた。
 この日はたまたま親方が出張ってきていた。機関長ともなると上のケビンを自室に使えるが、親方はそこまでいちいち帰ってはまた下りてくるのを面倒くさがって、普段から機関室内に設けた小部屋を寝起きの場として愛用していた。親方はその小部屋から出てきてアキラ少年を目端にかけるなり、
 「なんだ、てめえ、ガキかあ。久しぶりじゃねえか。どうしたあ」
 と唾を飛ばしながら大声に叫んだ。でないと何を言っているのか相手の言葉がまったく聞こえないのだった。
 「親方ァ。しばらく。お元気そうで何よりで」
 アキラ少年も負けじと声を張り返した。そしてボイラーのプレッシャー・ゲージを視界の奥にひと目見て、
 「万事順調です、親方ァ」
 と以前のように報告してみせた。親方はガラガラ喉を鳴らして笑い、上半身は裸同然のままアキラ少年のほうへ歩んできた。そのあいだ、ほかの男たちの物騒な野次がいくつか飛んだ。アキラ少年はこれらに緊張するどころか早くも安堵と懐かしさとに包まれて、どれも如才なくあしらった。
 「てめえ、すっかり上の人間に成り下がったなあ、よう坊主。針の読み方、忘れてねえだけ上等だ」
 「親方。……」アキラ少年は言ってみた。「きょうはご相談があって下りました。どうぞ聞いていただけませんか……僕はどうしたらいいですか。……」
 数十秒ほどのち、アキラ少年は親方の小部屋に招かれ、ウラジオのヤミ市で水夫連中が手に入れてきたというめまいがしそうなほど強いウォッカをちびちび舐めながら、鉄机のすぐ向かいに腰を据えそれをがぶりとやっている親方へ、自身の直面している、彼としてはのっぴきならない微妙な状況を語っていた。前夜にマダムのもとで起きたことも、その際の恥じらいや戸惑いまで、この親方には包み隠さず説明ができた。
 「ですから……親方。僕はとっても困っているんです。僕を使っているそのマダムが……なんだか恐ろしいようで……さっきお話した謎の少年が、あの女を魔性と言ったとおり……僕は……僕は……このままでは博多へ着く前にその魔性のマダムに憑り殺されてしまうのではと……のみこまれてしまうのではないかと……カマの火よりもそのことがよっぽど怖いんです。親方に殴られるより、兄貴たちに蹴られるより怖いんです。……」
 とアキラ少年の言葉が途切れたころ、親方はすでに数杯目となるウォッカを難なく飲み干すと、
 「バカ野郎めえ。お前、それでも機関室(ここ)で育った小僧か」
 と机上の杯を震わし大喝した。アキラ少年はびりびりとした振動を感じ、椅子からのけぞった。
 「間抜けめえ、たかだか女ひとり……いいじゃあねえか……魔性の人妻たあ、まったく……いや、俺はお前がうらやましいくらいだよ……いや、いや。まさに幸甚の至り……なあ?」
 親方は語調を変え、新たに杯を満たし、口角でにたりと笑った。
 「怖がるこたあない。金のある美人に気に入られてメソメソする奴があるか……おい……いいか」
 と酒臭い息を吐いた半裸の親方を前に、アキラ少年は居ずまいを正した。この親方は二十歳を出てすぐの年、大学を辞め独学で得た知識のみを元手に機関長試験を受け、一発合格、それもただひとり筆記でも口頭でも満点を取ってこの世界へと潜りこんだ強者で、当時もっとも若い頭脳派の機関長として幅を利かし始めて以来さまざまの船に乗っては絶体絶命の修羅場をいくつもかいくぐってきたせいか、いつ何時でも冷静で機智に富み、恐れるものがない。どんな荒波だろうとどんな人間だろうと、どんな人種だろうと扱いに長けている。そのためそれを知る者にとっては船上で困りごとがあったとき、親方は下手な上級クルーよりずっと頼りになった。
 親方はさも楽しむふうに言った。
 「その女にかわいがられておけ、お前……」喉で低く笑い声を立てると、アキラ少年の肩を小突き、
 「上玉の年増となりゃあ今のうちだあ……しぼれるだけしぼってこい……塩枯れ婆ァになりゃ死ぬだけだ……なあ、坊主」
 と声を低めた。小部屋の鉄扉を閉めてしまうと、機械の奏でる大音響もだいぶ薄らいだ。
 「ここをどこだと思う。地獄の入り口だ。つまり俺たちは地獄を知っている……分かるか。てめえも見てきたろう」
 「はい……親方。心得ているつもりです」
 「そうだ。ここは奈落の底の一丁目だ。地獄の一丁目一番地だ。この仕事をしているということは、年がら年中を娑婆から離れた奈落の底で生きているということだ。お前はもう心得ている。だったら何を恐れる必要があるか」
 「それは……」
 「いいか……堕ちるだけ堕ちてみろ……苦しめられてみろ……痛めつけられてみろ……一炊の夢だあ……それから目が覚めて我に返る。いよいよというときが来る。そうしたら恨みをぶっつけてこい……目ん玉ひんむいて身ぐるみはいでやれ……なあ。いいじゃあねえかお前。それぐらいの粋を見せろ。気概を見せろ」
 「粋……気概……僕の」
 「そうだ。怖がるこたあねえ、坊主……分かるな? ここには邪魔なもんを片っ端から放りこめる、おあつらえ向きがふたつもある……いざとなったら持ってこい……野郎どもにも手伝わしてやれ。カマへぶちこむでも海へ放り投げるでもいい。俺は黙っていてやる……いいなあ、坊主よ……分かったらとっとと飲んじまえ。仕事だあ」
 ぎらついた目をらんらんと光らせ、親方はアキラ少年を見据えた。糸切り歯をのぞかせて笑った……。
 一瞬のあと、アキラ少年は舐めていた酒をあおった。それから強くうなずくと、席を立った。
 「助かりました。親方。また来ます。……」
 ぴょこんと頭を下げ、鉄扉をあけた。ボイラーから放射される熱に全身をかっかとさせながら、てのひらの汗をぬぐうと梯子をつかみ、かろやかにどんどんとのぼっていった。
 アキラ少年は、その日をごく普段と変わらず過ごすことができた。洗礼を受けたような心地になっていたのは、自分が親方へ話してみたのは正解だったのだという気持ちのあらわれらしかった。
 マダムはアキラ少年を呼ぶなり、昨夜はよく眠れたかしらと彼へ尋ねた。髪を高く結い上げ、仕立てのすばらしい和服に身を包んだマダムは日に日に美しさを増すようでアキラ少年は心臓をマダムに握られているように思ったが、そのとき彼は礼儀正しく気をつけをして真顔に答えた。
 「眠れましたが、お言いつけを思い出すと目が冴えるばかりでふしぎでした。マダム」
 「私のことを想ってくれたのかい? 坊や」
 「はい、マダム。たくさん……」
 マダムは満足げにほほえみ、手を差しのべた。アキラ少年はぎこちなくそれを取ってあいさつの接吻をしたが、自分の両頬から血の気が引いていくのを確かに感じていた。
 何事もなく午後が過ぎ、夜が過ぎた。その夜のあいだに南西沖へ出ていた船は進路をやや北寄りにずらして、へさきの向きを変えていた。次第にその船体を到着港へと順調に近づけつつあったが、そうしているうち空模様に変化があった。さっと薄雲がかかったかと思うとそれは徐々に濃厚さを増し、やがて未明ごろからぽつぽつとデッキを叩くようになった。明け方になると強さがいや増し、朝から本降りとなって、やみ間なく続いていた。
 天候のすぐれない船内は大抵暗く、乗客の過ごす空間であっても陰気になりがちだった。そのため朝から至るところに灯がともされ、なるべく明るさを保つ努力がなされるが、それでも洞穴のなかのような冷たい色味があたりを満たすのは防ぎようがない。
 機関のほうに問題はなさそうだった。この程度の雨風と波で騒いでいては神経がなくなる。親方は大いびきをかいてまだ小部屋の寝台に眠っているだろう。
 そしてアキラ少年はこの日、朝食の給仕を始めた早い段階で、自身にそそがれている焼けつくような視線を感じ取っていた。だれかの視線……だれかがどこかから自分を見ている、という確信だった。
 その視線の正体にはある程度の予想を得ていたので、アキラ少年はあせらなかった。彼は表情を変えず冷静に行動し、素知らぬふりで船内を歩いて視線の正体が自ら姿を現してくるのを待った。
 船内の大広間の大時計が午後一時を告げてほどなくだった。彼の待っていたそのときはやってきた。
 雨で気分がすぐれないからと朝食をことわっていたマダムが、食堂で軽い昼食を済ませ、身づくろいのため女給たちを連れ部屋へ戻った、その間隙を狙ったようだった。
 アキラ少年はひとり、食堂とバンケット・ルームとをつなぐ中二階の廊下を歩いていた。すると、ちょうどだれの姿もないとみえた控えの間の扉が大きくあき、子供の腕が一本そこからにゅっと突き出された。とアキラ少年が思うが早く廊下へとぱっと踊り出たのは、前にデッキで見て以来、はたとその姿の絶えていたあの坊主頭の少年だった。
 「あっ、きみは……」思わずアキラ少年は声を上げた。慌てて周囲を見回してひと気のないのを確認した。そのあいだに坊主頭の少年は勢いよく廊下をこちらへ進んでくると、アキラ少年の腕をむずとつかんだ。ひと言もないままその腕を引っ張り、アキラ少年は首尾よく控えの間へと連れこまれ、扉が閉まった。
 そこはバンケット・ルームが使用されない限りは人の出入りもない、小さな間だった。アキラ少年も、普段は用がないのでめったに足を踏み入れない。しかし掃除の手だけは、ここにもそつなく入れられていた。さほど広くないながら、さっぱりと趣味よくととのえられた瀟洒な西洋間。使用される際にはさまざまの調度や長持が持ちこまれるが、そうでなければ大抵物は少ない。
 そこに今、ひとかたまりになってアキラ少年を待ち受けている者が、アキラ少年の予想に反して七人もいることにまず彼は目を丸くした。うちふたりは彼も知っている、自分をここへ連れこんだ坊主頭の少年と、いずれ自分をつかまえに来ると伝えてきた海藻頭の少年だったが、あとの五人に覚えはない。
 どの少年も言葉はなく、真顔にアキラ少年を見つめていた。そしてどの少年も着ているものこそ粗末だが、いちように目鼻立ちの美しいということ、あるいは美麗とまではゆかずとも何かはっとさせられる外見上の魅力を備えているということは、アキラ少年にもただちに認識できた。しかしその容色の造りには東洋風と西洋風と入り交じり、いろいろの特徴があった。
 つまりはアキラ少年を含め、全部で八人の――さらには皆が皆、そろって同年ほどに見える――少年が、この控えの間につどっているのだった。洒落た洋間に簡素な着物の少年七人と、ひとり白セーラーのアキラ少年。
 異様な光景だった。そしてそれと似た異様な空気がそれぞれの身にまつわりついているのを、どの少年もそれぞれに分かっているらしかった。
 だれも声を発しない。
 外は大雨だった。そのせいか昼時にもかかわらず室内は薄暗く、せっかくの天井のシャンデリアには灯りがつけられないまま、ただの飾りと化していた。
 ガラス張りの見事なフランス窓が、ここが船のなかであることを瞬間、忘れさせる効果を放っていた。閉じきられているその窓を叩き、流れ落ちていく雨、雨、雨……波音と雨音の協奏が激しいメロディーとなって部屋じゅうに響き、少年たちはだれがはじめに口をひらくのか、じれたように立ち尽くし、今か今かと待っていた。
 アキラ少年は生唾をのんだ。そのとき一歩、すうと前へ踏み出た少年がいた。
 「約束どおりだ。あんたをつかまえに来た……」
 海藻頭の少年だった。全員の目がそちらへ向いた。
 「下船が近い。時間がない。その前にあんたに話さなくちゃならない。俺たちのことを……あの女のことを」
 「教えてください。どうか教えてください。きみたちは……マダム――あの女は……?」
 アキラ少年は懇願の体で言葉をかみしめた。両手をぐっと握りしめ、七人をぐるりと順に見た。
 すると坊主頭の少年が進み出た。アキラ少年へ、はじめてその唇を動かした。
 「俺は横浜(はま)から乗ったときだった。その船の水夫だった。死んだ親父の見習いだったんだ。親父はもともと水先案内(パイロット)だったけど、船のことならなんでもできた。なんでも知ってた」
 「横浜……きみも船乗りだったの?」
 「そうだよ。そのときあの女が俺の船に乗っていた」
 「マダムが……」
 「俺はマダムに言われて、あの女の小間使いをやらされた。今のお前みてえに」
 「きみも? きみも僕のように、マダムに仕えた……」
 すると海藻頭の少年が、
 「俺はシンガポールからだった」
 と言葉を挟んだ。
 「快速の客船(メイル)でね。ボーイをしていた。それにあの女が乗ってきた。一等豪華なサルーンを独占していたよ。俺もマダムに言われて、小間使いをやらされた。今のあんたみたいにさ」
 するとほかの少年たちがたまりかねたふうに地団太を踏んだ。我も我もと口々に言い出した。
 「僕は上海」
 「メルボルン。通いの商船だった。でも客も乗せていた」
 「私、マルセイユ」
 「俺はケープ。ケープタウンだ」
 「シスコ。……僕、サンフランシスコからでした」
 アキラ少年は大きな黒目をさらに大きくした。ふたたび彼らを見回してゆきながら、
 「それじゃきみたち、みんな船乗りだったの」
 五人の少年はいっせいにうなずいた。
 「そしてみんな、僕と同じようにマダムの小間使いをしていたの。きみたちの船に乗ってきたマダムに命じられて……下船の日まで……僕とおんなじように」
 深いうなずきが七つ、アキラ少年へ返された。
 アキラ少年は黙りこんだ。彼らのおどろくべき告白に衝撃を受け、ではいったい……ではいったい? と必死になって頭をはたらかした。
 七人の少年は船乗りで、水夫だったりボーイだったり、皆ばらばらの航路を旅していた。世界じゅうの港町が挙がっている……横浜、シンガポール、上海にメルボルン、マルセイユにケープタウン……ケープといえばアフリカ大陸の南端部、ここからでははるか遠い彼方の地……そして太平洋の向こう側、サンフランシスコ。……彼らは自分たちの乗る船でマダムに出会い、マダムに仕えていた。そんな彼らがしかし、なぜか今うちそろってここにいる。ウラジオから函館へ帰港し、現在、博多へと向け着々と波を進んでいるこの船に彼らは乗りこんでいる。クルーではなく客として……。
 「俺たちも、乗っていた船であんたと同じ境遇にいた。全員、孤児だった。親に死なれてはたらいていた」
 坊主頭の少年が言った。この少年はどうも日本人らしい。アキラ少年と変わらず完璧な東京のイントネーションを使える。七人のうちではこの少年と、海藻頭の少年とがもっとも日本語に長けているとみえる。
 坊主頭の少年は神妙な面持ちで、
 「今から考えてみると、俺が一等はじめだった……と、俺は思ってる」
 「はじめ……。きみが」
 「あの女は最初に横浜を出航して、そこから世界を旅して回るようになった。マダムがそう言った。その最初の客船に俺がいた……爆撃で親きょうだいみんな死んじまって……お前、分かるだろ。日本人なら」
 「うん。僕のお母さん、それで死んだよ」
 「それから始まったんだ。あの女の……あの女の……あの女は船に乗るたび、乗る先々の船で気に入った奴見っけて……ガキ見っけて……降りなかった奴もいた。怖くなって逃げた……俺も逃げようと思った。何度も思った。けど逃げられなかった……ここまで、ずっと……この船ではお前だ。この船ではお前が、あの女の――」
 坊主頭の少年は急に言葉を切ると、口をつぐんだ。苦しげな表情になって唇をかんだ。沈黙がおとずれると、ふたたびだれも何もしゃべらなくなった。
 アキラ少年は悪寒を感じた。身をぶるりと震わし、一同を凝視していると、やがて海藻頭の少年が坊主頭の少年の肩に手を置いた。そしてなぐさめるような話しぶりに、あとを引き取った。
 「あの女は俺たちで遊んでいる。俺たちやあんたのように、孤児となって船ではたらいている少年(ボーイ)を、誘惑して、とりこにして、苦しめて遊んでいる。それを繰り返している。船を変えるたび、航路を変えるたび。あの女は船が変わればもてあそぶ少年も変える。それまで遊ばれていた少年は下船と同時に捨てられる。取り残される。見向きもされなくなる。……覚えているか。俺が前にあんたに言った、あの女は魔性だと」
 アキラ少年は首を縦にしたが、それは身内の震えから来る無意識下の挙動に見えた。
 「そう。分かっているさ。……あの女は母親のいない少年にこだわっている」
 海藻頭の少年がつぶやいた。
 「マダムはどの船でも、そんな少年クルーを選んでいる。あの女のしていることはプレイング・ウィズ・ボーイだ。ボーイ遊びなんだ」
 「そうです、私……ママ、いない。だけれどマダム、私にたくさん、ベーゼを……」
 とつたない日本語で叫びかけたのは、ブルーの瞳にブロンドの髪毛をした、宗教画の傑作から抜け出てきたような白皙の美少年だった。マルセイユからの船と先ほど言っていた少年で、
 「ベーゼを。愛。愛を。だから、私……マダム……」
 と何事か続けてうったえようとしたが、それ以上先の言葉はなく、ないというより日本語が分からないのか、頬を紅潮さして涙目になるとうつむいた。海藻頭の少年がその姿を痛ましげにちらと見、かすかなため息を吐いて言った。
 「俺たち、みんな、こういうことなのさ。あんた、もう分かったろう? こいつは地中海からはるばるここまでついてきた。マダムが下船したあともマダムを忘れられず、あの女と話がしたいばっかりに自分まで船を降りて日本語を勉強している。俺たちには金がないから、次の船賃を得るためみんなで盗みをやる。密輸入の手先をやる。闇ブローカーに力を貸す。ケープでもシスコでもそうだった。上海とメルボルンじゃ、あと一歩で縄がかかるところだった。……それに比べりゃハコダテは簡単だったよ。警官がお気楽なのさ、だれも俺たちのほうなんて見ちゃいない。子供だと思ってすっかり油断しているんだ」
 「そ……それじゃきみたちは、マダムに……す、捨てられたあとも……マダムを追っかけて?」
 「そうだよ……のがれられないでいるんだ、あの女の魔性から。俺たちはみんな、乗っていた船で、今のあんたがマダムにされていることと同じことをされた。お遊びの道具にされた。そしてあの女に魅入られて、引きずりこまれてそこから抜け出せないでいる。苦しんでいる。もだえている……。次はあんたもそうなる、かもしれない。あの女は恐ろしいんだ、うまく言いあらわせない……思い出すと――」
 そのとき坊主頭の少年が話をさえぎり、「お前……」とアキラ少年を凝視した。しばし逡巡するようにためらったあと、きっと顔を上げて尋ねた。
 「お前、まだマダムの腹は見ていないな。おい……見ていないな? あの女の、腹の傷だ」
 「え……」アキラ少年はうろたえ、少し顔を赤らめて、
 「うん。見てないよ。傷の話はされたけれど」
 「そうか」
 「あの女の腹の傷が、どうしたの。ねえ……どうしたの」
 「あの女は、気に入って小間使いにした奴に毎回、同じ話をしている。同じことをしている。俺たちもみんな、された。だからお前もそうなる。そして俺たちのように捨てられる。あの女は船を変え、すべてが繰り返される」
 「きみたちはあの女の腹を見たの。傷を見たの。旦那様にまちがって銃で撃たれた……そのときの傷でしょう。それを見たの?」
 「どのみちお前も見ることになる。見せられることになる」
 「マダムが? マダムがきみたちへ見せたの」
 「あの傷は、いいか、あの傷は……ただの傷じゃあねえんだ、お前が考えているような傷とはちがう。みんな分かっているんだ、俺たちはあの女の……あの傷を見せられたあと……けど俺には分からなくなっちまったんだ、俺はマダムをどうしたいんだか……俺をめちゃめちゃにしたあの女に復讐したいのか、謝ってほしいのか、それとも……それとも……それとも」
 「ねえ待って、待ってよ。もっとゆっくり、ちゃんと教えて……ねえ、きみたちの見たマダムのお腹の傷は……」
 言いかけ、アキラ少年ははっと息をのんだ。
 こちらを見返す少年たちが、そろって色をなくしていた。目をみひらき唇を硬く引き結び、総毛だったように全身をこわばらして蒼白になっている。マルセイユの美少年など、かわいそうに今にも泣き出しそうになっている。
 「ねえ。……」アキラ少年は先を継ごうとしたが、その声はわずかに震えていた。
 「ねえ、教えて……きみたちは何を知ったの。あの女は腹を撃たれて手術を受けたんでしょう。そのときの傷痕のことでしょう。それがいったい、何の……」
 室内がふっと暗くなった。窓を打つ雨音が激しさを増した。
 「あの腹の傷は……あれは、さ。……あれは……」やがて海藻頭の少年が、重たげに口をひらいた。
 「あれはマダムが、当時……」
 そのときだった。部屋の扉が突然ノックされた。全員飛び上がってそちらを見た。だれも答えずいると、ふたたびノックがなされた。
 「失礼。どなたか……どなたかいらっしゃるのですか。……」
 呼びかけた声の主に、察したアキラ少年が努めて平静をよそおって言った。
 「すみません。僕です。僕がいますよ……」
 誰何したのはおそらく、その声音の感じから食堂の給仕頭だろうとアキラ少年は当たりをつけていた。であれば心根の優しい気弱な男であるから、心配は要らない。アキラ少年は七人の少年たちへ無言の目配せを送った。ここは自分が対処するからだいじょうぶだと目顔で伝えると、
 「今ゆきます。すぐ出ます。……」
 とその場を離れた。彼らの視線を背中に感じながら急いで扉を細くあけ相手をうかがい、さっと自身を廊下へ出すと後ろ手に閉めた。
 ドキドキと鳴る胸を上からそっと押さえ、どうともつかぬ妙なはにかみを浮かべながら、アキラ少年はいぶかしげな表情で目の前に立っている給仕頭の男へ言った。
 「ごめんなさい。ちょっと休憩と思って、ここにはだれもいないから。つい……もう仕事へ戻ります」
 給仕頭はアキラ少年の顔色が悪いと言って彼をのぞきこんだ。よほど血の気がないらしかった。彼は無理に笑って答えた。
 「気のせいでしょう。僕、元気です。とっても。……さ、行きましょう。どうもすみませんでした。……」
 と給仕頭をうながし、連れ立って廊下を歩くアキラ少年の足もとは、しかしふらつきがちだった。
 話が途中のままになってしまった。あの子たちはどうするのだろう……。あとを振り返りたいのをこらえ、アキラ少年は階段を下りた。懐中にしまっていた時計を見ると、午後二時になろうとしていた。
 その後しばらくアキラ少年は、ティー・タイムににぎわう船内の各所を手伝って回っていた。そのあいだ七人の少年たちの姿は見つからなかった。彼らは普段どこかにたくみに身を隠しているらしく、それは海藻頭の少年が言っていた、船賃を得るためきたないことに手を染めているという後ろ暗いところからも多分に察せられた。
 アキラ少年は無論、あんな話をされたあとでは仕事に集中できるはずもなく、よそ見ばかりしてはそのたびに手もとをくるわせ幾度もひやりとしていた。彼は考える暇が欲しかった。このあとを自分はどのように行動し、どのような考えのもとにあの女……マダムに仕えるべきか、納得のいく有用な答えを求めて思考をさまよわせていた。
 ただひとつ、決定的な事実として彼の胸に刻まれていることは、自分はこの船が博多へ着いたらここを降りていくマダムに捨てられる、ということだった。その「捨てられる」という強い言葉はいかにも残虐な、冷酷な、非道な響きのように彼を感じさせてやまず、なぜともなく彼を不安にした。不安に思う必要はないのに……マダムが下船すればマダムとはもう会うこともない。どのみち下船までの主従関係にすぎない。それが船上における一期一会なのだからと、アキラ少年は仕えている客がマダムでなくだれであってもこれまでそう認識していた。そしてこれからもそう認識していくつもりでいた。乗客も積み荷もいつかは船を降りる。そして船はまた進む。にもかかわらず、あの「捨てられる」という表現……そして実際に「捨てられた」坊主頭の少年へ対するマダムのあのそっけない態度……を思うと、アキラ少年は給仕をしながら知らず冷や汗をかいていた。何度もそれをぬぐい、落ち着けとつぶやき、動揺している自身に困惑しながらふらつく足で紅茶やコーヒーを運んでいた。
 そんな状態で、彼は夕刻にマダムの部屋へ呼ばれた。雨は降り続いていて、夏の長い日を、いつもより退屈でせわしないものにしていた。デッキにもテラスにも出られず、乗客たちはディナーまですることがないので、暇を持てあましながらそわそわしているようだった。
 休む間もなくマダムに呼ばれ、アキラ少年は心の準備も気持ちの整理もまったくついていなかった。それでも緊張していた。まるで巨大な蜘蛛の巣に自分からかかりにゆくような……蛇の棲む居城の大門を自らくぐりにゆくような……彼はもはや、マダムをこれまでと同じマダムと見られるかどうか分からなくなっていた。
 ぎこちなくノックをして部屋へ入ると、いつもどおりのほほえみを浮かべたマダムが彼を待っていた。
 「内鍵を」
 と彼へ扉を施錠させる、その命令も変わらない。ただしその命令でさえ、今のアキラ少年には何か意味深いものに思えてならなかった。マダムがこうして必ず扉に鍵をかけさすのはなぜだろう? ……と、意図を邪推してしまうのだった。
 「降るわねえ。坊や。お前は、こんな雨には慣れていて?」
 マダムはアキラ少年へ、かけていた椅子から優雅に手を伸ばした。
 「さあ、こちらへ。こちらへ来てちょうだい」
 マダムは緋色の、裾が床へ垂れるほど長い羽織を着ていた。中国風の華やかな模様があしらわれ、袖口は広くゆとりがあり、そこからアキラ少年へと伸ばされている腕……そこから手首にかけての乳白色の素肌を、アキラ少年は硬直した目もとで凝然と見つめた。
 「どうしたの、坊や。早くこちらへ。そばへおいでなさい」
 彼は足首を絡め取られたかのようにマダムの椅子へ近づいた。少しよろけて、前のめりに肘置きへ手をつくと、マダムはその手を優しくなでさする。その指のなめらかさ。指輪の耀き。厚い肉感の心地よさ。
 いけない。いけない、いけない……アキラ少年は懸命に胸に言い聞かしながら、しかしさすられている手を引きこめる意志はなかった。あらがう力が奮い立ってこない。
 彼の目に、やはりマダムはあたたかく優しく、そして聖母のごとく美しいのだった。彼は、彼を守って死んだ、もうほとんど覚えていない自分の母親が頭の隅にちらとよぎった。しかしその姿はすぐに消え、新たに目の前のマダムが視界いっぱいに広がると今度は、けれどお母さんよりマダムのほうが綺麗だ……という考えがとっさに、閃光のように彼の頭をかすめた。
 マダムは彼を見上げ、さすっていた手を握り、「ねえ坊や。……」と尋ねた。
 「お前は、どこへいたの」
 「えっ……?」
 「お昼のあと、食堂からここへ戻ってきて、私はお前を呼ぼうとしました。身づくろいの途中で呼鈴(ベル)を鳴らさせましたが、お前は自分のケビンにもその近くにもいないと聞かされたので、仕方なくあきらめたのですよ。私は、お前はティー・タイムまではケビンに休んでいるものとばかり思っていたの。だから坊や、私はとっても心配していたのです……私が食堂を出たあと、お前は船のどこへいたの?」
 「も、申し訳ありません、マダム。僕……」
 ほんとうのことを言えるはずがなかった。アキラ少年は手をマダムに握られながら、わずかに顔色を青くした。
 「まあ坊や。どうしたの。せっかくのお前の、薄桃色のかわいい、かわいい頬が……」
 「僕、お客様たちのかるた遊びを見物していたのでした。皆様、この雨で退屈されておりまして、そんなゲームを多くなさっておりましたので、喫煙室の灰受けをお掃除いたしますついでに、僕……つい」
 「いいのよ、いいのよ坊や。こうしてお前はここへ来てくれたのですから、私は何も言うことはありません。ああ、坊や。こんな雨は私を物悲しい気持ちにさせます……なんだかじめじめとしてねえ。そこいらじゅう暗くってねえ。夏の盛りというのが嘘のようね」
 「はい、マダム。お天気が悪うなりますと、どうしても、船内は灯りを入れても暗くなってしまいます」
 「けれど私は、お前をこうしてそばに置いておくと安心するのです。私の物悲しさ……切なさを、お前がまぎらわしてくれるのよ、坊や。ああ……古傷がうずくわ、こんな日には」
 嘆息し、マダムは腹へ手をやった。アキラ少年は背筋に棒をうがたれたように、はっ……と直立不動になるとそこを見たが、慌ててその目を床へそらした。必死になにげないふうをつくろって尋ねた。
 「マダム。い……痛むのですか。お腹の……」
 「少しは、ねえ。やっぱり大きな傷痕ですから……」
 「は……はい。僕……失礼なことをお尋ねしました」
 「あら、どうして? 坊や。いいのよ。お前に訊かれるのであれば、それはなんにも無礼ではありません」
 「は……はい……」
 「ああ、うずく。また。だけれどお前がいるのなら……私はきょうも耐えましょう……」
 「マ……マダム……」
 「坊や。かわいいわねえ、食べてしまいたい。私の……ああ、私の。……」
 マダムはほほえみ、アキラ少年の青ざめている頬をてのひらに包んだ。目尻にごく微笑のしわが刻まれ、同時に一点のほくろが押しつぶされたように変形すると、真っ赤な唇が弧を描いた。濃い紅を差しているせいかあるいは雨のせいか、それはひときわ大きな唇にアキラ少年には見えた。
 「さあ坊や。おいで。私にお前を抱きしめさせてちょうだい」
 アキラ少年はその唇に、自分が吸いこまれていく思いがした。
 「さあ。ここへ。ここへひざまずいてごらんなさい」
 彼はマダムに抱きしめられたが、床にひざまずいている彼の頬はマダムの腹部に押しつけられており、マダムの押しつけるその力が強いためにそこから動かせない。
 このときアキラ少年は、七人の少年たちの、彼らとの秘密裏の会見で聞いた言葉の数々を目まぐるしく脳内に思い起こしていた。それらは超スピードで彼の脳裏を縦横無尽に飛び交い、彼へ警告した。
 マダムは魔性の女。恐ろしい女。……気に入った孤児の少年をもてあそび、下船とともに見捨てる……この女はそれをすでに七度、自分を入れて八度。いやそれよりきっと多いだろう、何度も繰り返している。マダムに惹きつけられ、捨てられ、きょうも苦しんでいる船乗りの少年はおそらく世界じゅうにたくさんいる。
 そして……そしてマダムのこの腹……腹の傷痕……アキラ少年は押しつけられている頬をぴくっと震わした。
 「いい子ね、坊や……お前はいい子……」
 頭上に降りそそぐ甘い声を聞きながら、七人の少年たちの蒼白の顔を思った。
 彼らは何を見、何を知ったのだろう。マダムの腹の傷がどうしたというのだろう。マダムは言っていた、すてきに大きな裂け目みたいな……ぱっくりあいた傷痕と。そして自分はほどなく、そこをマダムに見せられることになるのか? そうしたら……?
 いけない。いけない……アキラ少年はひざまずいている足裏に力をこめた。腰を上げ片膝を立てたが、マダムはいっそう強く彼を抱きしめ頭をなでている。彼の膝はまたすとんと落ちる。
 いつしかアキラ少年は目を閉じていた。あやすようなマダムの声に意識の大半を奪われて、抱きしめられる心地よさはここで立ち上がることを彼に惜しませた。言葉もなく、思うまま甘える仕草に身をすり寄せていると彼は我を失いそうになり、このままどうでもよいのではないか……どうでもよいからもっと長く、もっと強くこうしていてほしい……と無言にマダムへ懇願していた。
 彼の頭が言っていた。マダム……マダム……お母さん。マダム……お母さん……頭が言うたび、彼は意識のかなたにそれを聞き、マダムの腹へしきりに頬を押し当てる。たまらない気持ちが喉までせり上がってくる。もっと欲しい。もっと、もっと、もっと欲しい、マダム……お母さん。お母さん。マダム……。
 「坊や。……まあ、いけない子ねえ。私のここを、お前は見たいというの?」
 マダムはアキラ少年の顎を指先になで、自身へと上げさせた。目が合うと、マダムは真っ赤な唇を曲げ、アキラ少年に笑いかけていた。長い爪が彼の顎裏にかすかに食いこんでいた。
 「見たいというの? 坊や……私の……」
 マダムの凄艶な微笑をアキラ少年は茫然と見上げていた。一瞬うなずきかけた。が、瞳を大きくしてやっとのことでかぶりを振ると、
 「も……申し訳ありません。僕……大変なご無礼を、お許しください」
 「まあ、そんなこと」
 「僕……僕、もう行かなくてはなりません。行かなくては……」
 とうわ言のように繰り返しながら顔を離し、よろめきながら立ち上がった。
 マダムはほほえむばかりだった。一歩、二歩とあとずさるアキラ少年を取り立てて制するでもなく、何もかも見透かすふうにじっと椅子へかけている。
 遊ばれている。もてあそばれている……翻弄されている……肘置きに泰然と肘をつき、こちらを見守るマダムの視線をのがれようとしながらアキラ少年は思った。すると背筋がぶるりとけいれんした。扉をあけた彼の背中へ、マダムは言った。
 「坊や。またお前を呼びます。……」
 わずかの間のあと、アキラ少年は顔だけ振り向いた。気づくと、何度も何度もうなずいていた。

 雨は翌朝にやんだ。ぴたりと波が治まり晴れ間がおとずれると、夏の陽光と潮風が濡れたデッキをまたたく間に乾かした。
 博多への到着日が近づいていた。船乗りたちの感覚から言うなら、多少の雨には降られたものの航路はすこぶる順調で、着岸予定日時に変更はなさそうだった。もっとも大型客船では、何しろ上流のお客を大勢乗せるので、難所と名高い荒波へわざわざ突っこんでいくような判断は、たとえそちらが近道であっても船長はめったにしない。
 下船までの一秒一分が過ぎるごとに、アキラ少年の煩悶はつのっていった。マダムを想うと胸が苦しい、けれど頭はよろこびでいっぱいになる、その説明しようのない心地はどこから生まれてくるのか。
 マダムは自分をどうしたいのか? なぜ孤児の少年ばかり見初めては小間使いにし、そばに置いて優しくし甘やかし、抱きしめるのか? そして下船すればその少年に冷たくし二度とは笑いかけようとしない、という……なぜそんな残酷なことを繰り返すのか? なぜ? なぜ……。自分もマダムのお遊びの犠牲者なのか。マダムに魅入られた数多くの少年のうちのひとりなのか……。
 アキラ少年はもはやマダムからチップをはずまれても菓子をもらっても、うれしいとは思えなくなっていた。それよりもマダムの下船までに自身がどうなってしまうのか、そのほうが怖かった。いっそ早く降りてしまえ、姿を消してしまえ。しかし降りてほしくない、まだ……あと少しだけ。マダムのことで彼は常に両極端の、正反対の願望に踊らされていた。それを自覚しているだけにいっそう煩悶していた。
 考えても考えても分からない問題に、彼は一日をあえて忙しく動き回った。はたらいていれば考える暇がない、それを望んでいた。
 一度、三等客室のフロアで、彼はマルセイユの美少年を見かけた。また別のときには上海とメルボルンと、シスコの三人がひとかたまりになって話しこんでいるのを見た。英語を使っているようだった。そばにはケープの少年が膝をかかえて座っていた。彼らは皆アキラ少年に気づき、何か言いたそうな顔でアキラ少年をうかがっていたが、アキラ少年は話しかける元気もなくただ機械のように手足を動かした。助けを求めたいのはおそらく全員に共通した想いなのだろうが、全員にとって何が助けとなるのか、どう助ければよいのかを、アキラ少年も含めおそらくだれも分かっていない。助けられるのはマダムだけ、いや、ちがうかもしれない。マダムの魔性は自分たちを助けてはくれない。
 全部、マダムのせいだ。全部……アキラ少年は疲れてベッドに倒れると、そう思うようになった。そしてそれより先を考える前に眠りに落ちた。指先ではマダムのぬくもりを求めているのを、頭で叱りつけ枕を握りしめる。すると大概、目が覚めると外が白んでいた。見ていた夢の内容を思い出せないことが、彼には安心だった。
 幾日か過ぎた。とうとうあすには到着港へ入るという日、マダムは普段と変わらずにアキラ少年へ優しかった。
 朝から澄んだ空で、海面は水平線まで陽を受けてつやつや耀き、雲も少なく快晴と言えた。
 マダムは例外なく美しく身じまいをして船内を歩いていたが、反対にアキラ少年の顔色は未だにすぐれないままだった。憂いをはらんだ表情は、世間の酸いを知ったというふうに以前に比べやや大人びて、しかしそれはやつれている、病的に悩んでいると悪く表現することも十分できた。
 もうなんでもいい。このまま日が過ぎて、どのみちあすにはマダムは降りていく。あの七人の少年もそうだろう、彼らも下船しまたマダムを追うのだろう……どこまでも……だが自分はマダムのことも彼らのことも忘れてしまおう、それでいい……何事もなく……アキラ少年はそれだけを思い雑務に打ちこんでいた。その思念は彼を覆う青い焔のようで、凄絶なものを感じ取るのか、ほかのクルーが時折、異様な目つきで彼を見ていた。
 そうしてアキラ少年が片っ端から船じゅうの仕事を引き受けられる限り引き受けたり、奪ったりしているうちに正午を過ぎた。彼はできうるだけマダムへ近寄るのを避けていたが、昼食のあと――マダムはほとんど口をつけていなかったが――彼は女給と部屋へ戻ろうと席を立ったマダムに呼ばれた。食堂は昼のもっともにぎわう時間帯にあって、あすには下船ということもあり最後の昼食を楽しもうとする乗客たちでいっぱいだった。
 マダムは女給の目を忍ぶようにアキラ少年を指でそばへ来るよう呼ぶと、その肩へそっと手を置いて言った。「日付が変わるころ、おいでなさい」そしてアキラ少年の返事を待たず、ほかのお客の注目を浴びながら優雅に食堂を去っていった。盆を持ったままアキラ少年はしばしそのほうを見つめ、立ち尽くしていた。ちょうどそばを通りがかった給仕の男がびっくりしたように彼へ言った。「きみ、顔が真っ青だぞ。……」
 数秒して、我に返ったアキラ少年があたりを見回すと、折しも出入り口の物陰からなかをのぞいていたらしい、坊主頭の少年と目が合った。その顔も真っ青だった……アキラ少年と坊主頭の少年は秘密を共有する仲間のごとくしばし互いを真剣に見つめていたが、どちらともなく目をそらした。
 そのあとの午後を、アキラ少年は自分がどう過ごしていたか、おそらくいつものようにどこかから呼ばれては仕事をするというのをひたすらしていたのだろうが、夜になってみると記憶があいまいで思い出せなかった。
 船内はにぎやかで、酒は惜しみなく、ディナーも豪勢に振る舞われた。下船を間近に、ちょっとしたパーティーがひらかれているようなはなやぎが至るところにあって、乗客たちの話もはずんでいた。ようやく降りられる、やはり地に足がついていなくては安心ならないという声や、到着後の予定や、別離を残念がるあいさつの言葉もよく聞かれた。それらはアキラ少年にはすべておなじみの光景であり、音だった。次の航路でもまた次の航路でも、それらは船乗りである彼にとって同じに、他人事に、客観的に感じられるはずだった。
 マダムはしかし、そんなはなやぎに長く身を置かなかった。ディナーを終えると、この船旅のあいだに知り合いとなった紳士連からのカクテルの誘いをことわった。カード・ゲームもボード・ゲームも、ダンスもことわって早々に部屋へ引き上げてしまった。
 盛装の男女たちと喧騒に紛れ、アキラ少年は引き上げていくマダムの背を見送った。懐中の時計を確認した。
 行かないでおこうか……行かない……行かない……彼は内心でつぶやいた。それからふいと顔をあさっての方角へ向け給仕へ戻ったが、時計の針が進むごとにその緊張は高まっていった。行かないと思うぶんだけ、行かなくてはという想いにとらわれているのだった。
 あらがうすべもなく、夜は深まっていった。
 午前零時になるかならないか、そのときアキラ少年は一等客室のフロアにいた。自分のケビンを抜け出して、だれとも言葉を交わさずだれにも会わず、パーティーの余韻を遠く離れるようにあたりをはばかっていた。
 廊下にひと気はない。やわらかな毛足の緋色のじゅうたんに歩を取られ気味に、アキラ少年はいつかシェリーのボトルを持って歩いたときよりものろのろとそこを進む。
 ボーン……と、汽笛が吹かれた。到着港が近づいてきているあかしだった。
 彼は壁にあいた小窓から外を見た。だが小さなガラスのことで、そこには赤い灯に照らされた自身の姿が影のように頼りなく映っているだけだった。
 ボーン……ボーン……と、汽笛の反響が続いている。
 時計の針が零時を示した。
 アキラ少年はスイート・ルームの扉の前に立っていた。きちんと白セーラーを着て袖口のボタンまで留めていたが、手には何も持たず、その手はすでに汗ばんでいた。
 廊下の最奥にある部屋なので、一等客室に泊まっていてもここまでやってくる客はいない。だれに見られる不安もない。
 ボーン……その音をふたたび彼が聞いたとき、彼はノックをした。「お入り」と返事があり、彼は取っ手のそばの薔薇をかたどった硬い金装飾に触れた。もう一度、なかから声がした。
 「さあ、お入り。坊や」彼は扉をあけた。素早く身を滑りこませると、後ろ手に閉めた……。
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